しもた屋之噺(180)

杉山洋一

今月半ば、日本から戻ってきたばかりの頃は、最低気温零下2度、最高気温2度という日々が続いていて、日中も水分をたっぷり吸った霧の帳が一面を覆いつくしていたのですが、ここに来てすっかり寒が緩んで、澄み切った青空とともに、10度12度という暖かさに驚くばかりです。
家人が息子を連れてリグリアへ出かけたので、日没後自転車を飛ばして一番近い魚屋へ惣菜を買いに出かけました。一番近くとは言え、拙宅から片道15分近くかかる、運河の船着き場広場の常設プレハブ魚屋。
クリスマスが終わったとは言え、人通りは普段に比べてずっと少なく、でも運河の周りはまばゆいばかりのクリスマスの電飾が果てしなく続き、クリスマス休暇で車の通行量がずっと減ったせいか、空気も澄んで夜空の星もよく見えます。
建ち並ぶアパート群の窓の灯りもまばらで濃い闇が一面に広がり、ミラノに居残っても、思わず夜のしじまに吸い込まれそうになります。

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 12月某日 仙台ホテル
「第九」練習終了。この作品で自分が何をしたいのか自問自答を繰返す。強弱やアーティキュレーションなど、使用する楽譜に則り細かく解釈を施すのに比べ、原典版であってもベートーヴェンの速度指定を厳守は、最初からあまり期待されていない。余りに無茶な速度指定だから仕方ないが、それでも運弓の指示など何らかの関連も見受けられなくはない。
速度を楽譜指定と変えれば、運弓は当然大幅に変更せざるを得ない。それらに関して目をつぶり、強弱やクレッシェンドを厳密に規定し、ここはスタッカート、レガートと固執するのも矛盾を感じる。何の疑念も持たず原典版を使用するのもどうかと、原典版を眺めつつ改めて思う。
楽譜のアーティキュレーションを解釈の中心に据えれば、楽譜の表面を中心とする演奏しか出来ない恐れもある。自然に湧き出た音楽が楽譜のアーティキュレーションをなぞって成立すれば理想的なのだろうが、音楽が未だ身体に消化されていない。

作曲者が望んだ演奏が理想だと誰が決めたのか。環境が全く違っても作曲者の時代の音の再生が理想なのか。作曲者が望んだ演奏は何故一種類に限定できるのか。オーケストラもそれぞれ伝統を培かっていて、例えば各オーケストラにそれぞれの「第九」の歴史もあり、まっさらの原典版で演奏すれば消去される表面上の問題でもない。堂々巡りを反芻しつつ、練習をすすめる。オーケストラはとても協力的で、先輩後輩の真摯な叱咤激励に深謝するのみ。
夜、駅近くの中華料理屋で注文を待っていると、スポーツ新聞を広げていた隣の男性が突然「俺は苦手だから」と沢庵を差し出してくれる。
インターネットでボリビアの新聞を読みつつニラレバ定食に舌鼓を打つ。コロンビアで燃料不足により墜落した日系パイロットの遺体が郷里に返還され、政府航空会社関係者一同が「パイロットは死せず。ただ高く飛んでゆくのみ」と書かれたシャツを着て迎えたとある。
軍神と呼ばれ往路分の燃料のみ積んで飛びたったどこかの戦闘機のようだと、少し涙ぐんだのは自分が困憊していたからか。ウルグアイの友人がボリビアはとても美しいが、経済は破綻し疲弊しきっていると話した。このフライトもボリビアを挙げて喧伝していて、国威発揚も兼ねていた辺りも似ている。

 12月某日 三軒茶屋自宅
「第九」演奏会終了。オーケストラとは室内楽のように対話できたし、独唱も合唱も音楽に伸びがあって素晴らしかった。11時半からのドレスリハーサル直前まで譜面を広げていたので、タクシーを拾う際指揮棒を紛失した。ホテルに電話し探して頂くが結局見つからず。自分の指揮棒は構わないが、ケースには都響で頂いたジャン・フルネさんが最後の演奏会で使った指揮棒が願かつぎで入れてあって、後悔先に立たず。
結局チェロの吉岡さんの短い鉛筆を借りてドレスリハーサルをやり、本番は横山さんが急遽買って下さった指揮棒でこなす。
東京で落着いて会えない人が楽屋に集い四方山話。帰りの新幹線のホームではニューヨークの三浦尚之さんにまでお会いする不思議が続いた。

