しもた屋之噺(208)

杉山洋一

息子を中学校に迎えにゆき、そのまま付添ってノヴァラに向かっています。中学校からほど近い、ユダヤ人街を走るソデリーニ通りに「meglio disoccupato che raccomandato!(コネ野郎より失業者!)」と痛切なスプレーの壁の落書きを見つけ暗澹たる心地になり、地下鉄では、細いブレスレットがつけられなくて苦労している、痩せた浅黒い中年女性をぼんやり眺め、ガリバルディ駅から乗ったこの近郊電車は、春の心地よい日和のもと、気が付けば、数年前に開催されたミラノ万博跡地の傍らを走っていました。
ここからノヴァラまで、まだ深い雪をいただく切り立ったフランスアルプスを右手に仰ぎながら、水田地帯を走ってゆきます。田植えの季節なのか、ロンバルディアとピエモンテを分けるティチーノ川から引かれた灌漑用水路を伝い、水田はどこも満々と水を湛えており、周りの田園風景が水鏡に映ります。ペトラッシが音楽をつけた、映画「苦い米」の舞台はこの地方のもう少し先、ヴェルチェッリでした。「苦い米」当時の出稼ぎ労働者は各地のイタリア人でしたが、現在のピエモンテは多くの外国人、特にアフリカ系の移民が大切な労働力を担い、この近郊電車でもアフリカ人を多く見かけます。
後期の授業にニコルというアフリカ系の女学生が入ってきて、いつも陽気な彼女は、リズム練習になるといつも楽しそうに身体を揺らし、踊りながらテンポを取るのが印象的です。

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4月某日 ノヴァラ、回廊喫茶にて
昨年秋に息子が日本人学校に転校して以来、イタリアの中学で習っていたフルートはすっかり放り出していたのだが、最近になって突然、全て忘れてしまうのは悲しいと言い出した。
二週間前の週末、息子の付添いでノヴァラの音楽院を訪れた際、突然、おいと声を掛けられ顔を上げると、フルートのジャンニである。思わず、何年ぶりだ、10年ぶりどころではないな、と再会を喜ぶ。ジャンニとはエミリオのクラスで一緒に指揮を習った仲である。当時、エミリオのクラスには、市立音楽院で同僚のギターのグイドや、このジャンニや、トリノの国立放送響でピアノを弾くアントニオ、今はトリノの国立音楽高校で教鞭を取るマルコの姿があった。
あれから何度か、国内の音楽祭でジャンニと演奏もした。当時彼はレッジョ・エミリアの国立音楽院で教えていたが、その後にクーネオに転出し、5年前からノヴァラで教鞭を取るようになったと言う。息子が通うレッスン室斜向かいが、旧知のヴィオラのマリアのレッスン室で世の中狭いと愕いたが、ここでジャンニが教えているのは知らなかった。事情を話して、早速息子はジャンニに副科フルートを習い始めた。
先日はジャンニに誘われ、彼の担当している学生オーケストラの基礎クラスを訪ねた。そこでは、ジャンニがエミリオを彷彿とさせる指揮姿で、モリコーネの「ニューシネマ・パラダイス」とヴィヴァルディの2本フルート協奏曲のリハーサルをしていて、窓から射し込む午後の黄金色の日差しがジャンニを逆光に浮きたたせ、「ニューシネマ・パラダイス」と見紛う光景に胸が一杯になる。
トリノのマルコも同僚のグイードも、指揮を学びたい学生がいると連絡してくる。彼らから送られてきた生徒たちも、我々が昔エミリオから学んだ指揮を揃って踏襲していた。
エミリオは指揮者をつくるレッスンはしなかった。音楽の真理を伝えるのには懸命だったが、職業指揮者になるための訓練には興味がなかった。しかし、その核心は現在も我々一人ひとりにしっかり残り、我々のそれぞれが自分の言葉で生徒に伝えていて、「真実は、一度知ってしまうと覆せないもの」と繰返していたエミリオは間違っていなかった。
息子を待ちつつ、ノヴァラの公園下の喫茶店で当時に思いをめぐらしている。
 
