しもた屋之噺(197)

杉山洋一

東京はここ暫くよく晴れた気持ちのよい陽気が続いていて、オーケストラのリハーサルや打合せなど、着替えだけ携え自転車で走り回っておりましたが、目の前の灰色の空を眺めるにつけ、恐らく今日は雨具もリュックに入れた方がよさそうです。満員電車が苦手なので、多少の距離ならのんびり自転車で出かける方が余程気楽なのです。ただ、東京は坂が多いので、道すがら自転車通勤している人を見かけると思わず感嘆させられるのも確かです。

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5月某日 ミラノ自宅
久しぶりにローマの日本文化会館を訪れ、本條さんの拙作初演に立会う。短くてイタリア生活が滲むような小品とのリクエストで書き、ローマ初演だしラテン語の題名が良かろうかとludus perpetuusとしたが、演奏会後夕食を囲みながら、新館長の西林万寿夫さんが出抜けに、拙作がヒンデミットの「交響的変容」2楽章のスケルツォ「トゥーランドット」に似ていると仰るので愕く。恥ずかしながらヒンデミットのこの作品は知らなかったので、後で聴いてみて確かに内容も似ているが、何より吃驚したのはludus perpetuusと題名を決めるにあたって、無意識にヒンデミットのludus tonalisの語感を意識していたからだった。
 
5月某日 ミラノ自宅
本條さんと、悠治さんの「夕顔の家」を弾く。ピアノを人前で弾くのは最初で最後だろうが、人と一緒に弾くのは殊の外楽しい。本来は家人と本條さんで弾いてもらおうと思ったが、ちょうど家人が日本に帰っていて、知合いのピアニストに弾き方を説明する時間もなくて自分で弾いた。粒を揃えず、三味線と着かず離れず、少しゴツゴツとした手触りで弾いてみる。
楽譜の音は少ないようだが、実際に音にした途端から、一瞬にして濃密な時間が空間に充満するのに愕く。だから、このくらいの音の密度が丁度よいのだろう。
「夕顔」と、ヴァンクーヴァでやった拙作冒頭が思いがけなく似ていたと悠治さんに伝えると、これらは同じではなくて、「夕顔」は開放絃から演奏を始める伝統的なやり方に則った音型だという。
 
5月某日 ミラノ自宅
何故こんな忙しい最中に、汗だくで庭の芝生を刈るのかと自分でも呆れる。理由は恐らく二つあって、一つは現実的にこれ以上放っておくと、雑草が伸びすぎて芝刈り機で刈れなくなるなり、雑草に花がつくと種が放出され、息子のアレルギーにも良くないこと。もう一つは、やはり芝を刈る草の匂いが、一日机に向かうストレスを軽減してくれること。
とは言え、毎日必要な仕事に専心できるはずもなく、昨日は半日かけ、ボローニャから送られてきたクセナキスのKraanergのテープを、一つずつ検証する。前面、後面用に作られた、全く別のテープ2本に関する添付の使用説明書は皆無で、これらをどのように使用すべきか、バレエの稽古も始まっているから、早急に劇場に伝えてほしいと繰返し頼まれていて、逃げ回っていた。
スコアには演奏に必要なタイムコードが附記されていて、送られてきたテープの秒数とほぼ合致していたが、正確に言えば、全面と後面のテープの長さに少しずつ誤差があり、スコアとテープの間に、数秒の誤差が生じるところもあって、それらをどのように解決すべきか説明を書く。
そうした作業の中で見えてくるのは、思いがけなく人間臭い音楽の作り方であり、音の合わせ方だった。間違いなく合わせられるよう書いてあるのだけれど、縦の合わせ方はデジタル世代のそれではなく、ずっと柔軟でアナログな耳であって、延いては、彼が音楽を作る上で、何を基盤に置いていたかが如実に表れている。とにかく、どう足掻いても音が読めないところが何頁かあって、これはやはりパリの実娘に連絡を取って自筆譜を検証させてもらうしかない。
たかが半世紀の間に消失してゆく情報は数限りない。消失するかどうか、場合によっては本人は興味すらないかも知れないが、情報を必要としているのは本人ではなく、将来この楽譜を必要とする音楽家たちなのだ。
何故我々は、これほど血眼になって人類を永遠に生かそうと必死になるのだろう。DNAにかかる強迫観念が埋め込まれているに違いないし、恐らくまだ我々が一種類の単細胞生物だったころから、そのDNAこそが我々をここまで培ってきたに違いない。そのDNAに駆り立てられ、全てとは言わないが、文化は連綿と受継がれながら現在に至る。遠くから俯瞰すれば、我々も無心で行列を組んで食べ滓を巣に持ち帰る蟻のようではないか。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルが初台なので、毎日自転車で出かけている。茶沢通りから下北沢を抜け、井之頭通りを大山で曲がって甲州街道を少し走れば初台に着く。のんびり走っても20分ほどだから、行き帰り身体を多少でも動かせるのは気持ちがよい。
カニーノさんがちょうど東京にいらしていて、品川で夕食をご一緒する。二人とも鯛のソテーを頼み、彼は睡眠薬代わりだと笑いながらビールを2杯呷った。
50年前に初めて東京に来た頃は、どこも全て日本語しか書いていなかったから何もわからなかったが、今は見違えるように分かりやすくなり、一人でも充分出歩けるようになった。招聘元からは行方不明にならないかと心配されているけれどと笑った。
ちょうど2年前のピアノシティという音楽祭で、息子とカニーノさん、それからピアノシティのディレクターのリッチャルダで、ミラノ中央の普段は入れない小さな公園にピアノを持ち込み、屋外でクルタークのバッハ編曲を一緒に披露した。我々は地面に風呂敷を敷いて朝の木漏れ日の下、座って聴いた。
数日前に開催された今年のピアノシティで、息子は久しぶりに人前でピアノを弾いたが、また左手がおかしくなったらどうしようかという精神的葛藤と闘っていたようだ。だからここ暫く精神的にも不安定に見えたが、今回見事にジレンマを克服して、これからきっと精神的にも変化するに違いない。
そんな話をカニーノさんとしつつ、そういえばリッチャルダも先日ウンスクさんをイタリアに招いたばかりだと連絡を貰ったばかり、などと、あちらこちらの四方山話に花が咲く。ウンスクさんと一緒に写真を撮って、リッチャルダにも送ろうと思う。

