しもた屋之噺(249)

杉山洋一

冬時間に変わり、俄かに深秋の趣きが増した気がします。庭を彩る深紅の落葉が美しく、それをリスがさかさかと掻きあげては、隠しておいた木の実を食む姿も可愛らしいものです。喫緊の節電のせいか、目の前に広がる夜の帳は、例年よりずっと深みを帯びていて、何もかもを呑み込んでしまいそうで、少し畏怖すら覚えるほどです。

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10月某日 ミラノ自宅
息子はフィエーゾレのアカデミー室内楽セミナー合格。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの人権団体にノーベル平和賞授賞。一柳慧さん逝去。北朝鮮のミサイルが日本を超えてゆき、弾道ミサイル警報、東京にも発令。クリミア大橋爆破。

10月某日 ミラノ自宅
久しぶりの雨降り。一柳先生の訃報が、時間と共に増々辛く感じられる。「自画像」初演の際、笑顔で「もうこれでお仕舞なの?」と肩をぽんぽん叩いて下さったのを、一生忘れない。色々とお世話になったけれど、本当にあの一言のおかげで、作曲を続けていられる。いつか、自分もあんな風に若い人と接することができたらよいと思う。
普段から日本に住んでいないと、大切な人の訃報に現実感が伴わなくていけない。そうして、人よりずっと遅く、本当に少しずつひたひたと現実が身体に沁み通ってくる。
浸透してくる実感だけはあるから、脳のどこかが当惑している。余りに時間差がありすぎて、手を拱いているのだろうか。一柳先生のいない喪失感は、未だあまりに現実感に乏しい。

10月某日 ミラノ自宅
日がな一日、大君の三味線協奏曲の譜割りをしていた。譜割りをすると、楽譜に目を通す時に、音符ではなく休符を読むようになるので、そこに空間が生まれる。目が音符ばかりを拾ってゆくと、音を包含している周りの空間を実感できない。
ミラノに自作の録音にきたサーニに会う。シエナで会うと、どうしてもキジアーナのディレクターと指揮者の関係になってしまうが、気の置けないミラノの音楽スタジオでは、昔と変わらず、気軽な作曲家仲間に戻れて互いに心地よい。クリミア大橋爆撃への報復で、ウクライナ全土に大規模爆撃。

10月某日 アルバニア・ティラナホテル
マルペンサ空港ティラナ行窓口に並ぶ人々は、皆揃って同じ雰囲気に見える。皆誰もがアルバニア人だと思うのは酷い思い込みに違いないが、観光客らしい搭乗客が皆無なのは平日だからか。息子をミラノに置いてきたので、機中、家人は結婚以来初めての海外旅行だ、新婚旅行だ、とはしゃいでいる。
日本・アルバニア友好100周年にあたり、アルバニア日本大使館の開催する日本文化週間のための渡ア。ティラナで水谷川優子さんと落ち合う。
アドリア海を超えティラナに着くと、どんより黒い雲が低く垂れていて小雨模様。寂しい雰囲気に戸惑っていると、若い男二人組にレンタカーはいらないかと声を掛けられる。
迎えてくれた初老の運転手曰く、本来、アルバニアは年間300日は快晴に恵まれるので、こんな天気は珍しいそうだ。彼とはその後もずっとイタリア語でやりとりをした。
ここから北に140キロ、二時間ほど走らせればモンテネグロとの国境、北東に160キロ走ればコソボに入る。モンテネグロの向こうはクロアチアで、そこを通り越せばイタリアのトリエステになる。
ここから900キロほどと言われ、案外近いと早合点したが、ミラノから南下すればイタリア半島の端にあるターラントまで950キロ。北上すれば920キロでハノーファーまで行ける。パリまでは800キロしかない。900キロはそれなりの距離である。
彼の副業はインターネット経由の中古車売買で、つい30分ほど前にも、一台ドイツで中古のベンツが売れたので、早晩バーデンバーデンまで自ら運転して車を届けにゆくという。時々休んで寝たりして、1日で着くさ、と誇らしげに話す。イタリアのアルバニア人は、皆働き者で逞しいが、実際アルバニアに降り立ってみても、その印象は全く変わらない。
ティラナ市外に入り中心街に近づくと街並みはぐっと垢抜けて、マックス・マラのようなファッション・ブランド店が立ち並ぶ。ティラナならユーロで買い物は出来るそうだ。
大層立派なホテルでは、大使館の森川さんや山田さん、ヨニダさんが出迎えて下さる。何でも、先日までアルバニア在留日本人は30名弱だったが、少し人数が増えたそうだ。アルバニア日本大使館の開館もつい2017年元旦で、ほんの最近である。以前はローマ日本大使館がアルバニアも管轄していた。日本に住むアルバニア人は200人ほどだという。アルバニアの治安はすこぶる良いと聞き、実際に訪れてみなければ分からないことは多いと実感する。

