しもた屋之噺(238)

杉山洋一

見上げると、澄み切った青空に一本、太く純白の飛行機雲がどこまでも伸びています。深秋の午後の太陽が辺りをすっかり黄金色に染め上げていて、秋は日差しこそ短いけれども、輝きの荘厳さに思わず言葉を失います。庭の向こうの眩い光線のなかで、校庭に並ぶ常葉樹がちらちらそよぐ風に葉をくゆらして、反射する光でわれわれを存分に愉しませてくれるのです。

11月某日 ミラノ自宅
ふと、自分は現代音楽や前衛音楽を、さして好きではないのだろうと考える。至極、素朴な感想ながら的を得ている気がする。
確かに昔は好きだったが、それは当時の前衛音楽が好きだったのであって、取り立てて「現代音楽」に熱中したのではなかった。
尤も、興味を覚える現代作品を見出すと、かかる作品は既に存在していて、追随はいけないし必要もないと無意識に諦める癖がついていて、夢がない。
エマヌエラの室内楽レッスンのため、階下で息子がベートーヴェン4番のヴァイオリンソナタを譜読みしている。これが終わると、次はシューマンの1番ソナタが課題だという。
川口さんの助言で、「山への別れ」の5オクターブ・フォルテピアノ版をつくる。モーツァルトの頃使われていた楽器の標準で、所謂フォルテピアノらしい音がする。

11月某日 ミラノ自宅
息子のため、カヴァッリ「カリスト」の天井桟敷チケットを取ってあったのだが、アレルギーで咳こむのが心配と言うので、結局家人と連立って二人でスカラ観劇にでかけたが、これが音楽演出ともに出色の素晴らしさだった。これほど瑞々しい音楽で、上品で愉快な演出だとは想像もしていなかった。
観劇の妙が全て詰め込まれていて、カヴァッリには脱帽である。歌心と言い、物語の展開の塩梅と言い、あれだけ様々な要素を取り込みながら、再終幕で聴き手の心にすっと染み入るところにも、深く感銘を受けた。
仰々しい演出ではなく、社会的距離も鑑みて熟考された演目と演出のはずだが、全体を見通す統一感と言い気品と言い、数年前の「子供と魔法」に匹敵する。
終演後、マンカ夫妻と再会して、ランツァ駅まで徒歩で見送る。パオラに会ったのは久しぶりだが、全く印象が変わらない。随分昔、初めて彼女に会ったときは、まだ共産党新聞「ウニタ」紙の編集部に務めていた。今は国際紙「メトロ」編集局長だが、以前ほど忙しくない分、ジャーナリストとして世界各地の「Metoo」運動を追っていて、結局すごく忙しいのよと笑った。
中国で「Metoo」運動を活発に行う女性人権団体があるなんて、信じられないでしょう。わたしも、半信半疑だったのよ。報道規制とかあるから。でもね、彼女たちの運動は弾圧を受けずにしっかり活動出来ているの。不思議よね。どういう経緯かよく分からないのだけれど。日本の「Metoo」運動はあんまりぱっとしないわね。

11月某日 ミラノ自宅
正午前、居間のガラス窓に何かがぶつかった音がして、庭を見ると、小さな小鳥が死んでいた。美しい橙色で目は静かに閉じられていた。これで今年は三羽目なのだが、一体どうしたのだろう。今までは5年に一羽程度庭で鳥が行き倒れているのを見つけただけだが、今年は立て続けにに三羽、同じ時間帯に同じようにガラス窓に激突して死んでしまった。
決まって晴天の正午前だから、あの時刻だとガラス窓には庭の樹が反射して、或る角度から何某か錯覚を起こさせるのか、さもなければ、巷で騒がれているように、何某か化学薬品に神経が侵されてしまっていたのか。
余りに美しい小鳥で、そっと持ち上げると、三和土に髄液の染みが残っていた。窓ガラスの当たった箇所には少し跡が残っていて、何となくそれを拭う気にもまだならない。三羽並んで庭の奥の樹の下に穴を掘って埋めてやった。リスが掘起こしたりしないだろうが、カラスやトンビにつつかれるのは忍びなく、少し深めに穴を掘る。