5月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに再会したウンスクさんは、リハーサル中、候補曲の作曲者たちそれぞれに、それぞれの個性がより際立つよう、きめ細かくアドヴァイスをされていた。
リハーサルを聴いていたJさんが、地層を見ているようだと形容する作品があって、面白い表現だと思う。その時こちらも丁度地層や断層を遠くから眺めている感覚にとらわれていて、地層を俯瞰したその上に森が茂り、青空が広がるところまで見える気がしていたからだ。
オーケストラそれぞれの音というものは確実にあって、今回はその昔ドナトーニの個展を演奏したときの東フィルの音を何度となく思い出した。音が空間をドライブしていたり、オーケストラが書かれている音楽をドライブさせてくれる、そんな風に感じられるのは指揮をするにあたり、この上なく幸せなことだった。
作曲コンクールの作品演奏審査は一見単純な作業のようだが、実際は正反対だ。このオーケストラがいくら音楽をドライブさせてくれても、別のオーケストラならそうならないかも知れない。その時、作品は何を基準に判断されるべきか。審査はともかく、作曲者一人一人から、演奏に心から喜びを表現してもらえること、演奏者としてこれ以上の喜びはない。
 ヴィオラに須田さんがいらしたので、休憩中に互いの近況報告。彼女を含めオーケストラの皆さんが、本当に深く作品を表現してくださり感激する。フルートの斎藤さんとは息子のフルート話。何でも今の日本では、中学の吹奏楽部で既に「春の祭典」の抜粋など演奏してしまうとか。どうやって演奏できるのかと尋ねると、気合で出来てしまうらしい。