10月某日 ティラナ・ホテル
朝10時より国立音大でワークショップ。国立音大は、ホテルから工科大学を挟んだすぐ先にある。イタリア統治時代の建物で、外観は一見こじんまりとしているが、中は広々としていて、イタリアのファシズム建築らしさも随所にみられた。アルバニア唯一の音楽大学である。
音大の指揮科学生4人と、メトロノームを使った基礎練習から始める。年の頃22、3歳くらいの素朴な若者たちで、当初少しはにかんでいるようにも見えた。男子学生3人に女学生1人。どことなく南イタリアの若者の風情に通じるところもあって、ミラノで教えている時とあまり変わらない。イタリア語と英語どちらが良いか尋ねると、彼らはイタリア語はあまり解さないと言う。
その後にピアニスト2人を迎え、「兵士の物語」と「未完成」を少しずつ聴かせてもらう。振ることに夢中の生徒にはピアニストの目を見て振るように伝え、強音を出すのをためらう女学生には、自信をもって強い音を出させてみた。各人見違えるように姿勢が能動的になってゆく。外人によるワークショップは初めての試みだそうで、学生もピアニストも最初は少し緊張していたようだ。
ワークショップ後、学生たちから助言を求められる。今度ショスタコーヴィチを演奏会で振るのだが、クラシックのように音楽的に振って構わないか、など。確かに音楽大学は一校しかないが、特に音楽教育が遅れている印象は受けなかった。

