仙台ネイティブのつぶやき(98)叔母さんとジャガイモ石

西大立目祥子

紅葉が散り始めた秋の庭で、老婆がしゃがみ込み小さなシャベルで何やら掘っている。冬野菜の苗なのか春の花の球根なのか、植え付けようと少し深く掘り進んだところで「えっ!」と声をあげた。ジャガイモじゃないの!なんで?こんな季節はずれに、大きなジャガイモが?

「そうしたら、石ころだったの。きれいに洗って、ほら、見てこれ」
叔母がいたずらっぽい表情で手渡してくれた石ころは、たしかに平たくつぶれてはいるが男爵イモのよう。ところどころにシミがあって、それがなんだかイモのくぼみのようにも見える。叔母はハハハと大声で笑う人ではないが、その眼の動きから、石ころひとつに心踊らせる気持ちがからだを満たしていくのが伝わってきた。クククという笑いが静かに奥深く広がっていく感じ。あいかわらず、楽しんでるねぇ。このとき叔母はそろそろ90歳になるころだったろうか。雲の動きや庭の木々、デイサービスで出る料理まで楽しむ好奇心は、土の中の石ころにまで及んでいたのだ。
石をテーブルに置き、ずいぶんと前からテーブルの上で存在感を放っている赤茶色のつややかなでゴツゴツした石と並べた。こちらは叔母が高校の教員時代、同僚の地学の先生からもらっためずらしい石だという。ジャガイモ石だね、といい合い、何度も手にとって2人でお茶を飲んだ。

この私にとってかけがえのない存在だった叔母が、盆が明けた翌日、逝った。94歳だった。だいぶ前から「死ぬっていう大仕事があるから気が抜けない」といっていたが、その大仕事を終えて、いまはどんな心持ちでいるんだろう。聞いてみたい気がする。
88歳で連れ合いを亡くした叔母は一人暮らしを続け、3度の食事をつくりプランターに野菜の種を撒き、機を織り、絵を描き俳句をつくり、親しい人にはハガキを出して近況を報告し合い、人の声が聞きたくなると電話をかけ…つまりは自立して自律的な生活を送っていたのだけれど、晩年の叔母の生活を彩ったものといえば、絵を描くことだったと思う。始めたのは70歳のときだった。

最初は近くの公民館で開かれている具象画の先生が講師の教室に通い、黒ペンで線描した上に水彩で着色するような真面目な風景画を描いていたのだが、ある先生と出会って変わった。それは、私が4年前に宮城県美術館の現地存続運動を始めたときに、いっしょに共同代表を務めてくださった早坂貞彦先生で、その教室に参加しているうちに、はじけたというのか化けたというのか自由を得たというのか、それまでとまるで違う絵を描くようになった。どうも早坂先生は、叔母の耳元で「絵は何描いてもいいの。何怖がってるんだ?」と何度かささやいてくれたらしい。

発病、入院、手術というような経験も大きかったのかもしれない。内部の何かが劇的に変わった。板に柿渋を塗りつけて抽象画のような茶色の画面をつくったり、軽やかな山のスケッチに自分が織ったウール地の切れ端を切って張り付けたり、パステルで描いた大木の幹にカラフルなたくさんの布を張り込んで具象とも抽象ともつかない絵をつくり出した。
宮城県中部にある七ツ森という7つの隆起した山々を「私、違う色に塗ってみたかったの」といってカラフルなスケッチを何枚も描き出したときには、心底驚いた。叔母の中にあるイメジネーションの源泉が出口を求め、固く閉じていた蓋を跳ね飛ばしたように思えた。

朝起きるとまず日の出をスケッチ。丘陵の中腹にある家からは、遠くに細く海が望める。そこに上ってくる太陽におはようといって、描く。その姿は毎日毎日違っているから、新鮮な驚きに満たされながら絵の具を水でとき色をつくっていたのだと思う。絵日記のように日の出のスケッチはたまっていった。
東北線の4駅南の駅まで、あるビール園の庭の池に咲く蓮の花をスケッチに通っていた時期もある。「午前中行って、レストランでナポリタン食べて、午後にまた描いて電車で帰ってくるんだよ」といっていた叔母は、80歳を越えていただろうか。なんだか憑かれたように描き続けていた。仕上がった何枚ものスケッチは、全面に大小さまざまな開いた花や蕾がちりばめられていて、見せられたとき私は反射的に草間彌生の水玉を思い浮かべてしまい、じぶんでも驚いた。叔母の絵には生命の明滅と律動があふれているように感じられ、あの水玉も生きるものの鼓動そのものだ、とはっとしたのだった。叔母と草間彌生は1歳違い。人は老いの中で、草木一本、鳥のさえずりひとつに、命の輝きを増幅してとらえられるようになるのかもしれない。

老いた叔母が木々に引き寄せられていったのは自然なことだった。庭のフェンスの外側、この丘陵に団地が開かれるはるか数百年前から立っていた桜の老木は、描き続けた大切なモチーフで、ともに長く生きる者同士という共感もあったのだと思う。この木にツタのような植物が絡みつき高く覆い尽くしてしまったときは、敷地の持ち主である高校に電話をかけ、「後ろに住んでいるものですが、お願いですからあのツタを払ってください。でないと桜が枯れてしまいます」と訴えた。数日後、高校の先生たちなのか、何人かがツタの根元を切ってくれたという。「よかった。やっぱり思ったことは伝えないとだめ」。私はあきらめず自力で困難を変えようとする叔母のこういうところが好きだった。

