しもた屋之噺(204)

杉山洋一

目の前のテレビ画面を見ると、乗っている飛行機は新潟上空から日本海へ抜けようとしています。窓の外には美しい少し薄色をした青空が広がっていて、遥か眼下には靉靆と雲がどこまでも続いていて、まるで雪山のよう。このまま高度を上げてゆけば、宇宙に抜けてしまうのです。宇宙と自分がいるところの間に、境界がない不思議をおもいます。そしてまた、余りに驚くほどの速さで時間が過ぎてゆくので、今のようにイタリアに戻る機内にいると、どこまでも地球の自転と反対に時間を追いかけたい思いに駆られることがあります。

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12月某日 ボルツァーノホテル
立て続けに、去年一緒にパレルモで仕事をした連中から、SNSメッセージが届く。メッセージと言っても、手を合わせている絵が送られてくるだけで、事情がわからない。エンニオが亡くなるとは一年前にどうして想像が出来ただろうか。何が起こったかを理解して、暫し言葉を喪う。パレルモの劇場は、彼の死を悼んで昨年の公演のヴィデオの特別放映を決めた。余りに悲しい一期一会。あの作品を同じようには公演することは、永遠に叶わない。

12月某日 ボルツァーノホテル
ブリテンのシンプル・シンフォニーに悩む。プログラムの曲数が足りないので、シンプルシンフォニーでも入れてほしいと気軽に頼まれたが、楽譜を読みだすと難しくて困ってしまう。
この曲は小学校の終わり頃、子供のためのオーケストラで弾いたし、何度となく耳にもしてきた。生徒がレッスンに持って来れば、その場を取り繕う好い加減な助言で執り成してきたが、いざ自分で演奏するとなると、これほど悩むとは思わなかったし、これほど素晴らしい作品だとは理解していなかった。
練習が終わって、第一ヴァイオリンの一人が話しかけてくる。
「お前のブリテンは面白いし、お前の解釈は好きだよ。あの曲は40年近く数えきれないくらい弾いて来たが、こんな演奏は初めてだ」。「ところで、一つだけ疑問があるんだが、お前は4楽章最後のフェルマータを何故あそこに入れるんだい」。
スタンダードの弾き方に馴れると、そこにフェルマータがあることすら気がつかない。

12月某日 ボルツァーノホテル
ボルツァーノの街全体が、華やかなクリスマスの彩りに溢れる。この街に来るたび、どうして日本は近隣諸国と諍いを治められないのか、考え込んでしまう。戦後まで長く憎悪の対象だった者どうしが、こうして豊かに共存できるのは何故だろう。ともかく迎合とも違い、互いの文化への尊敬は間違いなく守られている。EU統合とは少し違う姿勢で、共存のバランスが取れている。

12月某日 ボルツァーノホテル
「今日の遠征先は遠いのよ」とオーケストラの引率役ナンシーが笑う。ボルツァーノからトレントまで下がって、山の麓へ向かったところだと言う。2時間バスで山道に揺られてホールに辿り着くと、バスが遅れたからと早速10分後にリハーサルが始まる。長い山道でくらくら揺れる頭を抱えながら。
軽食が用意されていたのだが、バスが遅れて先に着いた他の演奏者に全て消費されてしまっている。指揮者用控室に牛の絵のついたアルプス名物ミルカチョコが一枚、申し訳なさげに鎮座ましましていて愉快。

12月某日 ボルツァーノホテル
数年来このオーケストラに仕事に来る折は、いつもマルコというイタリア系カナダ人がコンサートマスターだったが、今回はステファノというイタリア人。彼ら二人が交代で演奏しているのは知っていたが、今まで偶然にもいつもマルコに当たった。ミラノ近郊のブスト出身のステファノとは偶然にも共通の友人が。ソルビアティと彼の両親は近所でとても親しく、先週の週末も昼食を共にしていたそうだし、高校の時のステファノの和声の教師はソルビアティだった。

12月某日 ミラノ自宅
近所の自転車屋に、家人の自転車のパンク修理に出かけると、白い何とも魅力的な中古自転車が置いてある。聞けば少なくとも40年か50年前のイタリア製自転車で、ボロボロの状態で持ち込まれたものを、彼が全て磨き上げて塗装し直したのだと言う。車体の組み方も今よりずっと丁寧で角度も今のものよりずっと漕ぎやすいと言う。ヘッドランプも時代がかった摺りガラス製で、美しく値そのものは決して高くはないので、中古自転車を探している留学生Y君に紹介したいが、車高がとても高く彼には乗れまい。とても美しく拙宅に置いておきたい気持ちに駆られるが、家人に叱られるので我慢する。