4月某日 ミラノ拙宅
市立音楽院での指揮レッスンは、ピアニスト2人を振る個人レッスンである。そしてピアニストが昼休みを取るあいだ、ピアノを使わずにテクニックだけを取り出して集団レッスンをしている。今年は新入生の進度が揃って早く、基礎的技術に留まらないレッスンができる。
技術的な問題が解決できると、寧ろ本質的な問題が浮彫りになった。正しいことを正しくやるだけでは、音楽にならない。一人ずつ順番に「原始的で獰猛に怒りながら」級友たちを叫ばせてみる。どんな手段でもよいと言ってあり、こうなると最早技術ではない。もの凄い形相をしても、拳骨を振りかざしても、身体を震わせても、この「原始的」エネルギーが体内から放出されなければ、どうにも叫ばせられない。面白いものである。
例え放出できても、相手までエネルギーが届かなければ、出てくる声にはエネルギーは反映されない。いつもはにかんでいて、まともに演奏者の目を見るのにも苦労していたエマヌエレが、意外にもとても上手に叫ばせていて興味深い。
あまりやると喉を壊すので10分程度でやめたが、その間にうちの教室を通りかかった同僚たちが、目を丸くして仰天しながら、「これは素晴らしいレッスンで…」と逃げてゆき一同抱腹絶倒した。通りかかる度に怪しげに手袋を頭に載せていたり、沈黙のなか時計を凝視していたり、教室の壁を眺めて振っていたり、と同僚らも毎度呆れているのだが、挙句の果てに生徒が順番に級友を叫ばせていれば、これはいよいよ世も末である。
 
4月某日 ミラノ自宅
日本の恩師より近況を伝えるメールをいただく。
「心配かけて済みません。あちら此方の病院に係りますと、同じ症状でも違う事をいわれます。なるべく良い事の方を聞くようにしています。年はいやでも取るので、仕方在りません。一日一日がいまでは大切です。お天気の心配、猫の健康の心配、鳥の餌の心配、心配事のデパートです。悲劇も喜劇も劇には変わりありません。二つあってのこの世ですかね」。
少しシェークスピアばりのお便りを頂戴したので、その晩みた夢をお返事がてら書き送った。
「録音を三善先生のお宅に届けに上がった夢をみました。先生が亡くなっているのはわかっているのですが、こんなものを書いたら先生から怒られそうです、とメッセージをしたため、昔の阿佐ヶ谷のお宅にあった大きな甕の中にしまいました。今も相変わらずお忙しく作曲をしていらっしゃると思うのですが、というようなことも書いて。雨が降っていたので、その上に新聞を被せて帰ってきました。その巨大な甕だけが阿佐ヶ谷のお宅のままで、周りの風景は、小学校のころ住んでいた東林間の近所にある坂だらけの住宅地のようでした。夜、雨が降るなかそこを訪れて、なぜか家を一回りして、玄関の甕のなかにメッセージとCDをいれて帰ってきた、というところで目が醒めました」。
それに対するお返事が届く。
「其れは夢ではありません、貴男の心の中の世界です」。
「私も若返りたいのはやまやまですが、子供の頃の戦争の時代はごめんです。運の良い猫にでも生まれ変われればその方が好いですね。今朝はどんよりと薄ら寒く鬱とうしい一日になりそうです」。
 
4月某日 ミラノ自宅
1969年から2019年まで、時間軸に沿って半世紀に亙る世界中の目ぼしい戦争と紛争を書きだしてみる。先ずその数の多さに言葉を失い、無数の諍いのまにまに、幾つかの大きな流れが浮かび上がる。アルカイダの名前を聞くようになるあたりから、明らかに以前の戦争の定義に収まり切れぬ、不穏な空気が世界へ広がりゆくのを実感する。無意識にぼんやり感じていたものを、目の前に露にされたよう。自分の無知の深い闇を元気なうちに少しでも埋めておこうと願う。
 
