雨の日

大野晋

それはひょんなきっかけだった。

このところ、会社の仕事で人間関係に疲れていた。午後から、忘れていた横浜のセミナーに出席できることになった。その日はコンサートの予定が入っていた。しかし、夕方、横浜にいるとどうしてもチケットは捨てなければならない状況だった。午前中はもっていた天気は夕方から急に崩れ、みなとみらいについたときには雨になっていた。

地下の深いところにあるみなとみらいの駅から地上へと長いエスカレータで上った。何度となく見た見慣れた光景だったはずだけれど、ここ数か月は来ていないと思った。ショッピングモールの2階に出るとそこには大きなクリスマスツリーが立っていた。毎年、点灯式で有名なツリーだったが、今年もそこに立っている。その横の階段をすり抜けて、港の方に歩いていくと、ふと外が暗いのがわかった。空を見上げると大粒の雨がぽつぽつと降ってきていた。そこここに大きな水たまりができている。その中を通路の端の方に設えられた小さな屋根の下を国際会議場へと向かう。真ん中に大きな空間があるのに、歩いているみんなが端の方を足早に歩いている様子が何となくおかしかった。

2時間ばかり経って、会議場から外に出ると来た時よりも激しく雨が降っていた。ふと、久しぶりに中華街に寄りたくなり、足早にみなとみらいの駅へと急ぎ、中華街の駅まで地下鉄に乗る。

初めての中華街の駅はなんとなく小さく、なんとなく暗く、そして雨の匂いがしていた。あてずっぽうに通路を選び、長い長い地下通路から外へと階段を上った。外に出るとあいかわらず雨が降っている。思わず、違う街に出てしまった感覚を覚えたが、あたりを見回しながら、場所の見当を付ける。意外と中華街の入り口から遠くない場所にでてきたようだった。雨の中を足早にあたりを付けた方向に歩くと、ほどなく、見慣れた中華街の入り口が見えた。子供の頃から何回となく、見慣れたはずの入り口が夜の闇の中で雨に濡れて、違う場所のように見えていた。

さすがに平日の雨の夜となると、いつもは人の多い中華街のメインストリートも人出はいつもよりも少ない。といっても、そこそこに多い人の中をかき分けながら、お目当の路地まで急いだ。いくつかの見慣れない、最近できたような店の前を過ぎると、そこに時間に忘れられたかのような看板が上にかかった路地がでてきた。人通りの少なくないその路地に少し入ったところにお目当の店がある。戦前からあるような小さな古い店構えで、きらきらとまばゆいばかりの他の店に比べると見劣りのする外見のその店は、少し前は長い行列ができるのが普通だったが、最近は比較的ゆったりと入れることが多い。暗い店先から明るい店の中に入ると、いつもの老女主人が迎えてくれた。

この空間もいつまで続くのかわからないが、できるだけ長くこの魔法のような場所が残ってくれることを祈りながら、いつもの肉バラそばと焼売を食べながら、外の景色を見ていた。店の中だけが、時間の流れから取り残されているような錯覚を覚えるのが、なぜか面白かった。

外は雨。秋の少し冷たい雨が降っていた。