しもた屋之噺(195)

杉山洋一

朝7時30分、始まったばかりのサマータイムで、眠そうな息子を中学校まで自転車で送り、そのままこちらも学校へ向かいます。気が付くと高校生と思しき男の子が自転車を漕いでいて、鄙びた緑の古い自転車なのですが、味わい深い色とデザインで思わず声をかけそうになりました。フレームには「ビアンキ」と書いてあり、3、40年は経っているものと思いますが、それを高校生が颯爽と乗りこなしているのを見るのは実に気持ちの良いものです。フレーム以外のパーツはもちろん入れ替えてありますから、走る姿もとても滑らかです。
中華街に入る少し手前、モンティ通りを越えたところにある憲兵隊モンテベルロ兵舎から、起床ラッパなのか、ファンファーレが高らかにスピーカーから流れています。この辺りを走っていると、いつしか周りはこうした古い自転車に乗った高校生や会社員に取り囲まれていました。
深い色塗りのこうした自転車からは、彼らのちょっとした誇りさえ感じさせます。学校から辻一本入ったところの自転車屋の軒先には、こんな中古自転車が並んでいて、80ユーロ前後から値段がついています。朝は決まってその自転車屋の隣にある八百屋で、蜜柑とバナナを買って学校に入るので、いつも自転車に目が留まるのです。手でデザインを引いた感じにほのかな温かみを感じるところは、音楽にも通じるところがあるかもしれません。

3月某日 ミラノ自宅
季節外れの大雪。庭が10センチ近くの雪に一面覆われているけれど、自転車に跨ってドナトーニのリハーサルに出かける。天候が崩れているときこそ、寧ろ自転車で移動する方が確実に着ける。モルガーニ通りの最上階のアパートで久しぶりに再会したアンサンブルのメンバーとは、互いに子供の話とか。窓の向こうは一面降りしきる雪。一時間半ほどリハーサルをして階下に戻ると、自転車にすっかり雪が積もっている。

3月某日 ミラノ自宅
家人とスキアッパーティの2台ピアノ版「惑星」を聴きに行く。この2台ピアノ版を基にオーケストラ版が完成したとか。特に何の先入観もなく聴きにゆくと、思いの外愉しめる。そんな話を家人にすると、彼女は息子から、「あんな風に頑張って弾いてはいけない」と訓示を受けたらしい。前に「喜びの島」を彼女が練習していると、「強い音の前でそんな風に音を詰めてはいけない」と小言を言われた挙句、「それは常識でしょう」と駄目押しされたと言う。

3月某日 ミラノ自宅
音符を書けば書くほど、音楽がつまらなくなってゆく。パレットに色を混ぜれば混ぜるほど、似たような混沌がうまれる。書き込めば書き込むほど、規定すればするほど、音が不信に埋もれてゆく。演奏者の音が聴きたいのであれば、出来るだけ書き込まない方法を探したい。
田中美登里さんからお便りをいただき、沢井さんとのお仕事に感激されたと言う。小学校中学校の頃、田中さんの「民族音楽を訪ねて」をエアチェックし繰り返し聴いた民族音楽は、未だに身体の芯に深く息づいていて、その記憶は同じころ何度も演奏会で聴いた沢井さんの音に還元されているのかもしれない。沢井さんの演奏は音の裡に音楽が溶けきっていて、音の形象を観るというより、寧ろ音だけがそこにある。
ところで、沢井さんはクアラルンプール空港で売っている、暫く前に手長猿の縫いぐるみを集めていて、息子に一つ贈って下さったのだが、それはちょうどお手玉のような手触りの錘が手足の先についていて、どこにでも引掛けられる。息子がそれを喜んで何時も肩に掛けて連れ歩いていると、何かの拍子に縫付けてあった目玉が片方外れてしまい、暫定的にセロテープで留めてあり、無残なことになっている。