 12月某日 三軒茶屋自宅
早朝から家を出る直前まで、モーツァルト「アダージオとフーガ」を読む。充実した下属調域を辿る音楽は、平行調領域へ限りなく展開を続けるシューベルトに比べ、調性感は総体的に安定する。指向は違うけれども、ベートーヴェンもやはり下属調領域を極端に拡大し、調性感の重力を切崩そうとする印象があって、ナポリ調域でエネルギーを溜め込み、原調に和音が滑り込む瞬間に喜びを放出させる。「運命」4楽章前のティンパニのように、平行調から原調へ滑り込むこともあるが、ベートーヴェンの気質を鑑みれば、やはり下属調域のGerman Sixthで緊張を漲らせる箇所だと理解されるべきだろう。

シューベルトのように平行調領域で展開すると、全体構造全てを移行させるので、重力や緊張に影響をもたらさない。再現部を原調以外で始めるとき、ベートーヴェンとシューベルトでは、見せる顔色がまるで違う。尤もベートーヴェンの場合多くは疑似再現部となる。
何れにせよ、再現部を何事もなかったかのように移調したまま始めてしまうシューベルトの自然な流れとは一線を画し、原調に戻らない意義を強調するベートーヴェンの性向は、ブラームスへ受け繋がれてゆく。シューベルトの交響観を引継いだブルックナーが平行調で再現するとき、そこにシューベルトへの畏敬をはっきりと感じ、感動せずにはいられない。

モーツァルトをこれらの枠に嵌め込むのは、少し視点がずれている。特に後期のモーツァルトの転調にはそれぞれ違う顔があり色があり、風景が見える。下属調域の発展形ではあるが、ベートーヴェンのような堅牢な転調ではなく、巻物に書かれた風景を広げてゆくようシューベルトの手触りに近い。ただ下属調域と平行調域で同じことをしても、音楽の志向は根本的に違う。
平行調域の機能はトニックで指向性がないので、転調しても特に方向性も指向性も生じないが、どれだけ下属調域で徘徊しても、それらは常にドミナントかトニックへ収斂されるべき、無意識の方向性が生じる。よってモーツァルト晩年のどのゼクエンツも、美しさに目を奪われ時が止まった錯覚を覚えるけれど、指向性を失うことはない。
シューベルトのように、永遠を目の前にした安寧感はなく、蛍光を思わせる果敢なさに常にくるまれていて、あの悲しみはシューベルトにはない。二人とも苦しい晩年を過ごしたに違いないが、作曲者の環境など音楽の神髄に作用しない良い例かもしれない。

ところで、フーガのような対位法的書法を敢えて総体的に捉えると、稜線の向こうから見えてくる風景がある。和声が何拍ごとに変化するか考えるだけでも、音の指向性が明確になる。
リゲティのリハーサルのため渋谷から山手線に乗ると、目の前に西村先生が座っていらした。勢い、先日の「作曲家の個展」の話などに花が咲く。細部の定着にあたり、実際ピアノで音を鳴らし規則的な音の並列は極力避けるという話に納得する。従って、規則的機械的に音を並べた際生じる、構造の縁の尖り具合がなく、音楽は有機的に呼吸を続ける。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝、十七絃とエレクトロニクスの新作準備のため、有馬さんと沢井さん宅を訪ねた。蛇崩五差路裏の沢井さん宅まで、三軒茶屋からなら徒歩20分ほど。「クグヒ」の一部を録音するのは、沢井さんと有馬さんのための新曲のエレクトロニクスパートを試すため。
「クグヒ」を書いた頃、国風歌舞や久米歌のような古い日本音楽の、特に引延ばされた一見のっぺりした音の素朴な美しさに魅かれていた。折角の機会なので復元五絃琴や七絃琴の作品も断片的に録音してもらい、どんな風に音が拾えるか試してみる。どれも似たような曲で違いがなくて面白くないと思っていたが、有馬さん曰く、どれも全く違った音がするとのこと。