12月某日 ミラノ自宅
階下で家人が「歌垣」を練習していて、聴いて意見を言ってくれと言う。こちらも曲が分からないので、気が付かれないよう携帯電話で録音して、作曲者に送って助言を仰いだところ、同居人通しイメージの摺り合わせをするのは危険、とのお返事を頂戴する。

12月某日 三軒茶屋自宅
基本的に、松平さんは練習にいらしても細かい注文は出さずに、微笑みながら楽譜を開いて音を追い、必要最小限しかお話にならない。
練習の後で、今日気が付いた点をご教示願うと、「冒頭の日の丸のヴィデオね、あれは短く。それから、退廃チャンネルのポルノの喘ぎ声、あれは女で。後はいいです」。簡潔な指示に終始する。
それまで喘ぎ声は橋本君にお願いしていたのが、画面に映し出されるのが網タイツにはだけた臀部だったから、これ以上内容をを複雑にしたくなかったのだろう。橋本君が落胆しながら、喘ぎ声ですら使って貰えぬ寂しさをこぼしていて、一同の笑いを誘っている。

12月某日 三軒茶屋自宅
松平さんのオペラでは、会話の流れに音楽をどう載せるべきか、方向を決めるまで随分悩んだ。その分決断を下せば後は思いの外明快だった。本番衣装について尋ねられ、ソプラノはSM女王のコスチューム、アルトは胸のはだけた銀シルクのネグリジェに素足、バリトンは貴族風ナイトガウン、テノールは戦時中の特高警察風制服に、バスはざっくり編んだセーターにスラックスと注文を出すと、即座に却下されてしまう。

12月某日 三軒茶屋自宅
通し稽古を見学に来る来訪者数人。皆口を揃えて、この昭和の香り漂う雰囲気が良いと言う。24年もイタリアに住んでいるから、平成という時代を、点でしか捉えられぬまま終えつつあることに気づく。
オペラの練習中、休憩開けに突如皆から誕生日祝いを祝福されて驚く。誕生日ケーキまでていねいにご用意いただいていて感激。一体誰が誰に進言していたのだろう。

12月某日 三軒茶屋自宅
無事に公演を終えた松平さんの「挑発者たち」は、近未来ディストピア社会に於けるデカメロン像かも知れない。
反体制派の若者たちは淫行に明暮れ社会性を否定する。
彼らこそ本来反逆者と見做される存在であるはずだが、対する秘密警察の警察官やスパイを含め、松平さんは何を持って正義とするか、基準を敢えて明快にしない。隣国から発射されたミサイルが着弾し国が全滅する前に、彼らは互いに銃を撃ちあって斃れる。
ミサイル着弾の場面で楽譜にサイレンの指定があって、今回は空襲警報の録音を後藤君に重ねて貰う。
演奏会後平尾先生とお電話すると、「自分はまだ幼かったけれど、微かに空襲警報のサイレンの音を覚えている気がするのよ。凄く厭な音よね。今まで政治的な発言をしなかった松平さんがどうしたのかしらと、考え込んでしまったわ。10年前と言えば、世界各地で色々また違う意味でキナ臭かったから、やはり思う処があったのかしら」。

12月某日 三軒茶屋自宅
重症の腱鞘炎に苦しむピアニストの友人がいて、時々相談に乗っている。単なる腱鞘炎ではなく、ドケルバンだったのだが、それはどうやら腱鞘の脱臼らしい。訪ねる先々の病院でいつも違う見解を出されるので、精神的にとても辛そうだ。
一月末の演奏会を弾きたいと強く願っていて、鎮痛剤を注射してでもやりたいと言うので、とにかくそれは止めるべきだと強く話す。
左手の親指が痛くて動かないと言うが、本当に弾きたいのなら、当座は親指を使わない運指で弾くべきだろう。
中学3年の時、高校入試のために初めてピアノを弾かなければいけなかった時、左手で使える指は親指、人差し指、中指だけの3本だけだった。薬指は脳と全く繋がっていなかったから、全く動かなかったし、第1力が全く入らなかった。事故に遭ってからピアノを弾くまで、薬指など使ったことがなかった。