3月某日 ミラノ自宅
規定するということ。作曲に於いて、規定は演奏者を導くものであると同時に、一つの尺度に縛り付けることにもなる。社会に置き換えれば、規定は市民の社会生活を合理化し円滑にすると同時に、対人関係よりむしろ合理的な市民生活が全ての基準となることから、当然対人関係は蔑ろにされてゆく。規定の少ない社会は、信頼関係だけで成立せざるを得ないだろうが、先進国家において、それはアナーキズムと同意義になりつつある。

3月某日 ストラスブール ホテル
初めて訪れるストラスブールは落着いた美しい佇まいをみせる。ボルツァーノよりずっとドイツ、オーストリア臭さが薄く、垢抜けた雰囲気に愕く。ボルツァーノでは街角では普通にドイツ語が聞こえるけれど、ストラスブールでもボルツァーノのようなバイリンガル運動はあっても、聞こえてくるのはフランス語ばかり。ホテルの目の前にパン屋があり、昼にサラダやオムレツを作っていて、昼食にここで肉抜きのオムレツを日替わりで作ってもらうのが楽しみになった。近くの上海料理屋も思いの外美味で、ここで野菜炒めや魚の餡かけなどをご飯と一緒に食べていれば、肉が食べられなくとも食生活には不自由しない。美しいケーキ屋の店頭に並ぶお菓子はどれもフランス菓子で、ここはやはりフランスだと思う。ボルツァーノであれば、専ら独特のアルプス菓子ばかりが並ぶ。

3月某日 ストラスブール ホテル
辻さん、菊地さん、アルド、エレオノーラと二人の子供、ロッコとカルロと連れ立って、アルザス料理を食べに来た。カルロは生まれて半年足らず。ロッコは小学校が始まったばかり。エレオノーラが家で米ばかり食べていると言うので何故かと尋ねると、彼女はイラン移民の家族出身で、今でも家ではペルシャ料理を作るのだと言う。郷土料理の魚のシュークルートは美味。

3月某日 ストラスブール ホテル
何時でも大体同じ結果になるのだが、「瀧の白糸」はスクリーンの映写と我々演奏家のタイムコードを合わせるのが何時も至難の業で、映画をデジタル化した現在でも、結局勘が頼りになるところが面白い。その上、今回は映画館に静電気が溜まっていて、我々のタイムコードのモニターが瞬間的に何度も落ちて肝を冷やした。「瀧の白糸」の音楽は本当に傑作だとおもう。京ちゃんの曲の中でも、特に彼女がまるで巻物に音符をさらさらと書き綴ってゆくように、文字通り映像に寄り添うようにしなやかな音楽が紡がれてゆく。実はよく考えられているのだけれど作為的な感じが皆無で、本人曰くこれは溝口監督が彼女に書かせたものだという。

3月某日 ストラスブール ホテル
フランスで会うアルドも何となく不思議で、今までヨーロッパで会ったことがなかったフルートの村上さんにストラスブールで会うのも、何だか不思議な気がする。村上さんが話すときの可愛らしい抑揚は、フランス語でも同じアクセントを伴って聞こえる。菊地さんと辻さんと河向こうのベトナム料理の小料理屋で昼食を摂りながら、子供の学校の話。ドイツもフランスも、週末の日本語補習校の授業は、国語のみならず数学やそのほかの教科も日本のカリキュラムに沿って教えてくれるのだとか。ミラノ補習校は国語集中型で昨年から息子も初めて参加したが、体調を崩して殆ど通わないまま終わってしまった。
もし最初にフランスに留学していたら、今頃どうしていたかと思う。理由は特にないのだが、日本に戻っていた気がするのは何故だろう。フランス人は親切だし優しくて、京ちゃん曰く日本人に似ていると言う。同級生の弾く弦楽合奏に併せて、息子がカルメンを吹いている動画が送られてくる。