今十七絃の曲を聴き返すと、大分経って書いた復元七絃琴の作品と、見えない糸で繋がっているような不思議な発見が何度もあって興味深い。七絃琴の方は、中国の様々な伝統音楽を表面だけでも学んだ後で書いたので、寧ろ十七絃のフレーズが少し中国の伝統音楽に結びついて聴こえる。
録音終了後、中目黒のガード下で早めの昼食を摂り、有馬さんと連立って田端でリゲティのリハーサルへ出かける。有馬さんは、パーカッションの殆ど聴こえない楽器音を、どこまで聴こえさせるべきか精査する。ティッシュペーパーを勢いよく宙に投げたり、床を靴で擦ったり、スーツケースを撫ぜたり。
中目黒のとんかつ屋では、酔った客が金も払わず、ふてぶてしく管を巻いていて、店主が気の毒。

リゲティ・リハーサルで會田くんの音を聴き、すみれさんの音を思い出す。撥を振りかぶり音が鳴るまでの空気が似ている。従って結果として生み出される音の質感も似てくる。楽器奏者と歌手を合わせてみて、見えてくるもの。途切れていた会話や場面が、一気につながり、それまで平面的ですらあった場面場面が、立体的になってくる。

そういう空気に敏感な道元君が先頭を切り、演奏家も率先して劇に参加してくれるようになる。全体が有機的になり、同時に楽器音は歌手の言葉と同等の意味を帯びてきた。整理されたイヴェントの羅列から、次第にリゲティらしい混迷度も一気に増して、すっかり土臭くなってきた。楽器で音を演じる意味を奏者が認識すると、途端に奏者もそれぞれの音に実感が湧いてくる。大岡さんと二人で、未だ行き場のなかった声なき言葉を、互いに繋げてゆく。すると自然に、歌手と楽器奏者の諍いの構図が出来上がった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝自転車を飛ばして渋谷のトップでトーストを喰らい、そのまま千駄ヶ谷まで走り二期会で「魔笛」打合せ。思いがけず新海くんに再会。相変わらず元気そうだ。

夜は溝の口でリゲティ・リハーサル。三軒茶屋から246をそのまま下り40分ほどで会場に着く。電車に乗るよりむしろ早い。新垣君に会うのは二年ぶり。一昨年の暮「冬の劇場」の4人で渋谷のトップに集って以来。
曲中バリトンの青山君がカデンツァの中で混乱を来し、大声上げて新垣君を脅迫する指示がある。チェンバロの前の新垣君はそれを物ともせず、ポカンと口を開け飄々と和音で答え、一同爆笑が沸き起こる。愉快なリハーサル。
演奏家がこれだけ自然に初めから歌手と絡めるのは、橋本君が8月以来丁寧に準備を重ねて下さったお陰。彼がいなければ、今回の演奏は実現しなかった。少なくとも、今回自分の采配で一番の自慢は、橋本君に副指揮をお願いしたことだ。
佐藤くんはゴーレム登場を盛んにスマホで撮影してくれて聴衆を喜ばせてくれたし、演奏家と歌手の決闘の火蓋は山澤君が見事に切って落としてくれた。
猪俣君の遠くから聴こえるホルンは、歌手たちの拠り所であり、不安に駆らせる切欠にもなっている。歌手と猪俣君のやり取りは、リゲティのリブレットでも特に重要なポイントになっている。
最初の練習から最後の練習まで、ピアノの弦を嬉々として革手袋で叩きつける中川さん、そのピアノに顔を突っ込み弦を撫ぜる新垣君の姿に、大学時代に戻った錯覚を覚えた。
目の前で新聞紙を破くと女性歌手2人に突飛ばされ足蹴にされ、ほうほうの体で逃げ惑う羽目に陥いる會田君の膝は、青く痣だらけになっていた。

 12月某日 三軒茶屋自宅
上野昭和通りの焼肉屋で、昼弁当を購う。店先に七輪を置いて肉を焼き、タレをくぐらせたものをご飯に載せ、スープ付で800円。大変美味。

初めて本番と同じ舞台の寸法で立稽古。大岡さんの演出の充実度が一気に深まる。
ただ演奏するのではなく、有機的に作用させるメカニズムを場面毎に規定することから意味が生まれる。事象の平面的羅列から、時間軸の方向性を内包するダダ歌劇として成立を始める。ダダ歌劇として展開し始めると、どこがダダ的風景の転換点かが明瞭となる。詳らかになることでダダ的方向性とダダ的性格が生まれる。

