降りてこない

大野晋

さて、今月のテーマはなににするか?
いつもは、なんとなく頭の中に浮かんでくるのだが、今月は全く降りてこない。ま、この原稿を書いているのが月の中なので、まだ、頭の中が煮えきっていないせいなのかもしれない。しかし、残念ながら今月は月末に引越しがあって、余裕がないから仕方がない。ということで弱りきっている。ということで、つれづれとなく書き綴ってみよう。

今回、うん十年ぶりに引越し荷物をまとめていて気づいたのだが、思いのほか、CDの枚数が多かった。もっと、本の冊数が多いと思っていたのだが、もしかするとそれに匹敵するほどの枚数があり、封が開いていないものも何十枚も混じっている。本についてはパッケージが開いているから、買うときにぱらぱらとめくって、資料として有効であるとわかれば、置いておくことで記憶の代わりにするのだが、CDに関しては開けて聞かなければ意味がない。だいたい、残りの人生聞いても聞ききれるのかどうかさえも怪しかったりするから困ったものだ。新しい環境に合わせて、聞く環境も新調したいと思うが、どうなるのか?

最近はネットオーディオなるものも出てきて、ナクソスのように、iTuneでなくてもオンラインで音楽を配信するらしいから、聞ける音楽はどんどん増えている。さて、一生にどのくらいの音楽と親しめるのか、人生の競争のような状況になりつつある。まあ、自分で演奏しないからまだまだマシなのかもしれないのだけど。

そうそう、最近では、録音の数が尋常ではないくらいに多く、収拾が取れなくなりそうなので、なるべく、近寄らないようにしていたジャズの分野にとうとう接近してしまった(随分前から聞いてはいるが、コレクションは少なかった)。こうなると、本棚よりもCDラックの方が今後問題になるかもしれない。ま。音楽のない生活には間違ってもならないだろう。

家の打ち合わせをしていて、ペレットストーブなる新兵器を知った。木材を粉砕したものを小さくまとめたもの(ペレット)を燃料にしたストーブで、空気を吹き込んで燃焼させると、薪ストーブとは違って、ほとんど煙や灰が出ないらしい。しかも、燃焼状況が見える(火が見える)のは薪ストーブと一緒で、扱いは石油ファンヒーターに近いことから、市街地で暖炉を置きたいという要求にも対応できるというのが売り文句だ。

石油は過去の植物が堆積したものが高圧力で長い年月をかけて変化したものだから、資源としては枯渇してしまう危険がある。一方で、現在の森林を構成する木材を切って使うというと自然破壊のように聞こえるかもしれないが、日本の現状の森林、その多くが人間が植えた人工林が発育途上のものが多く、その健全な発育を促すための木の間引き(間伐)が必要なのである。ところが、木材価格の低迷で、間伐をしようにも切り出した木材の用途がなくて、売って間伐費用の足しにすらならない状況で、日本の山が荒廃になっている。むしろ切って欲しいが切れない状況がそこにある。まして、自然災害とは言うものの、管理の悪い森林が原因の土砂崩れなどの災害を引き起こしているのだから、問題はいかに国産材を利用するかにある。そういったことを考えると、なるべく、そうした樹木の活用先を考えてやるべきであり、森林由来の燃料は、特に国産材の燃料は、なるほど、よい利用方法だと合点した。なにより、薪は都会では置き場所に困り、灰や煙、火の粉などが心配になるが、ペレットはそうした心配がないのがとてもいい。

本来は、石油消費の代替手段として、都市部での燃料の供給が安定して、メンテナンス体制が確立した上で、導入に対するインセンティブが準備されればもっと普及するだろうと思うのだが、現在は長野県など、寒冷な森林県にそのような体制は限られている。とは言っても、都会で考えるよりも長期に、しかも普及が進んでいるというのが驚きでもある。年何回も信州を行き来する私には、燃料の入手も可能で、とても魅力的なおもちゃなので、秘密で導入してしまおうか?などとも考えている。ところで、昨年末に静岡の山奥の旅館のロビーにあった囲炉裏端でも実感したが、どうも人間は特に寒い時期に火を見ているとうっとりとするように感じる。そうしたのんびりとした時間をすごしたいという側面もあったりもする。そういえば、奥鬼怒温泉郷の最奥のランプの宿の薪ストーブの前はとろとろとしてよかったなあ。

もう40年くらい前、都内の某所(23区内)で、実は薪で風呂を沸かしていた経験がある(銭湯ではない)ので、木の燃える様子にノスタルジーを覚えるのも特別なのかもしれないけれど。

ということで、着々と秘密基地の実現に向けてまい進する毎日である。青空文庫の資料を置いてもびくともしないくらいに広く(内緒だけど)したいと、屋根裏を全部使ったロフト収納だとか、そういった話はまたおいおいということで。

先日、帰宅の際、寄り道をして(といってもいつもどこかによりながら帰るのだけれど)ちょっと先の地下鉄の駅から帰ろうと、ふと駅の入り口の横にある小さな街の書店にふらふらっと立ち寄った。何の気なしに書棚を見ていると、電子書籍のコーナーにボイジャーの荻野さんの本が乗っていた。結構、いろいろなところから聞いたような「電子書籍、初めて物語」が書かれていたが面白そうなので津野海太郎さんの本と一緒に購入した。

世の中は昨年のキンドール、iPad以来、電子書籍ブームということらしい。ブームなどといっても、青空文庫は10何年ずっと書籍の電子化をしているし、それを使って、PCやPDAなどで読む試みはずっとユーザレベルでは続けられてきた。一方で、海の向こうでも書籍の電子化は続いていて、電子、コンピュータ系の学会の雑誌や論文誌などはすでに電子提供であるし、過去の論文の検索参照もインターネット経由でできるようになっている。一方で、アマゾンでも結構前から電子書籍を扱って来ている。要は、日本の出版と電子機器メーカが電子出版というキーワードで、新しい販路があるかもしれないと動き始めたということなのだろう。ただ、今までの流れだと、どこも新しい流れを得られずに尻切れトンボに終わるような気がしてならない。しかし、どうして日本の電子書籍は1冊あたりの料金が高いのだろうか?

魅力的な電子コンテンツであるか、または安価であることが電子書籍で成功する条件のように思う。魅力的でないコンテンツに限って高額だったるするのが日本の電子書籍事情のような気がしている。再販制度に乗っかって、文庫本以上の価格で電子書籍を出しても売れ行きはいまひとつなのではないだろうか? いま、いちばん求められているのは、本を電子化することよりも、刷れば刷っただけお金に換わる再販制度から、売れただけの収入を得られる真の商取引への出版界の脱皮なのではないだろうか?

ということを地下鉄の中で考えた。
変化することは難しい。引っ越し荷物をまとめながら、つくづく、そう思う毎日である。