家からさらに坂を上りつめた先にある仙台市野草園には、週に何度も通って季節の山野草をスケッチし、いつも同じケヤキの前に陣取っておしゃべりするように鉛筆を動かした。ケヤキに向かって何をつぶやいていたんだろう、と想像すると楽しくなる。人と対話をするように話しかけていたに違いない。スケッチの帰りは必ず食堂に寄ってお茶を飲んでスタッフの人たちと二言三言ことばを交わすのが常。誰とでも気さくに話す叔母のまわりには、どこにいってもゆるやかで温かな交流が生まれた。

米寿を過ぎて坂を上るのが難しくなった叔母は、ダイニングテーブルに図鑑を広げて化石を描いたり、じぶんがこれまで描いたスケッチブックを取り出してきて描き直したりしていた。どこまでいっても描くことをやめない。早坂先生に会うと「叔母さん、この間、教室に来て、このごろ私、縄文土偶とお話できるようになったっていってたぞ。いやあ、すごいなあ」と愉快そうに笑う。私も「はい、知ってます」と答えて笑う。そう、教室の展覧会のために、叔母は土偶の本を息子にたのんで図書館から借り、来る日も来る日も顔がハート型のやら膝の上で手を合わせているのやら、縄文土偶を描いていたのだ。
 
そのうちスケッチブックに何やらにょろにょろしたものを描き出した。お茶を飲みにいって、めざとくそれを見つけた私が「何、描いてんの?」とたずねると、叔母はいった。「ミトコンドリア」。どう返したらいいのかとまどっている私に叔母が言葉を重ねる。「生命の源」。そのひと言に意表を突かれた。人は90歳を迎えるころになると、さらに新たな境地に達するに違いない。時空を越え、生命の誕生にまでさかのぼり、それまで見えてこなかった何かこの世に生きてあることの確信をつかむ。叔母が私の想像もつかない世界に足を踏み入れているのは確か。私の感慨なんかよそに、叔母は話を続ける。「早坂先生にも見せたの。なんだかかわいいミトコンドリアだなっていわれたから、一番かわいいのが私っていったよ。フフ」 

身体は衰え、耳は遠くなり、記憶だってあいまいになっていくのに、何か見えてくるものがある。でも何十年と生きた経験を持ってしても、その先にくる死がどんなものかはわかるようでわからない、と叔母の胸中を想像してみる。向かいあって食事をしていたとき、不意にこういったことがあった。「ねぇ、死んだら、私の見たもの読んだもの、90年の間に経験したことは全部消えてしまうわけでしょう?それって…」そこで、叔母は言い淀んだ。そのあと何かをいいたかったのではないと思う。身体という器に溜め込んできた経験が、死をもってすべて消えてしまう。その不可思議さに、言葉が見つからなかったのだ。そして私は、口ごもった叔母に何も返せないでいた。

一昨年から叔母の身体が急速に衰えた。一人暮らしは難しい、という叔母自身の判断で昨年夏に施設に入ったのだが、症状の進み方があまりに速いので検査を受けると「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」と診断された。話すことも書くことも難しくなり、50音の表を指し示してもらいながら何とか意思疎通をはかる日々。もう絵を描くことはできなくなった。

「多様性共生 冬の小庭にも」

叔母の俳句が愛読していた『明日の友』の特選に選ばれたのは、たぶんジャガイモ石を掘り出したころ。あちこち達者にスケッチに出かけられなくなった80歳代中ごろから、みようみまねで俳句をつくるようになり、投稿を重ねるうちに佳作に手が届くようになり、ついに最高賞に選ばれたときは「だって選者は黒田杏子さんだもの」と実にうれしそうだった。スケッチをとおして養っていた観察力が、俳句という表現を選びとったのかもしれない。

ALSを発症し、もはや絵筆やクレパスが持てなくなっても、頭の中で言葉を動かし句作は続けていた。だが、それを聞き出すのがなかなか難しい。五十音表をペンで指してもらいながら、息子や私がそばについて書き取るのだけれど、なかなか思うようにいかないもどかしさに、発する側も書き取る側もくじけそうになる。でも叔母は、イライラしたり癇癪を起こしたりすることはなかった。苦笑いのような表情を浮かべてやり直し、それでもうまくいかないとあきらめの表情になった。

絵を描き、俳句をつくり、誰に対しても温かな言葉をかけていた人が、その表現手段をすべて失う。残酷にも思える最晩年の心中はどんなものだったのか。週に一度、外出許可をもらい自宅に戻り、草木の茂る庭を味わい、遠くの海を眺め、ゆっくりと食事をすると叔母は少し元気を取り戻すのだった。表出はできなくなっても、もしかしたら頭の中のキャンバスに色を置き、句作ノートに言葉を綴っていたのだろうか。

亡くなったあと、娘が叔母が今年のお正月につくった俳句があったとメッセージしてくれた。

「にぎって書けと叱りつつ我が手を見ゆる冬の夕暮れ」

胸を突かれた。これは俳句じゃない、歌だ。叔母の胸中には嵐が吹き荒れていたのだろうか。もどかしさにさいなまれた感情は、もはや17文字には収まりきらなかったのかもしれない。そして、動かない身体を抱えながらも、あの人ならもしかするとさらなる新境地を開いていたのではないのか、とも思ったりする。亡くなってまだ2週間。もう少し時間がたったらその心中を想像できるようになるだろうか。カギは残されたジャガイモ石かもしれない。