10月某日 ティラナ・ホテル
国立オペラ・バレエ劇場にてリハーサル。立派で重厚な石造りの劇場は、内装をリフォームしたばかりで美しい。舞台監督の若者曰く、この劇場を、一日も早く他のヨーロッパの劇場と肩を並べられる存在にしたいと頑張っているのだそうだ。何でも言って下さい、それを実現するのが我々の務めです、と慇懃で実に親切である。
練習室はしっかりした防音室で、数本の白鍵が剥がれ、木が剥き出しになっている、部屋に設えたヤマハのピアノとは少し不釣り合いに見えた。部屋に置いてあったヴェルディのレクイエムの楽譜は、戦前のリコルディ版のコピーであった。
このように、新旧の混在する、少しアンバランスな印象は、欧州最貧国であるアルバニアの社会全体にも通じるものがあるかもしれない。61年のソ連との国交断絶から、90年代の開放政策までの鎖国時代、音楽文化も音楽教育も、国外からはすっかり隔離されていたようだ。
61年以前、アルバニアにはソ連の音楽家が多数滞在し、音楽教育もとても盛んであったが、国交断絶とともに彼らは引揚げてしまった。しかしその後鎖国期間中もアルバニアはソ連式音楽教育をそのまま続けたため、音楽家の基礎能力は押しなべて高く、特に弦楽器は優秀な演奏家を現在も多数輩出している。新しいスカラ座のコンサートミストレスも若いアルバニア人だし、ロンバルディア州立オーケストラのコンサートミストレスは、もう大分昔からアルバニア人のリンダだ。
夜は、内陸部エルバサンにあるアルバニア最大の水産加工会社ロザファ社の本社のある「フィッシュ・シティー」に向かう。アルバニアはアドリア海に面していながら、最近まで魚を食べる習慣がなかった。ここ数十年足らずの間に、イタリア人の料理人からアルバニアに魚料理が伝えられ、盛んに食べられるようになったという。御多分に漏れず、寿司はアルバニアでも人気があった。以前は、立派な伊勢海老が、家畜の豚の飼料に使われていた。
「フィッシュ・シティー」は巨大総合レジャー施設で観光スポットでもある。その中に水産加工場があって、ここで処理された水産加工品がヨーロッパ各国に輸出されている。ロザファ社が昨年より開始した畜養マグロは、全量日本に輸出されたそうだ。今日はここで、大使館主催の大規模イヴェントがあって、マグロと鰻のかば焼きが振舞われる。鰻はこのあたりではよく獲れるそうだが、獲った鰻が夜のうちに逃げ出してしまうとかで、数が足りなくなって、慌ててまた獲りにゆくと聞き大変愉快になった。
なるほど、このバルカン半島を北上した先、イタリア・ヴェネト地方などでは、鰻が伝統的に食べられていたのを思い出す。しかし、元来魚を食べないアルバニアの人々が鰻を食していたとは思えないので、食べたとしてもここ最近の話なのだろう。
道中へティエナから色々話を聞く。ティラナにいると分からないが、地方の貧困問題は深刻で、特に北部は状況が厳しく、海外への不正な渡航が後を絶たないそうだ。
併し、寧ろ高学歴のアルバニア人の人材流失が最も深刻で、大卒もしくはそれ以上の高いスキルを持ったアルバニア人は、海外に出たきりアルバニアに戻らないのだという。海外に拠点を作り、そこにアルバニアから家族を呼び寄せるのが一般的です、わたしはアルバニアに帰ってきましたが、と流暢な日本語でヨニダが説明してくれた。
医者や芸術家など、優秀なアルバニア人はみなアルバニアからいなくなった、とへティエナは嘆いていたが、イタリアで出会うアルバニア人演奏家が揃って優秀なのはそういう理由だった。優秀でそれなりに金銭的余裕もなければ、海外に留学すら出来ないに違いない。以前は、渡航先としてイタリアが一番人気だったが、近年はイギリス、ロンドンが特に高い人気を誇っている。
へティエナもヨニダも伊語が上手で、文法も発音も見事だから、当然どこかで習ったと思いきや、彼女ら曰く幼少からイタリアのテレビで育っただけだという。それにどの家族も一人くらいはイタリア在住の近しい親戚がいるから、習わなくても話せるようになるらしい。アルバニア人の言語習得能力が特に優れているのか知らないが、伊語は文法的には容易な言葉ではない。イタリア人ですら子供の頃から苦労して伊語を学ぶものを、テレビを見るだけで、簡単に話せるようになるのだろうか。
伊語の話せるアルバニア人が、揃って凡そ30歳以上なのは、より若い世代がインターネットで育っていて、イタリアのテレビに親しんでいないからだという。彼らは伊語の替わりに英語を話す。
占領地の国民に占領国の言語を強制する話はよく聞くけれど、その言葉と文化に興味さえ覚えられれば、本来それを強いる必要などないのである。一時的にせよ、アルバニアはイタリアに占領されていた側のはずだ。エチオピアやエリトリアなどアフリカ諸国にしてもそうだが、イタリアと当時の占領国との関係は、どうもよく分からない。
鰻は確かに美味であったが、マグロ寿司はそれを遥かに上回る美味しさで、忘れられない。