小学生の終わり頃、ダダとシュールレアリスムが大好きで、貰ってきた茶トラの猫に「ダダ」と名付けた。ダダが来る前から家には「ダンディ」と「レディ」というヨークシャテリアの番いがいたが、仔犬は産まれなかった。ところが、ダダがやってきた途端レディは乳を出すようになり、ダダを自らの乳で育てた。当然ダダは犬風猫として成長した。かかるダダ的ペットを飼いつつ、当時は澁澤やら種村やら「たたかう音楽」やら「水牛通信」を読耽っていた。中学生の頃、父の写植台を使って印画紙に即興的に打ったダダ詩は、今思い出しても悪くない出来だった筈だが、いつの間にか紛失してしまった。

 12月某日 三軒茶屋自宅
朝トップでサーディン・トーストを頼み、マンデリンとブラジルの豆を詰めて貰う。今日のリゲティの本番の際、受付で父に渡して貰おうと思っている。
8月から今まで掛かったリゲティの練習は思い出深い時間の連続だった。無人劇場の皆さんは、まず歌手3人の分身の姿を見事に描いて下さった。それを客観的に眺めることで、歌手3人はそれぞれの役により磨きをかけて下さった。
松井さんはより上品で澄んだ声になったし、新アヴァンチュールでの妄言にも幅が生まれた。
澤村さんは練習の度に圧倒的な存在感で、作品を咀嚼する本当の意味を教えて頂いた気がする。
青山君は、実は従弟に顔と雰囲気が良く似ていて、とても親近感があった。今回の演奏は、当初から聴衆が腹を抱えて笑えるような内容にしたいと思っていて、喜劇らしいエッセンスを舞台上に振り撒いてくれたのは、彼だった。
大井町の練習場で初めて見た時、まだ顔のないゴンタ君のようだった小原さんのゴーレムが、少しずつ成長して一人前になるまでを、皆が家族のように見守り続けたのも印象に残る。
リゲティのリブレットに現れる、奇怪な分身役の部分が最後までぽっかり開いていたけれど、市川さんたちのダンスが入った瞬間、将棋で最後に一気に積んでゆくように、全てが充足してゆくのを感じた。

富永さんの衣装も加治さんの照明も、リゲティの原案に忠実であろうとする大岡さんの姿勢と寸分の狂いもなかった。
何より、これだけ演出家と互いに無神経なほど互いの領域に足を踏み込みながら、実に気持ちよく最後まで仕事ができたのは、大岡淳さんと自分が明らかに同じものを見ていたからに違いない。この演奏会に誘って下さった福井さん、渡辺君、徳永君に感謝するのみ。そして、竹田さんたち事務局の皆さんに深謝。
会場で温かく見守って下さった末吉先生は、大学時代に何度となく問題を起こしては、新垣君と雁首揃えて学長室に叱られに参上した時の事を思い出されていたかも知れない。今にして思えば、すっかりのんびりした時代だった。

 12月某日 ミラノ自宅
朝、作曲のフェデリコ・ガルデッラとマジェンタ通りの「マルケージ」で、立飲みのカップチーノに菓子パンを頬張り話しこむ。フェデリコは和声を教えるのが好きだと言う。音と音の間に生まれる緊張と弛緩を教えるのが楽しいそうだ。

彼曰く、ルネッサンス以前の宗教曲には、緊張がなく感情の表象もない。従って音楽には方向性もない。当時宗教曲は神のために作曲していて、ミサに参列する市民の代弁者ではなかった。時間感覚を失ったような作品が書かれたのは、天上の時間に捧げられていたからだと言う。
確かにゴシック教会は、神に近づこうとして屋根を細く天高く聳え立たせるようになり、ルネッサンス期に一気に調和のとれた形態に変化した。それに等しく「再生」を意味するルネッサンスで人間性回帰が叫ばれ、教会でも演奏家や聴き手の心を穿ち、我々の心情を代弁する人間性に即した音楽が求められるようになった。