5月某日 三軒茶屋自宅
東京にいると、近所には普通下駄を履いて出かける。当初父が履いていたものを、もう大分前から使わせて貰っている。子供のころ、確かに父が下駄を履いて歩いていた記憶はあるが、彼が何時から履かなくなったのか判然としない。ともかく靴下を履く必要もないし、からから鳴る音が何しろ耳に心地よい。からから云うから、からげるのかしらん、とぼんやり考えていて、何だか変だ、あれあれ、からげるのは下駄ではなくて尻じゃないか、と独りで笑い出した。
先日悠治さんとお会いしたときのこと。終戦後すぐ省線電車で渋谷に降り立ち、目の前一面焼け野原でがらんとした風景を前に、これから全てを作り直してゆく再生の喜びが子供心に湧いてきた話を聞いた。
イタリア語の小瀬村先生曰く、最近東京の街はどこもすっかり変わってしまって、でかけるのが厄介だそうだ。特に渋谷の駅は分からないと仰られて、これは全く同感である。終戦後すぐの渋谷なんて一面何もない焼け野原で、駅前に2軒ほどお汁粉屋があっただけなのよ。甘味処に気の付くところが女性らしい。立て続けに二人からお話を伺い、終戦直後の渋谷は一面の焼け野原で、どうやら二軒お汁粉屋があったらしいことがわかった。
その時悠治さんがマリピエロの楽譜を携えていらして、1920年以前のものが殆どだった。マリピエロと言えば、30年代以降のリコルディで出版された楽譜を見ることが殆どだったから、別の出版社のマリピエロの楽譜そのものも新鮮だった。悠治さんとマリピエロが結びつかないと言うと、これらは彼がまだ幼かったころ、悠治さんのお父上が刊行した雑誌で紹介されたもので、誰かさんの歌垣と一緒で、子供の頃の思い出だと笑った。
演奏方法について確認するためオペレーション・オイラーの楽譜を二人で眺めながら、この速度指定はさすがに早過ぎるでしょう、とこぼすと、若いころは皆早いんですよ、と笑われてしまう。今であれば加減してもう少しゆっくり吹いてもよいのだろう。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
オーケストラと仕事をしていて気づいたのは、自分が何かを望まない限り、そこには何も生まれないことだ。それには様々な理由があるのだけれど、こうしてみたい、こんな音にしてみたい、という希望がなければ、オーケストラは書かれた音を、ほぼ機械的、ルーティンとして演奏せざるを得ない。
先日、アルゴリズムを使って書かれた複雑な楽譜を演奏したが、最初の打合せで、作曲者はこの曲に息を吹き込んでやってほしい、とこちらの目をまじまじと覗き込みながら話した。
どこまで聴こえるようになるか分からない、と初めから断っておいたが、彼がこれらの音を瑞々しく聴きたいと願っていることは、よくわかった。
リハーサルは、複雑なリズムを虱潰しに合わせてゆくものではなく、殆どの時間を、指揮する人間が欲すべきものを探す旅に等しかった。最初は、各々の微細な形態、その輪郭をどう引き出すかを整理し、失敗し、やり直し、全体をオーケストラと共につかみ、互いに聴き合った。
リハーサル全日程が終わるあたりで、これら全ての音に鮮やかな生命を吹き込んでみてほしいとお願いし、当日のドレスリハーサルの終わりになって漸く、音を押さえつけていたのかもしれないことに気が付いて、空間に存分に浮かばせてやってほしいとお願いした。それまでのリハーサル時間は、指揮者が作品の本質に気づくためにどうしても必要な時間だった。演奏会のあと人から聞いたところでは、「ああいう曲でも音のイメージを持つだけであれだけ変わるんだなあ」、とオーケストラの団員さん二人がトイレで用を足しながら話していらしたそうだ。
何かを望むことで、そこに小さなエネルギーが生まれる。極端に謂えば、何かを望まない選択も、望まないという希望を押通す上でエネルギーを消費しているに違いない。
高校生の終わりころ、権代さんと表参道の喫茶店で話していて、ヨーロッパ帰りの権代さんがとても輝いてみえた。杉山も外に出た方がいいとその時に言われて、その喫茶店もちょっと欧州風の暗めの摺りガラスに煙草で煤けた煉瓦の土壁が周りを這うような造りで、洒落ていた。
あれから、何となく積み煉瓦の土壁がある家に一度は住んでみたいと思っていたが、そんな機会が巡ってくると考えたこともなかった。
子供のころ育った東林間の家には大きな桜の木があって、二階の窓からその葉に触れたものだが結局引っ越すことになった。だからだろうか、庭の大きな木に妙な憧れを抱いていた。
幼いころから鉄道は大好きで、それも当時既になくなりかけていた、鉱山鉄道や森林鉄道のトロッコであったり、今はもう殆どなくなってしまった各地のローカル線に凝っていたから、草生した廃線跡を歩いたりするのは大好きだった。
今住んでいるミラノの家には珍しく庭があって、朽ちかけた煉瓦の土壁が隣の国鉄の線路の境に伸びる。土壁のすぐ向こうには、殆ど使われず下草の繁茂する錆びた引込線があって、一年のうち3、4回、夏の臨時行楽列車の入替えに使われたりする。庭には大きな木が一本生えていて、今や3階か4階ほどの高さまで伸びてしまった。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
子供の頃の人見知りが未だに残っているのか、相変わらず人に会うのも苦手で、人の顔を覚えるのも苦手なものだから、友人の演奏会を覗きにゆき、誰にも会わぬよう一番後ろに座っているつもりが、杉山さんですね、あの時はお世話になってと声をかけられ、しどろもどろになる。所詮逃げているからいけない。
先週の演奏会後、何でも杉山さん、飛行機で必死に譜読みしていたんですって、風の便りで聴きましたよ、と言われる。最近の風の便りは、随分具体的な内容まで記載できるものだと感心するが仕方がない。デジタル時代の風便り。
どうやってこういう楽譜を勉強されるのですかと妙齢に尋ねられ、暫し思案に暮れる。傍らでRさんに杉山さんは譜読みが早いからなどと揶揄われるが、天地がひっくり返ってもそれはない。ソルフェージュ能力が高い、と言われる人は、例えば藤井一興さんのような耳を持った方であって、ソルフェージュというより、ソルフェージュの直感能力そのものが抜きん出ていらっしゃる。
思案に暮れた後、作品が少しでも解かるようになるといいと心の中で祈りつつ、亀のような歩みではありますが、仕方がないので音を一つずつ読んでゆきますと答えた。あまり的を得た答えではなかったようで、可哀想に妙齢はキョトンとしていた。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ギリシャ音楽を研究している友人が、クセナキスはギリシャ人ではない、亡命して長くギリシャには戻れなかったし、現在ギリシャに基づいた音楽ではない、と力説するのを聞く。意外ではあったが、案外的を得ているかも知れない。クセナキスが古代ギリシャを主題に据えることが多かったのは、確かに少し離れた視点で、祖国を眺めていたからかも知れない。
様々な役職を歴任されて、そろそろ悠々自適の生活に入ろうと言うRさんは、古典ギリシャ語講読会に通っていて、今はホメロスの「イリアス」を読んでおられる。ラテン語とギリシャ語は西洋文化の礎だから、どうしても学びたかったのだと言う。フランス語に慣れているからとラテン語は一先ず置いておき、古典ギリシャ語を始めたそうだ。
そうしてイリアスで使われている英雄詩体、ヘクサメトロンを意識しながら、イリアスを毎週持ち回りで音読していると、ベートーヴェン7番交響曲2楽章のリズムが聴こえてくると言う。Rさんは現在本を執筆中だそうだから、この話ももっと詳しく聞けるのを心待ちにしている。
 
