仙台ネイティブのつぶやき(12)見知らぬ街

西大立目祥子

 ここ3年ほどだろうか、身近なところで見慣れた建物が壊され新しい建物が立つということが相次いでいる。東日本大震災から1年を過ぎたあたりから顕著になってきた。

 街歩きのガイドのとき、いつも案内していた大正4年建築の金物屋だった町家は壊され更地になった。4本の井戸があると聞いていた豆腐工場は解体され、いま大きなマンションが建設中だ。通りで最後の一棟だった小さな土蔵造りの町家は、ハウスメーカーらしき平屋に置き換わった。

 震災は何とかまぬがれたのに、震災後、政府が解体費用を持つという政策が打ち出されてから、古い建物がつぎつぎと姿を消し始めた。お荷物に感じていた傷んだ古家がタダで解体できるなら、と見切りをつけたということなのだろうか。古い建物をあっちに見つけてはよろこび、こっちに見つけては訪ねるという活動をしてきた私には何ともさびしいではあるのだけれど。

 この感じには既視感がある。

 四半世紀前のバブル経済のころだ。大正から昭和初期にかけて建てられた、年月を経た下見板張りに瓦をのせた古い家々が軒並み壊されていった。地元の大工たちが建て、地元で焼いた艶のない黒い瓦をのせた家々だ。仙台は戦災にあって中心部の多くを焼失しているけれど、空襲をまぬがれていたそうした戦前の建物が、まるで狙い撃ちにあったようだった。

 木造の古家の何とはかないことだろう。朝、出勤のとき見た建物が、夜にはあっけなく解体され上にはパワーシャベルがのっかっている。2日目に残材が片付けられて、せいぜい3日で更地。転売された土地には、ビルやマンションがあっという間に立ち上がる。ちょうどそのころから、まちへの関心を持ち始め、城下町の骨格やら屋敷林の名残やら街道沿いの町家やら…なんてことに興味をふくらませていただけに、やるせない、どこか傷つけられたような気持ちでため息をついていた。

 でも、世の中は好景気で、多くの人はそうした変化を歓迎しているように見えた。地上げ屋も横行していた。勤めていた会社の近くにあった老夫婦がやっていた駄菓子屋が壊されたときは、「こういう木造の建物は目障りだから、建物は解体し土地は売った方がいい」という男たちがやってきたという噂を聞いた。仙台市郊外の里山で地域づくりの手伝いをしていたときには、素性のわからない男が一人、会社にやってきた。
上司が対応したが何とも拉致が明かない。2時間ほども経ったころ、こういったのだそうだ。「ゴルフ場開発を計画しているが、反対している住民がいる。地域づくりの力で、その人たちを説得してほしい」

 そして、いま、仙台は再び大きな好景気の中にあるのだろう。大震災後、三陸の町や浜では軒並み人口流失が続いているけれど、離れた人たちの行き先は多くが仙台なのだ。仙台だけが、震災後、人口増を続けている。こちらで暮らしていた息子の家族に呼び寄せられてという老夫婦もいるし、3世代同居から息子夫婦と孫たちだけが離れて仙台へという例も少なくない。毎日ように、朝刊にはどっさりと不動産のちらしが折り込まれてくる。つぎつぎと高層マンションが立ち、古い家は壊されて新しい戸建て住宅に変わる。ついこの間も玄関の呼び鈴が鳴るので出たら、ハウスメーカーの営業マンが立っていて、近くの空き家のことをたずれられた。

 慣れ親しんだ街並みは失われ、見知らぬ街があらわれてくるのだ。歩いていると、ここにいつこんな大きなマンションいつたったんだろうと気づかされることが増え、新しい建物が立つと以前どんな建物だったかを思い出すことは難しくなる。

知らない空間の出現。何ともなじめない、違和感のある空間の誕生。横断歩道で信号待ちで向かい側のビル街をぼぉっと眺めながら、ときどき思う。いったいここはどこ?
ほんとに仙台なんだろうか、と。

 そしてこうも思う。バブル経済から25年とちょっと。街並みはこのぐらいの時間の幅で大きく変化するものなのだろうか。そしてこういう大きな変化は、自分の生きてきた時間が長くなるからこそ実感されるのだろうか。戦前の木造家屋の消失を目の当たりにした一度目の変化。都市のすみずみまでを開発し尽くすようなこの二度めの変化。もしかすると、その前、子ども時代にも大きな変化を見ていたのかもしれない。田んぼがつぶされ宅地化されていく高度経済成長期の激しい変化を。

 この先、もう少し長く生きるとしたら、三度目の、いや四度目の変化に立ち会うことになるのだろうか。そのときには、仙台の街は私にとってはもはや仙台の街ではなくなるのかもしれない。暮らす中で親しんできたなじみの風景や建物を見つけることは、ますます難しくなるだろう。

ここは仙台じゃない、知ってる街じゃない、といいながら、きっと私は街を徘徊する老婆になる。