11月某日 ミラノ自宅
長年、夢だとばかり思っていた光景がある。小学生の頃、父と連立って下北半島に出かけた折、ふと人気のない駅に途中下車した。広い一本道と、どことなく靄がかった不透明な街の印象は、恐山を訪ねた帰途だったからか。愕くべきことに、道すがら目に入って来る商店の屋号が、どれも自分と同じ名字ばかりで目を疑った。どこか異次元に迷い込んだのかしら、と妙な心地になった。あれは夢だったのかと調べてみたところ、静岡ばかりと思い込んでいた「杉山」姓は、下北半島の一部に、限定的に密集していると知った。あの非現実的な光景は、恐らく夢ではなかったのだろう。一体どうしてあの街にふらりと降立ったのか、殆ど人気がなかったのは何故なのか、わからない。父に尋ねてみても、恐山の印象こそ鮮明なのに、あの不思議な街について一切記憶がないのは何故なのか、ちょっと解せない。

11月某日 ミラノ自宅
トルストイ通り角の喫茶店で、メルセデスとカルロッタと再会を祝った。近所に住んでいながら、コロナ禍にあって実際に会うのは2年ぶりで、最初メルセデスはこちらに気が付かなかったほどだ。こちらはマスクで顔が半分隠れていたし、自分の眼鏡もマスクで曇っていたからだと笑った。
2年ぶりに見るメルセデスは、思いの外こざっぱりした印象で、足を骨折して随分痩せていた。ミラノ工科大で教授陣を纏めるカルロッタは、一昔前と違って、現在工科大に籍を置く中国人学生は、誰もが実に優秀だと褒めそやした。イタリア人学生の三倍は勉強も出来て、努力も惜しまず、研究授業は全て英語ながら、言葉もとても流暢だという。
中国からオンラインで参加している学生は、時差で講義は深夜に及ぶので、最後には疲れ果て、先生もう寝ます、と退室することもままあるそうだが、以前のような、卒業証書を得るためともかく学校に籍を置くだけ、という不遜な態度とまるで違って、とても教え甲斐もあるそうだ。カルロッタ曰く、現在では、国内で相当優秀な成績を修めなければ、ミラノ工科大の入学推薦も受けられないのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
家人は朝4時にタクシーに乗り込み、日本へ向かった。朝、一人で散歩に行き戻ってくると、息子の寝室の窓をリスが尾で叩いていて、バンバンという、あまりに大きな音に吃驚する。リスは啼き声もガラガラで烏のようだし、躰に似合わず派手に窓を叩くし、侮れない。
朝10時から夜8時半まで、ズームにてオンラインの3時間授業を三つ。息子は朝6時からオンラインで授業を受けていて、食事は別々に摂る。
こうした日に無難なのは、前日に野菜をくったりと煮込んでトマトソースのパスタを作り、夜寝る前にカレーのルーを足してカレーソースにし、朝起きたときに米を炊いて、各自空いた時間にカレーライスを食べる。こちらの昼休みと休憩時間を使って、息子はピアノを練習している。
この時期はポロ葱が旨いので、他の野菜と一緒にポロ葱をふんだんに入れて煮込む。肉の代わりにツナ缶でコクを出す。パスタとして出すときは、古く乾いたパルメザンチーズの端を割って、ソースと一緒にしばらく煮込む。乳児の歯固めに、イタリアではこのパルメザンチーズの端を使うのだけれど、とろけるまで煮込んで料理に使うのは、ささやかな冬の贅沢。