5月某日 三軒茶屋自宅
ヴィオラスペースに、「子供の情景」を聴きにゆく。相変わらず見事な演奏を披露して下さる今井さんやファイトに再会出来たのも嬉しいし、初めてお目にかかるシュリヒティヒさんも楽屋を訪れるととても嬉しそうだった。そんな中、ニアンを初め4人の中国人ヴィオラ奏者が参加できなくなったのは、主催者のスピーチを聴く限り、政治的な理由だったようだ。俄かには信じがたいが、ヴィオラ・スペースにそれだけの影響力があると判断されたのだろうか。ニアンの代りに演奏してくださった佐々木さんが、とても素晴らしい演奏をしてくださったから、もちろん作曲者としては申し分なかったけれど、日中関係がそこまで悪くなっているとは知らず、少なからず衝撃を受ける。
演奏会後、Mさんに昨年急逝された娘さん行きつけの下北沢のバーLJへ連れて行っていただく。思いがけず、茶沢通りの毎日自転車で通り過ぎるところにひっそりとあって、落着いた雰囲気のなか、LP盤のジャズが静かに流れる。娘さんはパブリックシアターで公演があると、決まってこのバーに寄っていらしたそうだ。娘さんの入れたアイリッシュ・ウイスキーをストレートで頂き、しみじみと味わう。ちょうど息子を7月ダブリンに一人で行かせる話などをしていたから、アイリッシュ・ウィスキーと聞いて、嬉しかった。今でも彼女の友人たちが時折ここに寄っては、このウィスキーを呷りながら故人を偲んでゆく。そうして、さまざまな人のさまざまな思いが、深い琥珀色の瓶に積もってゆく。
Rさんと3人で会うつもりだったのが、Rさんは2月に膠原病がわかり、今日はご挨拶しかできなかった。1月にお目にかかったときはあれ程お元気だったのに、言葉もない。
「思い立ったが吉日」と言うけれど、こうなると、単に時間の絶対的不可逆性を諧謔的に諭されているようにしか聴こえない。
共通の友人で奥様がパーキンソンで闘病中のHさんの話になる。ある俳優がテレビで妻が先に逝ってくれて本当に良かったと話していて、つくづくその通りだと思ったという。本当に素敵な人だったのに、とMさんが寂しそうに呟いたとき、カウンターにいたバーテンダーがこちらにやって来て、窓際の小さな観葉植物を手に取った。
「これを娘さんがプレゼントして下さって、もう5年にもなるでしょうか。ずっと元気で、ほら見てください。見事でしょう。こうやって毎日窓際に置いて、陽に当てているのです」。

(5月31日 三軒茶屋にて)