生と死への距離

大野晋

先週は、自治体の犬の殺処分に関する意見を見ていていろいろと考えさせられた。それといっしょに、あるオーガニックを売り物にした企業のフカヒレ批判を見ていて、とても嫌になってしまった。

私は、なんでもかんでも、動物を殺してしまうことには賛成できない。しかし、「絶対に殺してはいけない」と殺さないことを目的にした主張には違和感を覚えた。それは「なぜ、殺してはいけないのか」という考えや「では、自分はそうした死の上に生きているのではないか?」という現実が見えないからだ。いや、おそらく、そういう主張をする人に殺してはいけない理由を聞くと「可哀そうだから」といった言葉が出てくるのだろう。しかし、かわいそうという単語の先に本当に「死」を直視しているのかというとやはり疑問なのだ。

現代は、生と死を、多くの都市市民の生活から遠ざけて動いている。運よく、自分の身近なところで生を得る瞬間や死を迎える瞬間に出会うこともあるかもしれないが、多くの人の日常では、多くの食物は収穫され、加工された状態で提供される。本来であれば、毎日、口に入れる豚であろうが牛であろうが鶏であろうが、直前まで生きて、世話をしていた生き物の死を受け入れて、自らの生へと供されていることを感じるのだろうが、多くの現代人は肉に加工されたものを見て、それが数日前まで生きていたどこかの動物であったことなどは感じることもないだろう。だから、自分以外の者の死に対する呵責を感じることなく、日常を送っているのだろう。

ところが、それが、身近な動物の死となると、いきなり、「死」はかわいそうに変化し、殺すべからずとなってしまう。ところが、残念ながら、毎日、食べている牛の死も、保健所で処分される犬の死も、動物実験で実験に使用される実験動物の死も、それらは何ら違いはないのだ。あるのは、観念の世界にあるおかしな価値観だけである。

そんなことを考えて、そういったことが起きる理由のひとつとして、現代人が身近なところに「生」と「死」という実物を自分の肌感覚として持っていないからなのではないか?という考えに至った。本来であれば、犬の死も、牛の死も、豚の死も、鶏の死も同様に感じなくてはいけないはずだ。もう少し付け足せば、サメの死も、クジラの死も同様なのだ。そして、動物だけでなく、植物の死も、自然の死も、生態系の死も、同様に感じるべきだと思う。

オーガニックといっても、実際には多くの問題を抱えていて、下手をすればオーガニックじゃない方が他の動植物への影響は少ないのかもしれないのだ。しかも、大規模農園は多くの自然破壊の上で成立している。それは、現代の矛盾に満ちた現実である。そして、矛盾をきちんと感じたとすれば、私たち人類が生きるために、必ず起きる他者の死と、その死の上に人類というものが生きている現実を直視するはずである。無駄に殺していいはずはないが、殺さずに済むものでもないのだ。だからこそ、我々は、他者の生に気を配り、死への尊厳を讃えたうえで、自らの生きていることの業を感じて、それでも生きるしかない。

なんとなく、「コロスノハンタイ」という主張に、そのうすっぺらさを感じて仕方なかった。殺すという事実を直視したうえで、それがどうしても必要だったのか、無くすためには打つ手はなかったのか?を考えるべきであり、少なくするためにどうすればよいのかを考えるべきなのだ。そのために必要なのが、「生」と「死」の直視であると思っている。