最初の入試で悠治さんの「毛沢東三首」を弾いたが失敗したので、翌年ヤマハで見つけたプーランクの「夜想曲」の1番を左手は3本指で弾いた。当時プーランクがとても好きだった。
当時家に楽器はあったが習ったこともなく、習うこともなく適当に弾いたのだが、3本指があればそれなりに弾けることがわかった。
高校に入って最初に選んだ曲も、調子に乗ってプーランクの「メランコリー」だった。
初めてピアノを弾くことを覚えたので、面白くて仕方なくて一日中弾いていた。自分なりにどうやったら弾けるか、全部の音に指使いを楽譜が真っ黒になるほど書き込んだのを覚えている。
その後欲が出てきて、薬指を使ってみたくなり、それまで崩して弾いていたオクターブを少しずつ薬指を使って弾いているうち、何時の間にか薬指は動くようになった。
鎮痛剤を打ちながら、手を壊すためにピアノを弾くくらいなら、音を省いてでも無理な指を使わないで弾けばよい。人と違うことをやるのも愉快、くらいに考えて悪いことはないだろう。

12月某日 三軒茶屋自宅
「歌垣」の練習始まる。初めは、書かれている音を指定の奏法で演奏することから始め、悠治さんの考えている「歌垣」のイメージに近づいてゆく。もっと大陸に今も残る健康的な「歌垣」を想像していたのだけれど、悠治さんの意図していた「歌垣」は、もっと官能的で淫靡な「歌垣」だった。皆がその意図を理解すると、発せられる音が突如それらしくなる不思議。それは音楽家としてはわかるのだが、一体何がどう作用してこうなっているのか、誰かに説明して貰いたい。

12月某日 三軒茶屋自宅
オペレーション・オイラー。リハーサルを前に、荒木さんと鷹栖さんが誇らしげに、でも少し困った顔で言う。「出るようになっちゃったんです」。どう足掻いても出る筈のなかった超高音の運指を、見つけたのだと言う。その音を出すために歯でリードを噛むので、音の振動がそのまま全身に伝導して、気持ち悪く鳥肌が立つと言う。
「出るようになったそうです」と作曲者に伝えると、「でしょう」と笑われてしまった。通し練習の後で、「楽しそうに身体を軽く揺らしながら、吹いてみてほしい」と悠治さんより助言を頂く。

12月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんの指揮は、彼がピアノを弾いている時の身体の動きにそっくりだ。ともかく、愕くほどいい音がする。
その昔「少林寺拳法のような高橋悠治の指揮」とどこかで形容されていた。確かに空を切るようにも見えるけれど、音を出す点を打たないから、出てくる音が瑞々しい。
悠治さんが細かく微細なニュアンスについて注文を出してゆくと、演奏者の耳がどんどん開いてゆくのがわかる。
演奏者の耳が開くことでもたらされる新しい空間で、悠治さんの指揮がより自由に動けるようになってゆく。
書かれた音を演奏する姿勢から、互いに、書かれた音を通して交感する姿勢へ変化してゆく。

12月某日 三軒茶屋自宅
悠治さんとのリハーサル。指揮で音を合わせないつもりでも、楽譜が難しいと無意識に音符を合わせようと手が動きがちで、演奏者も指揮を頼りがちになる。彩の豊かな糸をあわせて縒った、紐のようなもの。自分で制御できない、不安定な音。悠治さんはそう表現していらしたが、指揮に拘らず、演奏者が互いに聴き合って音を紡ぐと、音場は明確に変化し音の輝度が途端に上がってくる。
音が、音楽になる瞬間。

12月某日 三軒茶屋自宅
三日間、悠治さんとの濃密なリハーサルを続けて、見えてくるものがある。半世紀前に書かれた作品は、我々の目に触れないところで生き続けていた。「生き続ける」とは「息を続けて」「呼吸を続けて」いたことであり、呼吸を続けるということは、たとえ表面上の見かけが変化していなくとも、古い皮膚は垢となって剥がれ、古くなった血液は新鮮な血液に取替えられて、生き続けてきたということ。
作品も生きていて、作曲家も同じく生きているということ。生きているということは、変化し続けるということ。

12月某日 三軒茶屋自宅
「歌垣」演奏会が無事に終わった。どの演奏も素晴らしいものだった。
「クロマモルフ」も「6つの要素」も、結局以前抱いていた印象から大きく異なるものとなったから、悠治さんに今回実際練習にお付き合いいただけたのは本当に嬉しかった。「オペレーション・オイラー」も「さ」も、演奏の素晴らしさと相俟って、想像より遥かに素晴らしい作品だと知った。「あえかな光」は聞くほどに美しい作品で、演奏者が音を愛でるかのように発しているのが、強く印象に残った。
「歌垣」は、昼は太陽の下で詳らかになる肉体美的官能性、夜は闇の中、手探りで触感を辿る官能性が、自然と立昇る不思議を思う。

(12月30日ローマ空港にて)