札場という名の土地で育った私は、その意味を知らなかった。慣れ親しみすぎて知ろうとも思わなかったし、誰かに聞かれることもなかった。また、同じ名を持つ人にも土地にも会うことはなく、ことさらその名を意識することもなかった。
それなのに、四国の見知らぬ土地に来て、小さな町の外れにある住所表記の小さな金属片のなかに『札場』という二つの漢字を見た時には、なぜか衝撃にも似た驚きを感じてしまい、思わず「ふだば」と声に出して、立ち止まってまじまじとその文字を見つめた。
私はその辻の傍らにあったバス停の小さなベンチに腰をかけると、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出して、『札場』という漢字を入力して検索する。チラチラして見にくい液晶画面には次のような文章が現れた。
1・江戸時代、芝居小屋で入場券の札を売る場所
2・江戸時代、人通りの多い辻のや橋のたもとなどにあった、種々の布告や禁令の制札を立てておく場所
3・社寺でお守り札を扱う所
だとすれば、このあたりはかつて、それなりに繁栄し、芝居小屋があったか、お札を見る人々が集った場所だったことになる。もしくは寺社仏閣があったのかもしれない。
どちらにしても今は、かつての人通りなど微塵も感じさせないほどに人影はなく、ただただセミが鳴き、暑く湿気た空気が通り過ぎるだけの閑散とした田舎道である。
スマートフォンをショルダーバッグにしまい込み、代わりに取り出した水筒から生ぬるい水を飲み、一息吐くと、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。バスだった。田舎道を行くボンネットバスでもくればお似合いなのだろうが、やってきたのは最新式の電気駆動のバスだった。目の前でドアが開き、運転席に座っていたサングラスの運転手が、乗らないんですか、と声をかけてきた。歩いて、最寄り駅まで行くつもりだと伝えると、笑って、遠慮せずに乗れというので立ち上がる。料金を聞こうとすると、私の年格好をさっと一瞥して、無料で良いという。
「このバスも実験的に運行していて、町と国との補助金で走らせているんですよ。1年もしたら、無人バスに代わる予定なんです。六十五歳以上は無料なんですよ」
運転手はそう言って、席に座るように言う。
こちらは、その年齢まで二年はあるのだが文句を言うこともなく素直に運転手の真後ろの席に座る。
「ねえ、このあたりに来るのは初めてなんだけど、昔は芝居小屋とかあったのかい」
運転手は芝居小屋など知らないと言う。他の誰かに聞いてみようにも、客は私一人だった。なんの変哲もない田んぼのなかをバスはゆっくりと走る。冷房が効いていて心地良い。運転手の技術がいいのか揺れも少ない。
「そう言えば、JRの駅に着く少し手前に、古民家カフェができてね。そこでこの前、コンサートをやってましたよ」
「コンサート?」
「ええ、僕は知らないんだけど、だいぶ前にヒット曲もあって、そこそこ知られていた人らしくて、店の外にも人が溢れるくらいでしたよ」
さっき調べた札場という言葉が思い出され、運転手に教えられた古民家カフェの近くのバス停で降ろしてもらう。しばらく歩くと、普通の古民家にコーヒーとかかった看板が掲げられた店をすぐに見つけた。民家と言いながら、かなり大きな家で、もしかしたら古くからの庄屋さんだったのかもしれないと思わせる佇まいだった。母屋の奥には大きな倉もあった。
店の外から眺めていると、引き戸が開いて、若い店主らしき男が出てきた。
「こんにちは」
男がにこやかに声をかけてくれる。なんとなく嬉しくなって、こちらも頭を下げる。
「休憩していきますか」
「では、アイスコーヒーでももらいましょう」
私はそう言って、土間になった店内の案内された四人掛けのテーブルに座る。店内は天井が高く、おそらく二階建てだった土間の二階部分を取り壊して吹き抜けにしたのだろう。エアコンは効いているのだが、そこにかすかな風が吹き込んでいてきもちがよかった。
アイスコーヒーを持ってきてくれたのは、女性で、聞いてみるとさっきの男が旦那で、夫婦でこの店を切り盛りしているという。
しばらくすると、旦那のほうが小さく切った水菓子を持ってきてくれる。
「女房の実家が和菓子屋をやっていて、送ってくるんです。サービスなんで食べてください」
食べてみると、上品で口当たりのいい水ようかんだった。
「少し前にここでコンサートをしていたそうですね」
私がアイスコーヒーを飲みながら聞く。
「そうなんです。よくご存じですね」
「バスの運転手さんから聞きました」
「私が若い自分に聞いていたフォークデュオがいて、たまたまSNSでつながって、曲が聴きたいと思っていたら、ここでコンサートをやってくれることになって」
聞いてみると私も知っているグループだった。
「この先にある、札場という場所からバスに乗ったんですが、この家はもともとお芝居とかやっていた場所なんですか」
私が聞くと、夫婦は驚いた顔を見せて、それはないですね、と答える。
「ただの農家だったと聞いています。その昔は造り酒屋だったこともあるそうですが。どちらにしても、私たちは移住組でこのあたりには縁もゆかりもないんです」
「縁もゆかりもない場所で、商売って出来るもんなんですね」
私が思わず言うと、旦那の方が少し苦笑する。
「ほんとですね。怖いもの知らずというか」
「いや、そういう意味では」
「いいんですよ。ほんと無謀なんです」
今度は、奥さんの方が柔和に笑う。
「実は私は兵庫県の生まれなんですが、生まれ育った場所が札場という土地だったんです。それと同じ地名をさっきこの先で見つけて、驚いてしまって」
私が言うと、旦那は少し大げさくらいに驚いて見せた。
「そうなんですか。それは私たちよりも縁があるじゃないですか」
旦那がいうと、奥さんのほうも笑う。
「札場というのは、芝居小屋の入場券を売っていた場所だってスマートフォンで調べると書いてあったんですよ」
そういうと、旦那が自分のスマートフォンを取り出して、何か入力している。
「本当だ。あとは、なにかを布告するときの札がかかっていた場所らしいですね。あ、寺社仏閣が合った場所という意味もあるらしい」
旦那の言葉を聞くと、奥さんが、
「そう言えば、この店の裏手に参道があって、小さな神社に続いているって、大家さんが言ってたわよね」
「ああ、言ってた言ってた」
店の中からは見えないのに、三人とも、店の裏手のほうに目を向ける。
私はアイスコーヒーの残りを飲み干すと、礼を言って立ち上がろうとする。すると旦那が、それを制して、
「送っていきますよ。軽自動車ですけど」
「いや、お店があるのに、それは悪いですよ」
「いや、これも何かの縁だから」
そう言うと、彼は車のキーを取り出して笑う。そして、奥さんに声をかける。
「そろそろ店も終わりの時間だから、一緒に駅前に行こうよ」
「そうね。あ、だったらその前に、裏手の神社に行ってみましょうよ。まだ行ったことがなかったし」
そういうと、三人で裏手にある神社に行くことが決まった。札場という土地の名が、その神社に由来するものなのか。それはわからない。けれど、私が札場という場所に生まれつき、縁もゆかりもないはずの場所で札場という土地の名前にであったことは、紛れもない縁なのだと思い、若い夫婦が楽しそうに話す車の後部座席に、私は妙にワクワクしながら乗り込んだのだった。