3月某日 三軒茶屋自宅
朝一番、開店したばかりのトップで店長と話し込む。Mさんのことは小学生の頃から父に連れられて通っていたのでよく知っている。トップ独特のトーストメニューはどのように生れたのかと尋ねると、輸入食品のシブヤ食品の初代社長が、店に並ぶ食品で何かお客さんに出せるものを作ろうと発案したのが始まりだという。子供のころから外国から誰かが持帰ったものとばかり思い込んでいたが、輸入製品は使っていても生粋の和風トーストだった。そのトーストに併せて珈琲も用意するようになって、現在の喫茶店に至るのだという。当時はストレート珈琲の看板がなかったので、同じビルでデザイン会社を営んでいた父が看板をデザインしてくれたのですよ、とMさんは嬉しそうに話した。

3月某日 三軒茶屋自宅
沢井さんとお話ししていて、五絃琴の話になった。この楽器を練習中の佐藤康子さんが、五絃琴は身体の中で音が響くと驚いていると言う。共鳴箱がない上に、がっしりとした楽器だから当然よね、と沢井さんは笑った。佐藤さんが白河での沢井さんの演奏会にいらした時のこと。全国の古墳にとても詳しくて、白河に珍しい古墳があることを教えて下さったので、それならばと皆で連れ立って谷地久保古墳へ出かけたのが懐かしい。古墳好きの佐藤さんと、曾候乙墓から発見された五絃琴には、きっと通じるものがあるに違いない。

3月某日 三軒茶屋自宅
ヴァンクーヴァーのための新作は、カナダ日系三世のジョイ・コガワの詩の断片が素材として使われている。カナダの高校の読本にもなっている彼女「Obasan」の邦訳、「失われた祖国」を読んで、とても美しい言葉の綴りに感動し、最後には涙が溢れた。読後、この絶望的な喪失感は何かと長い時間考えていて、ちょうどドミナントのペダルが本当に薄く、最初から鳴り続けていて、最後のクライマックスでそのペダルがふと消失する感覚。壮絶、という言葉が頭を過る。

ヴァンクーヴァー演奏会のためのリハーサル。
すみれさんは、自分とは全く回路や道筋は違うのに、実際に出てくる音は考えていたままの音がする。普通なら、こうして欲しい、だからこうして貰いたい、と考えるものだろうが、すみれさんに関しては、こうなのかしら、と尋ねられて、例えそれが自分と違っていても、そのまま下駄を預けてしまう。そうして出てくる音は、自分が想像している以上に深さをもっている。眞木さんの「漂う島」も一緒に演奏するので、彼が生きていたらどんなにか喜んだでしょうね。ぽつりと呟いたすみれさんの言葉が心にしみる。
時田さんの音は、とてものびやかで、そよ風が気持ちよく抜けてゆくような印象。沢井さんが、彼女の演奏は本当に大きいでしょう、と嬉しそうに繰り返していたのを思い出す。彼女のために、ずいぶん前に指揮を教えていたパオロが今、曲を書いている話は、彼から聞いていた。何でも17絃を殆ど同じオクターブの中に微分音で割振る調弦で、張力も使う絃も違うので、糸張りが大変と笑っていた。彼女も前にヴァンクーヴァーを訪れた際、ジョイ・コガワ記念館に足を運んだという。

3月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルの後、夜山口宅にて恭範さんの自慢料理「煮味噌」に舌鼓を打つ。一見とても味が濃そうに見えるのに、食べてみるとあっさりしていて愕くほど。八丁味噌のベースのたれは、何十年も同じものを少しずつ足しつつ培ってきた、文字通りの山口家特製秘伝たれ。それと一緒に八戸から届いた生ワカメと、シラスのような形の、でもそれよりずっと味の濃い蛸卵をいただく。食育とも言うが、やはり食は本当に大切であって、たとえば山口家の食卓は、すみれさんや恭範さんの音楽を体現している気がする。

