抽象化とシステム

大野晋

最初は「きけんなものはきけん」と題して、今回は少し工学的な話にしようと考えていました。題名のお話が少し誤解されているようなので工学的なバックボーンを簡単に話をするはずでした。

この話はざくっとこんな感じです。

工学的に「きけん」を考えるとき、危険性のあるものはあくまでも危険なものとして捉えます。これは炎もそうですし、毒物、ラジオアイソトープなどもそうです。忘れてはいけないのは、高速に移動する物体もあくまで危険物です。しかも、人間が作るソフトウェアなんてもっとも危険な存在です。では、私たちは危険なままなものを使っているのでしょうか?YES。あくまでも、危険なものは危険です。

ところで、こうした危険物を問題を起こさせないように使うのが工学です。危険なものでも危険な状態にせずに安定した状態で使っている限りは危害を被りません。そこで、危害が及ぶような状況を作り出さずに安定的に運用すること:これが工学の目的で、このために最大限の努力を払います。

こうした中で、ラジオアイソトープは比較的安定化の容易な扱いのやさしい物質です。なにせ、そこらへんにゴロゴロとしているわけではないので検出は容易ですし、一番危険の大きい爆発的なエネルギーを発生させるためには特殊な条件が必要です。その他は問題を引き起こすための閾値が管理値よりも桁違いに大きいので問題も起き難いでしょう。ただし、管理のための基準と実際の危険状態の閾値とが混同されやすく、政治問題化するために、おかしなふうに厳密な管理が要求されることが問題ではあります。そうしたなかで、安全神話ができたのなら、それは設計者、運用技術者にとってはある意味、誉められはしても、それをネタに貶される事は普通はないんですけどね。その点、皆さん騒ぎませんが、どんどん巨大化していくソフトウェアの方が大きな問題だったりします。でも、まあ、政治問題化していますから、Y2K騒ぎと一緒で、マスコミがバラエティ化させて追い回すのでしょうね。当時苦労した身としては、当分、しんどいだろうなあと思います。

ここまで考えて、少し考えを改めました。だから、ここからは少し別の話になります。

「システム」に関する考察を昨年末から今年の年初にかけてまとめました。昨年の夏あたりからやっていると思い込んでいましたが、過去の水牛の文章を読んでいたら、なんと2010年から足掛け3年やっていました。もともと、バックボーンはソフトウェアの開発なのですが、構築するシステムを追いかけているうちに社会学にぶつかってしまいました。システム論は現在は社会学に分類される分野ですが、科学の再構成という意味では現代科学の基礎に位置する考え方だと思っています。

さて、このシステムですが、実はその基礎として、「抽象化」という仕組みを内在しています。

一見、ごちゃごちゃに見える社会ですが、それをひとつひとつの因果関係に紐解くことで仕組みが見えてきます。この因果関係を紐解くことが現代の科学(広義の)なわけで、そういった意味では、フィロソフィーという枠組みの中でナチュラルもソーシャルもそれぞれで原理を明らかにしていっているわけです。まあ、ごちゃごちゃの最たるもののひとつが「社会」なわけで、そうした意味ではシステム論が社会学の分野に属していても別におかしくはない。まあ、我々がフィロソフィーという大きな枠組みで考えられずに、「学」の狭い枠にハマっているから理解しにくいだけだと言えるかもしれません。

理系、文系なんて小さな枠に囚われずに、共通する概念を概観することによって見えてくる世界があるということでシステムをめぐる長い長い思考の旅はまだ終着駅を迎えそうにもありません。

そういえば、音楽も、多くのリズムや旋律が複雑に絡まってできあがっています。ホフスタッターの著作に「ゲーゲル・エッシャー・バッハ」という数学者、画家、音楽家を巡る思考の旅を描いた本がありました。以外に、システムと抽象化をめぐる旅も、同じように音楽や画にたどり着くのかもしれません。

たしか、優れたコンピュータ・アーキテクトには左利きが多くいます。そして、子供時代に珠算をやった経験を持つ者も多いですね。抽象化されたシステムを認識するためには、頭の中で空間を認識する力が強い必要がありますが、それには芸術をつかさどるといわれる右脳の活動が必要なように見えます。

案外と無意味に見えるような領域でも強く繋がっている可能性はありますね。そういえば、優れたフルート奏者に、工学系の人間が多くいるのは何か関係があるのでしょうか?