11月某日 ミラノ自宅
イタリアの感染状況は未だ安定しているが、ドイツとスロベニアを初め、近隣各国で状況はすっかり逼迫しており、ここも最早風前の灯だったが、今朝、新聞を開くと、遂に感染状況の悪化は確実となった、と書いてある。
またか、と腰から力が抜け、足が砂のように崩れてゆく。ワクチンの効果が本当にあるのか、これから真価がわかるのだろう。イタリアの感染拡大は岐路に立たされている。
東京の母が、息子にクリスマスカードを送ろうとしたところ、イタリア行の航空郵便は取り扱っていない、と郵便局で断られたそうだ。
アリタリア航空が破綻し、イータ航空も日本には飛んでいないからか、信じられない事態に驚く。仕事ならDHL便など使うところだろうが、現在、日本に端書きを投函しても、船便でしか届かないなど、俄かには信じ難い状況だ。
週末息子が国立音楽院に出かけると、決まって、帰宅時にワクチン反対派、グリーンパス反対派のデモに遭遇する。当初は単にワクチン接種に抗議していたのが、グリーンパス、牽いてはスーパーグリーンパス導入が話題に上るようになり、ワクチン接種者であっても、人権無視に反対して、デモに参加する人々も現れた。
国立音楽院は、デモが開始されるフォンターナ広場の裏手にあって、しばしば道路も封鎖され、路面電車も止まる。新聞を開けば、ワクチンとグリーンパスに対する抗議運動とワクチン3回目接種の話題は、決まって大きく取りあげられている。
毎朝、トルストイ通り角のキオスクで新聞を買うのだが、売り子のシモーナからも3回目接種の予約はしたかと尋ねられた。今週から、40代以上の3回目接種予約が始まったからだ。
少しずつ感染が広がっているのは感じていたし、2回目接種後半年で効果が落ちるとニュースで喧伝している。1月の半ばすぎると、仕事の合間に接種をうまく差し込めないと思い、結局1月初旬に予約を入れた。

11月某日 ミラノ自宅
市立音楽院にて日がな一日レッスン。指揮にあたって、エネルギーを収斂させる点を具体的に示すことで、案外うまくいくことがある。
学生の前に座って、こちらにエネルギーを投げるよう指揮しろと伝えて、常にこちらの目を凝視しながら振らせることで、自らの殻に閉じ籠るのを防ぐ。
面白いもので、自らの裡の安全地帯に意識が戻り、神経の扉が閉ざされると、目の前で演奏している音は魔法のように聴こえなくなり、どんなに頑張って振っても演奏者に何も伝わらなくなる。
その構造が可視化できるようになったので、正しく振るより寧ろ、自らを常に安全地帯の外に身を置かせ、そこに留まらせる勇気と自らに対する信頼を養う。
とどのつまり、幾ら技術を教えても、自分の外に出なければ指揮はできないが、技術などなくとも、自分の殻の外に自らを置き、感情の起伏や呼吸を演奏者と共有できていれば、技術不足などあまり問題にならないと思う。