10月某日 ティラナ・ホテル
初めての快晴。全てが瑞々しく、南国らしい様相を呈していて、昨日までとは別世界である。
今日は朝10時から劇場のオーケストラと伊福部作品のリハーサル。生まれて初めてアルバニアのオーケストラの音を聴く。アルバニアのオーケストラは、録音すら聴く機会がなかったので、深い感慨を覚える。アルバニアに幾つオーケストラがあるのか知らないし、他のオーケストラのレヴェルは分からないが、劇場オーケストラの弦楽器セクションはとても良い音がして、何しろ心地よかった。特に上手な弾き手を集めて下さったのかもしれないが、それぞれがしっかり自分の音を表現しつつ、同時にオーケストラの音にも馴染んていて、大変魅力的であった。
現在も堅固なソ連式メソッドが残っているのか、技術的安定度もあり、歌謡性、つまり歌い回しは、スラブ的というより寧ろずっとイタリア的に感じられた。最初に一度通してから、丁寧に各曲を返したが、思いの外効率よく進んだのは、彼らに任せられる部分が多分にあったからだ。
興味深いのは、ギリシャ・ラテン系の歌謡性や楽観性と、独自の言語体系と文化体系を持ち、他の東欧社会主義国家と一線を画しつつ独自の近代史を歩んだ、彼らの真面目さ、気高さ、誇り高さ、几帳面さなどが同居しているところではないか。なるほどヨーロッパの秘境であった。良い意味で、文化的に鄙びたところも残っていて、伊福部作品の旋律も、あたかも彼らの伝統音楽に等しく絡め取ってくれたのではないか。
続いて家人のバッハのリハーサルにも立ち会う。劇場の指揮者ドコ氏は、確かにロシアメソッドであった。品が良く思いの外繊細で、ドコ氏の人柄に似て、優しい音楽である。昔から憧れている指揮者にフリッチャイとマタチッチがいて、それぞれ全く個性が違うのだが、アルバニアのオーケストラや指揮者を知らなかったので、どことなくクロアチアのマタチッチのような指揮者を想像していた。しかしドコ氏は意外なくらい繊細で、技術面ではずっとロシア的に感じられたし、歌い回しにイタリア的なものも感じられたのは、普段からオペラを振り慣れているからかもしれない。
アルバニアの劇場を出ると、脇にあるモスクのスピーカーから大音量のコーランが聴こえてくる。歌うような美しい抑揚なので耳に心地よく、街を満たすアラビア系の香木の匂いと相俟って、イスラムの国に来た錯覚を覚えるが、実際は他宗教と等しく共存している。
昨日は水谷川さんと家人が「天の火」を演奏してくれた。終盤、水谷川さんが舞台後方にしつらえられたガラス張りの螺旋階段を昇り、中ほどの踊り場で演奏したが、下から見上げるとチェロと足だけが見えて、譜面台のスタンドライトだけが輝き、なかなかに神々しい。演奏終了後、聴衆はみな立ったまま盛んに拍手を贈っていた。
夜、高田大使公邸に伺い、劇場の支配人をしているアビゲイラと話し込む。彼女はよく知られる優秀なヴァイオリニストでもあり、ミラノに長く住み、スカラのオーケストラでも働いていた。スカラやピッコロ・テアトロと一緒に日本を訪れた際の日本の印象を尋ねると、「日本は男女格差が酷い」とのことであった。
アルバニアの女性の印象は、割と竹を割ったようなさばさばした性格が多く、なよなよした印象がないのは、共産主義社会の名残りか。「わたしはフェミストだから、どうしても気になっちゃうの、そういうところ」と笑った。
彼女は他のアルバニア音楽家と同じく、6歳になるとき、自分で音楽がやりたいと両親に話して、音楽科つき小学校に入学を希望し、自分の意志でヴァイオリンを始めた。家族に音楽家はいなかったそうだ。そのまま学校でヴァイオリンを学び続け、最終的に先日教えに行ったアルバニア唯一の音楽大学で研鑽を積んだ後、ミラノの国立音楽院に留学したのだが、彼女曰く、ミラノの音楽院の方がレヴェルは低くて落胆したという。尤も、音楽院以外の環境においては、ミラノはとても魅力的で、音楽会も誘われる仕事もいつもとても刺激的だった、と目を輝かせた。
国立オペラ・バレエ劇場の歌手、バレエダンサー、演奏家、合唱団員は全て終身雇用契約となっており、現在劇場は14人のオペラ歌手、48人のオーケストラ団員を抱え、足りない配役やオーケストラ団員はエキストラで賄う。イタリアからも若い演奏家たちが多数エキストラに呼ばれているのは以前から知っていた。終身雇用と聞いて驚いたが、彼女曰く、音楽家の生活の保障としては最良だが、特に歌手など、とうが立ってきても等しく役を見つけ出演の機会を作らなければならないのは結構難しいという。
現在、アルバニア政府はティラナに二つ目のオペラ劇場を作る計画を立てるなど、音楽活動への投資に積極的だそうだ。今年の七月から劇場のすべてのアーチストの給与を一律5割引き上げ、月給1000ユーロとなったと言う。国民の平均賃金が月給300ユーロから600ユーロのアルバニアに於いて、1000ユーロの月給は破格の待遇だという。
彼女曰く、得てしてアルバニア人の語学習得能力が高いのは、この世界で生き抜くための逞しい生存本能とのこと。