4月某日 ミラノ自宅
夜、食卓に息子と並んで座り、夕食。二人で家に居るときは、こうして二人で庭の木を眺めながら食べる。思春期真っ盛りの息子からは、「お父さんには夢がない」と呆れられているが、確かに夢のない人生を送ってきた気もする。「大きくなったら何になりたかったか」と尋ねられ、「ローカル線とか鉱山鉄道とか森林軌道のトロッコ運転手」と答えると、大いに失望される。オールドファッションだという。
子供の頃は、鉱山鉄道などぺんぺん草の繁茂する廃線跡をたどって、一人で歩き回っていたが、ミラノの拙宅もアレッサンドリア方面に延びる、鄙びた列車の線路沿いにあって、庭の2メートル先は、草むした引き込み線のレールが走り、年に何度かは臨時列車のヤード作業のため、背の高い草を倒しながら、のんびりとここまで列車もやってくる。子供の時分であれば飛び上がって喜んでいた光景だ。
年始から今まで、作曲も譜読みもしないでワーグナーやらレスピーギやらカセルラの資料ばかり読んでいて、果たしてこれが一体将来自分の役に立つのかと思っていたが、思いがけなく今年の秋にはカセルラの三重協奏曲とマリピエロの交響曲をボローニャから頼まれた。
「夢」ほどロマンティックではないが、ささやかな希望は、空の上かどこからか、誰かが叶えてくれるような気もする。
 
4月某日 ミラノ自宅
小長谷正明の著書は今まで随分読んだ。最後まで読み残していた「神経内科病棟」を電車で読みながら何度も涙が溢れそうになる。身内にこうした病気を抱えたことがある人なら、誰でも同じだろう。息子の闘病中、親身になって力を貸してくれたニグアルダ病院の医師たちの顔を一人一人思い出しながら読む。普通に読んでも胸をうつ文章に違いないが、実体験と結びついてしまうと、なかなか客観的に想像できない。
 
4月某日 ミラノ自宅
今年は「ブラームス・ア・ミラノ」という、ミラノ各地の公会堂で年間14回の演奏会を開き、ブラームスの室内楽作品全曲を演奏するプロジェクトがある。家人もスキエッパーティと2台ピアノでピアノ五重奏の二台ピアノ版として知られる二台ピアノのソナタを演奏した。
22歳で早逝したチェリスト、マルコ・ブダーノの名を世に留めるため、若い音楽家二人を中心に創設されたアソシエーションが企画をサポートしている。毎回演奏会前にミラノ各地を案内つきで歩いて散策してから、夜、演奏会が行われる。
先日は第二次世界大戦の爆撃の瓦礫を集めた丘陵で知られるQT8地区を散策ののち、QT8地区の公会堂で演奏会があった。企画者をよく知っていて何度も演奏会に通ったが、どれも心に残る素晴らしいものだった。ブラームスだけの室内楽演奏会を上級の演奏で愉しむのは、究極の贅沢だと気がつく。
 
4月某日 ミラノ自宅
授業の合間の休憩中、学生二人に日本のような君主制国家の感想を求められ、しばし戸惑う。日本の君主は象徴だから、実際は共和制に近いともいわれる。
今井信子さんや岩田恵子さん、澤畑恵美さん、林美智子さん、米沢傑さん、河野克典さんとモーツァルトを演奏したとき、美智子さまが演奏会にいらしていて、演奏会後に少しお話した。
林さんは、自分の名前は美智子さまにあやかってつくれてくれたもので、こうして直に聴いていただけて感無量とお話ししていらした。自分の番になって、美智子さまから出し抜けに「これだけのことをなさって、さぞかし皆さんで練習を積まれたのでしょう」と質問を受けた。大いに狼狽えながら「ああ、はい。それはもちろんです」と言った途端、一同爆笑したのが懐かしい。2012年のことだった。
2014年には、地震で甚大な被害をうけたイタリア中部のラクイラで、ジャーナリストのガッド・レルナーと一緒にファビオ・チファリエルロ・チャルディの「Voci Vicine」を演奏した。Voci Vicineは明仁天皇の311犠牲者へのヴィデオメッセージで始まり、最後も明仁天皇のメッセージで終わる。メッセージの音響とアンサンブルが同期するように書かれ、舞台ではヴィデオも映写されるので、アンサンブルの音が明仁天皇から発せられるような錯覚に陥るのだ。もしかすると、これを日本で演奏すれば不謹慎と問題になるかもしれない。明仁天皇の優しく気品ある声色や発音は、演奏者からも聴衆からも、頗る評判が良かった。
息子は、昨年夏、草津にカニーノのレッスンを受けに行った折、どういう経緯か美智子さまの傍らでお昼をご一緒したとかで、美智子さまから「よくお食べなさいね」と励まされた、と暫くの間、周りに自慢してまわっていた。

(4月30日ノヴァラ・ジュスティ庭園にて)