そんなことをつらつら思いつつ夕方も終わり近くになった時、ピアノを弾いていたMが突然さめざめと泣きだしたので、我々一同すっかり驚いてしまった。
取敢えず休憩にしたところ、彼女はどこかへ出て行き30分しても戻ってくる様子がなかった。
仕方がないので、こちらも下手なピアノで演奏に参加しつつ次のレッスンを始め、隣の部屋で室内楽のレッスンしていたマリアにMを探しに行ってもらう。普段ローマに住んでいるマリアは、ミラノに来るとき、時々Mの家に厄介になっているのを知っていたからだ。
暫くして、泣きはらしたMを連れてマリアが教室に戻ってきた。恐る恐る残り3コマのレッスンを終えると、できるだけ急いでMを帰宅させた。
その後でマリアに詳細を尋ねると、彼女が泣き出したその時、国会でワクチン未接種者の行動制限法案が可決していたと知った。
彼女の家族に不幸があったか、個人的な事情で大問題が持ち上がったか心配していたので、肩透かしを喰らった気分だったが、それはあくまでもこちらの視点であって、彼女がワクチンとグリーンパスに熱心に反対しているとは知らなかった。
彼女がワクチン未接種で、48時間ごとにPCR検査の陰性証明を提出してグリーンパスを更新しているのは知っていたが、持病のためと聞いていたし、彼女の婚約者もワクチン接種済みだから、彼女が反対しているとは想像もしていなかった。
12月からはPCR検査陰性証明だけでは仕事も出来ず、教壇にも立てなくなる。基本的人権が守られない、と彼女は戦っていた。
フェースブックをやらないのでわからないが、SNS上で或いは彼女の意見も詳らかにしていたのかもしれない。いずれにせよ、正に青天の霹靂であった。胸襟を開いて長年色々と話してきたし、とても信頼しているけれど、ワクチンやグリーンパス導入について、深く掘下げて話したことはなかった。
このように、特定の状況下でなければ意見を交わせない、決定的な溝が社会を分断していることに唖然とした。
我々素人に正答はわからないし、専門家でもそれは同じではないか。ワクチン接種者であっても、すべて躰に良いことばかりと信じる人がどれだけいるのか。ワクチン未接種者であれ、ワクチンが全て悪とばかり妄信しているわけでもないだろう。
実際、身体的事情で打てない人もいるし、別の同僚のピアニストのYもアトピーが酷くアレルギー反応が危険視され、病院に一日入院して、治療を受けながら接種したそうだ。
ワクチンやグリーンパスの反対派は、イタリアでは確かに少数派に違いないが、国内全体で鑑みれば、その人数は無視できるような数字ではないはずだ。
ワクチンを推奨し始めたときから、そしてワクチンパスポートが話題に上りはじめたころから、人権が失われる危険は盛んに話し合われてきた。
一年も経たずにワクチンは義務化され、ワクチンパスポート、つまりグリーンパスも義務化されてしまった。友人同士であっても、宗教や政治のように、無神経に口にするのも憚られる風潮になってしまった。我々はどこへ向かおうとしているのか。何を信じればよいのか。

11月某日 ミラノ自宅
世界保健機関が、警戒すべき新変異種として、南アフリカで確認されたオミクロン株を指定。オミクロンは大規模な変異を含む。
作曲中の「揺籃歌」は、インドのデルタ株までで筆を置くつもりだったが、知ってしまった以上オミクロン株を含めるべきか考える。未だこれが脅威なのか判然としないが、それも含めて何某かは考えるべきだろう。しかし間に合うのだろうか。従来のワクチンの効力が疑問視される、とある。

11月某日 ミラノ自宅
モザンビーク、南アフリカと往来していた男性が、ミラノ空港にてイタリアで初のオミクロン株陽性者と確認。「ワクチンのお陰で、症状は至って軽い」と、本人の談話が湿っぽくないのが良い。ナポリ在住で同居中の家族も経過を確認中だという。現在のところ、オミクロン株の感染者の症状は軽快。日本は外国人入国を1カ月間中止と発表。
母より、自宅で、一風変わったブロッコリーが生ったと聞く。初めて食べてみたがこれがなかなか美味しいそうだ。形状を言葉で説明してくれたが、どうも要領を得ないので、写真を送ってもらって調べた。日本のサカタ社が作った「Bimi」という新種で、イタリアでもこの2年ほど栽培を始めており、味はアスパラガス似で美味、だという。
日本では「茎アスパラガス」として流通していて、スティックセニョールという名前でも呼ばれる。それにしても、Bimiなるイタリア名は、誰がつけたのか。アスパラガスよりも、日本の「菜の花」、イタリアの「Cima di rapa」アブラナの花に近いように見えるが、実際食べたらどうなのだろう。軽く塩ゆでして冷水で締め、オリーブ油とレモンを垂らして、軽くパルメザンチーズをまぶして食してみたい。

11月某日 ミラノ自宅
日本でもオミクロン株陽性者確認。家人曰く、日本に向かおうとしたヨーロッパ演奏家も空港で搭乗拒否に遭ったりして、日本は大騒動だ、とのこと。
イタリアから日本に帰国の場合、政府指定のホテルで6日滞在後、8日間自宅待機が義務付けられている。

(11月30日ミラノにて)