悠治さんに勧められて一気に読んだ「一四一七年、その一冊がすべてを変えた」の激動の変革期を思い出すが、興味深いのは、本来キリスト教と拮抗する筈のルクレティウスの思考は、ルネッサンス以降現在に至るまで、イタリア人の宗教観に巧く溶けこんでいることだ。熱心な信者と話していても、無から有は生まれない、とまことしやかに話しているのを聞いて、初めは驚いたものだった。
イタリア人の現実志向は、民族的性向だとばかり思っていたが、案外ルネッサンス期に融合した、別の世界観だったのかも知れない。マキャベルリがルクレティウスを写本していたと読んで、妙に納得する。

 12月某日 ミラノ自宅
Sがレッスンにシューベルトのイタリア風序曲を持ってきた。1月にオーケストラとリハーサルがあるらしい。シューベルトがイタリア音楽にどれだけ憧憬を抱いていたとしても、イタリア音楽ではない。偽終止一つ一つにシューベルトを感じ、慈愛を感じつつ伴奏をなぞる。

別の教師はイタリア風に演奏すべきだと言ったらしく、Sを混乱させてしまって申し訳なかったが、メンデルスゾーンの「イタリア」やリストの「ヴェネチアとナポリ」、果てはチャイコフキの「フィレンツェの思い出」をイタリア風に演奏するのは無理だろう。況や「トゥーランドット」を北京風に、「蝶々夫人」を長崎風アメリカ海兵隊風に演奏したらどうなるか。プッチーニは「西部の娘」の最後の場面で、メトロポリタンの初演舞台に本物の馬を使ったそうだから、「蝶々夫人」にお三味線やらお琴やら入っていたら案外喜んだかも知れない。

「蝶々夫人」初演版に登場する従妹の息子という珍しい役どころで愚息が出演しているので、劇場に出かける。美しい音楽で、素晴らしいオペラであることは承知しているが、この物語が日伊国交樹立150周年に相応しいかと言われると内心正直穏やかではない。
どうも戦後のパンパンだとか、米軍基地周辺の花街やら連想してしまった挙句、主人公が自死に追込まれるのは理不尽だと憤りまで覚える傍らで、息子の一言「これはオペラなんだから。それもプッチーニだよ、プッチーニ!」。愚息よ、嗚呼天晴れ。

 12月某日 ミラノ自宅
階下で息子がミクロコスモス5巻の「バグパイプ」を練習している。バルトークが演奏する録音は、微妙にルバートして揺らいだ演奏。トランシルヴァニアのバグパイプ音楽には、よく似た旋律や音形が散見される。バルトークが5連符で記譜した箇所は、本来リズムも不安定なヴィブラートだった。その部分をバルトーク自身声を震わせるように弾く。本来の伝統音楽に則った演奏を意図していたことがわかる。かかる微妙な音楽の揺らぎを、精確に記譜し演奏して、原曲の瑞々しさは生まれない。細かく書く程に生気を失う。詳細に規定される程に、演奏家の出す音はブロイラーの卵のようになってゆく。

指揮でも同じで、複雑な音を振るとき、分割すればする程、演奏家の刻みは合うかもしれないが、機械的でフレーズのない音になる。逆に演奏家に自由を与えすぎると、アナーキズムの社会と同じで、それぞれは自由かも知れないが、巨視的に見れば単なる混乱、エントロピー状態に陥る。
「中庸の徳たるや、それ至れるかな」。

朝四時居間で仕事をしていると、どしんと大きな音がして、屋根から庭に誰かが飛降りた。見ればルーマニアかアルバニアか東欧風の若者が悠々と庭を歩いている。「泥棒」と声を上げても動じず、相変らず冷静沈着なまま向いの路地へ出て行くものだから、妙に感心しながら後姿を見送る。
家には相変わらず小さなトカゲが住み着いていて、カサカサと紙袋の音を立ててみたり、時々地階をペタペタ歩いている。

クリスマスの風物詩はザンポーニャというバグパイプ吹き。この時期、山からザンポーニャ吹きが降りてくる。夜、フラッティーニ広場のスーパーマーケットの入口で、小さな皿を前に老人が佇む。身なりは余り整っていない。2メートルくらい前には旧い乳母車を改造した手押し車が無造作に置いてあって、スピーカーが載っている。無数のサンタクロース人形が貼付けてあり、賑々しさよりおどろおどろしさが際立つ。クリスマスも過ぎ人影もすっかり疎らで、スピーカーから流れるザンポーニャばかり虚しく広場に響く。

(12月30日ミラノにて)