サックスの大石くんから送られてきた録音を聴いて、思わず鳥肌が立つ。こう演奏して欲しい、と注文をつけることはあまりなくて、これはしなくても良いという事だけを出来るだけ伝えるようにしているつもりだが、音楽は演奏家によって別次元へと羽ばたいてゆく。書いているときは想像も出来なかったような、複雑な心の襞のうちのうちまでが、広げた羽の奥に見え隠れする。空を仰ぎながら、音楽のもつ強さと大きさに、畏れに近いものすら覚える時がある。

3月某日  オルレアンB&B
ドナトーニを読返すと、今まで自分がおざなりにしてきた部分が、嫌というほど目に付く。空港に着いたのが夜半だったので、早朝オステルリッツ駅にゆくために、空港に付したホテルに宿をとった。
ただ到着したターミナルがホテルの近くのターミナルと違ったために、シャトルバスに乗ろうとしたが間に合わず、ドリスという中年の恰幅の良いアフリカ系中年女性のタクシーを拾った。近くで申し訳ないと断ってから乗ったのだが、当然パリまで乗るものと期待していた彼女の不平はつきることがない。
カメルーンで生まれ育ったが、兄が先にパリに来て病気になり、看病のためにパリにやってきた。程なくして彼は死んでしまったが、故郷は独裁政権で、パリに居残ってもう12年になる。3年学校に通ってタクシーの免許を取った。大変だったのよ。
つい先日までストラスブールでやっていた「瀧の白糸」の身の上話を聞いている気分だったが、申し訳ない気がしてきて、実は明朝7時オステルリッツ駅発の列車に乗りたいので、朝5時半過ぎにホテルに来てもらえるかと言うと、途端に機嫌が良くなった。
ホテルまでの言い値とホテルで要求する値段も違うし、彼女を特に信用する積りもなく、どうせ来なくても、ホテルでタクシーを呼べばよいと気軽に電話番号を交換してホテルの部屋に着いたのは夜半1時を過ぎていた。
朝の4時に電話が鳴り目が覚めた。何かあったのかと電話を取ると、驚くほど元気の良いドリスの声が、「あと20分で着くから下に降りてきてくださいよ」、と言っている。自分の腕時計では4時だが、もしかして東京から戻るときに時計の時差を間違えたのかと思い、とにかく身支度を整え降りると、笑顔のドリスが「ほらお客さん降りてきたでしょ」とホテルの受付に話している。
ホテルの時計を見ても、4時20分を差しているので、車に乗り込んでから、約束では5時半過ぎだったはずだと話すと、もうあと一時間もした街中混雑で大変だから早く来たという。6時45分くらいに着けば十分だと思っていたオステルリッツには、朝5時前には着いてしまい、その上酷い雨が降りしきっていた。
せめて街に着くまで寝かせて貰いたかったが、話し相手が欲しかったのか、ずっとカメルーンの民族音楽やら宗教音楽、ポップミュージックやら、これも聴けあれも聴けと話しかけられ、挙句の果てに案の定約束した言い値から、早朝料金も加算させて頂戴と10ユーロも多く取られた。
彼女が来ない算段まではしていたが、1時間半以上も早く元気よく現れる想像はしていなかったし、濡れそぼる夜明け前のパリで大音量のカメルーン音楽をたくさん聴いて、何かを学んだ気がする。

