豪快で、ユーモアがあり、賢くて、結束が強い。海の民ってこういう人たちのことをいうんだ。そう教えられたのは27年前、宮城県唐桑町でのことだ。唐桑は、ぎざぎざしたリアス式海岸に縁取られた宮城県の最北東端の小さな半島である。
1988年、建築家の石山修武さんが、小鯖(こさば)という浜にある古いカツオ節工場を竹の櫓と大漁旗でおおい劇場をつくってお祭りをやろうと、図面を引っ下げてやってきて、準備が始まった。劇場を造作するのは唐桑の若い衆で、ひょんなことから私もこの祭りを手伝うことになった。
見るもの、聞くこと、出会う人…すべてが初めてのことばかり。それまでの私の小さな世界は完全にぶっ飛んだ。中でも、準備を手伝いに毎日浜に姿を見せる漁師さんたちの潮風に吹かれ続けてきたような風貌とその話には、心が踊った。みんなマグロ船に乗り込み世界の7つの海を股にかけてきた人たちだ。確か当時、唐桑町の人口は8500人ぐらい、そこに1300人もの遠洋船の乗組員がいた。
ある人は「パプアニューギニアの小さな島で酋長をしていた」と話し、鳥の羽根をいっぱいつけた南の島の衣装を着込んだ写真まで見せてくれた。何でもマグロ船に乗って寄港したとき、酋長の娘さんの病気を直してやったら名誉酋長になったのだそうだ。ある人は「もと飼っていたオウムはスペイン語しか話せなかった」といい、またある人は「唐桑でいちばん高い早馬山では、漁船員がこっそり放したアルマジロが増えに増えて困って、山にアルマジロを釣りに行くのだ」といってカラカラと笑った。「南米に7人の子がいる」と噂される人もいた。もちろん、そこには漁師のホラ話が混じる。真偽のほどはわからないけれど、ホラ話には日常の風景を一気に飛び越えるような爽快感がある。ホラ話が披露されると、煮詰まっていく日々の暮らしに、一瞬、気持ちのいい風が吹き渡るのだ。祭りは「唐桑臨海劇場」という名で5年続いた。
津波”ということばを、しかも体験に裏打ちされた津波の怖さを教えられたのも唐桑でだった。そのころは、まだ浜に昭和8年3月に起きた三陸大津波を体験した大正生まれの人たちが健在だったのだ。「前の日に降り積もった雪を洗いながら電柱を超す波が浜に押し寄せてきた」「家も納屋も津波で持っていかれて、残ったのはタンス一つだった」「桑の木に着物が引掛かって命拾いした人がいた」「波がずっと沖合まで引いていって、すりばち状の海底に、魚が飛び跳ねてるのが見えた」…。浜の古老たちは、口々にその怖さを訴えた。中には明治29年に浜を襲った明治三陸大津波の被害を伝え聞く人もいた。
波が高く上がり浜を襲う。その恐ろしさを繰り返し聞かされても、何ともイメージはできなかった。でも、大津波が壊滅的な被害をもたらすものであり、特に三陸のように海岸深く切り立つV字型の岩場では波の勢いが何倍にもなることは、理解できた。「津波の怖さだけは、伝えなくてはわがんね」という人もいた。話を聞いてから唐桑を歩くと、あちこちの浜に、見上げるような大きな石碑が立っているのに気づいた。坂の途中や屋敷裏の山への登り口に。そこには、子どもでもわかるように簡略な一文が刻んである。「地震が来たら、津波の用心」。昭和8年の大津波のあとに、立てられたものだ。圧倒するような石の大きさに人々の思いがこもる。
その後、祭りの準備に奔走した若い衆は「まちづくりカンパニー」という会社を起こし、魚の配達を始め、地域資源を紹介する冊子づくりを行ない、町が進める山林の開発計画の反対運動まで展開した。つきあいは続いて、私はこの会社になけなしのお金を出資するはめになり、さらに仙台での魚の宅配まで手伝うことになった。若い衆は、「俺たち金がねえからっさ、悪いねえ」といいながら特段悪いとは思っているふうではなかったけれど、でも仙台にくるときは、カツオだの1メートルもあるようなカジキマグロだのを土産に持ってきてくれた。食べるために、私は出刃包丁を手に入れ、下ろし方を覚え、ガスレンジでカツオのたたきをつくるようになった。
そうやってつきあいは続き、広がり、何人ものいい友人を持つようになって、若い衆はみんな中高年になって、あの日がきた。2011年3月11日。激しく揺さぶられ、雪が降り出し、電気は止まり、携帯はつながらない。夜中ずっと続いた余震の中、ラジオをつけて「大津波」というアナウンスを聞いたとき、20年間眠っていた古老たちの津波の話がよみがえった。あの恐ろしい津波が仙台平野にまで上がったというのは衝撃だった。唐桑は?小さな入江や深い谷を持つ浜は?
ひと月半が過ぎ、ようやくガソリンが安定的に手に入るようになって、私はぼこぼこの東北自動車道を走り、みんなに会いにいった。
小鯖をはじめとして、浜はすべて壊滅し家々はがれきと化していた。いや、正確には、がれきが散乱する浜と、すべて流され空っぽになったような浜といろいろだった。その空っぽになった浜に、あの昭和8年の石碑が意地を見せるかのように倒れず立っている。浜の人は、その石のわきを駆け上がって命を拾ったのだ。
家を丸ごと流された友人もいたが、みんな無事だった。そしてもう働いていた。避難所を運営する地域のリーダーとして、物資を手渡すお世話役として。中には遺体の確認に奔走する友人もいた。そして、憔悴した表情を見せながらも、それでも笑っている。互いにツッコミを入れながらホラ話を繰り出しながら笑っている。いや、いま思えば、あれは笑おうとしていたのだろうか。どうしようもない目の前の風景に、違う風を吹かせるために。
何という人たち! 浜は強いなあ。私は逆に励まされたような気持ちで帰ってきた。
いま、浜では防潮堤の建設が進められようとしている。高さは約9メートル。もう海はまったく見えなくなる。これによって住民の命と財産を守るというのが、宮城県の主張だ。住宅や店舗が集積する街場でも小さな浜であっても、同じように巨大なコンクリートの壁がつくられていくのだ。たとえば唐桑の鮪立(しびたち)という浜の場合、人々の反対によって、ようやく県は高さを1メートル下げたのだが、建設計画自体は見直されない。防潮堤については、あちこちの浜でもめにもめ、ついには賛成派と反対派の対立で浜の人々が分断されるようなことまで起こっている。結局のところは、復興を進めるために反対派が譲歩し、建設をのむかたちで、計画は遂行されようとしているのだ。
この夏、一年ぶりで唐桑にいった。あちこちの浜に赤い三角のフラッグをつけたロープが張り巡らされている。あれは何? と聞いたら「あの高さまで防潮堤が立つの」と教えられた。もう海は見えない。いや、波の気配を感じることさえできないかもしれない。
海の民は、海を見ずに生活できるんだろうか?海の色、満ち引き、潮の匂い…庭先のように海を見てきた人たちのこれからが、気がかりだ。