3月某日 オルレアンB&B
先日、フランス在住イタリア人が集う夕食会に招かれた。フランス人と結婚している女医や、フランス人と同居しているイヴェント企画者や、似たような境遇の演奏家たちなど。何の話かと思いきや、目に涙をためた妙齢の「わたしはイタリアに帰りたい」という悲痛な呟きから始まり、「イタリアのご飯が無性に恋しい」、「脂っこいフランス料理はもう沢山」、「フランス人はどうしてこんなに壁を作るの」、「何かにつけてなぜ人前でわたしのことを馬鹿にするのよ」、「田舎者扱いして」、「そうよそうよ」、「なぜわたしたちはこんなに頑張らなければいけないの」、「この街を見てよ、何もないわ、とても我慢できないわよ」、「イタリア人の家族の絆なんて、ここには!」。
酔いが回ってエスカレートしているのか、こんな話を聞かされるとは夢にも思わず驚くやら、時々様子を見にやってくる痩せぎすの妙齢のフランス人のウェイトレスが、この異様な雰囲気に怖気づいているのが申し訳ないやらで、居場所がなかった。嫌ならなぜフランス料理屋に集うのかと口に出かけたが、止しておいた。世界のどこにいても、時には存分にストレスを吐出す必要があることだけは理解した。

3月某日 ミラノ自宅
雪の降りしきるオステルリッツ駅で久しぶりに千々岩くんに再会する。彼と上田さんのフランクとフォーレのソナタの録音を耳にして以来、彼の音の高みにはどう頑張っても自分は辿り着けないと思う。演奏は、人の人生観を変えてしまうほどの強い影響力と破壊力を持つ。
と或る作曲コンクールが演奏審査を今年から廃止した話を知っているか、と千々岩くんから尋ねられた時、無意識に千々岩くんのフランクの演奏が頭に過り、同時にフリッチャイの「モルダウ」の演奏が目の前を駆け抜けていった。その時頭のもっと奥底では、リパッティの弾くグリーグの2楽章が静かに流れていた気がする。

3月某日 ミラノ自宅
日本からきたY君と、音の拍感について話す。一拍ごとに風船状の袋に空気を入れて膨らましつつ、その袋の中に音を4つ放り込んでやる感じと説明すると、「それは所謂イチトウ、ニイトウというあれでしょうか」。「イチトウ、と言うと全てが等分の拍感で、きちんと箱に収まっている感じがするでしょう。箱みたいにきちんと形があるものではなくて、少し膨らんでいて、円みを帯びてふわふわしている袋だけを作ってやって、中の音が勝手に好きなところに落ち着く感じ」。
一緒に勉強しているU君とは、脱力の話。「振っているとどの拍も同価値になって拍感がなくなっているのがわかるのですが、どうしたら良いのでしょう」。「音を発する瞬間以外、完全に身体の力が抜ければ、図形の大きさは問題にならなくなります。惰性を生み出す瞬間と、続く惰性の部分を分けて感じられるようにすることでしょうか」。「ところでU君は、整体とか気功とかやったことありますか? オカルトではなく、要は身体を力を完全に抜く訓練みたいなこと」。「ないです。今までの力を抜く訓練はしたことがありません」。「実は中学くらいから整体をやらされていたので、力を抜くと身体が勝手に気でぶらぶら動くとか、昔から何となしに知っていたのが、今になって役に立っているのかどうか」。

3月某日 ニース アパート
家人が仕事で日本に戻る時期と息子の復活祭の休暇が重なったので、久しぶりに東京から母を招いて息子と3人でニースにやって来る。ここ暫く息子の面倒を見ていなかったので、シューベルトの楽譜を広げつつ、べったり相手することにした。
この時期ミラノは花粉が飛交い始めるので、息子の仏語実践を兼ね、空気のよい海辺を目指して来たのだが、去年の夏まで背丈が同じだった母を息子はもうすっかり追い抜いていて、少々耳が遠くなりかけているがキックボードを器用に乗り廻す、リスのような風情の83歳の母と、思春期真っ盛りで事あるたびにお腹が痛くなっては「パパ、パパ」とすり寄ってくる、13歳成り立てのひょろりとした息子との珍道中も、悪いものではない。
風に吹かれて道に落ちた帽子を拾い上げ、「メルシー・マダム!」と感謝されたことに、母は偉く喜んでいる。「シニョーラじゃないのね! 素敵ね!」。

(3月31日 ニースにて)