10月某日 ティラナ・ホテル
等しく快晴。気分良し。軽く汗ばむほどだの陽気だが、ティラナから見たアドリア海の対岸は南イタリアのバーリだから、文字通り南国なのだ。劇場前の巨大なスカンデルベグ広場に立つと、目の前のそこかしこに、建設中の立派な高層ビルが目に入ってくる。目の前に広がる風景は近代的どころか、現代的ですらある街並みで、この国がヨーロッパ最貧国であることを忘れてしまいそうになる。
尤も、一本路地を入れば、昔ながらの鄙びた感じも残る。束ねられた2,30本の電線がだらしなく垂れる通りもあって、個人的にはその寂れた風情も大好きなのだが、ティラナ中心にあるスカンデルベグ広場から見える景色は、世界各国からの投資を得て急激に成長しつつある、頼もしい国家の姿そのものであった。
現在のアルバニアは、ヨーロッパ、特にドイツから北のヨーロッパ人が、燦燦と輝く太陽光を求めて訪れる観光立国で、しばしば、ドイツ人の団体観光客などが楽しそうに固まって歩く姿に出会った。タクシーの運転手曰く、コロナ禍でもアルバニアには殆ど感染が広がらなったため、ロックダウンも入国制限も行われないまま、ヨーロッパ各地からの観光客をずっと受け入れていたという。日本政府はつい先日までアルバニアを感染地域としてレッドゾーンに指定していたはずだが、一体どちらが正しいのだろう。
アメリカとの繋がりも強く、アメリカから観光客ももちろん訪れるが、2009年にNATOに加盟し、アルバニアに米軍基地が建設されて、関係はより深まったようだ。ちなみに、日本などアジア方面からアルバニアを訪れる観光客は未だ非常に少ない。但し、中国とアルバニアは以前から政治的に繋がりが強く、小規模ながら中国人コミュニティは存在していた。
昨日の昼食は、劇場から少し歩いて、瀟洒なイタリア料理屋に連れていってもらった。殆どのメニューにトリュフがかかっているトリュフ専門店で、トリュフがけのパッケリというパスタを頼んだが、大変美味であった。トリュフは好きでも嫌いでもないが、パッケリの茹で加減も味付けもイタリアで食べるものと違わないのに驚く。フランスやドイツで食べるイタリア料理とは別格で、イタリア人がどれだけ頻繁に訪れているのか分かる。隣の席の若い男女もイタリア人だった。
ミラノでこのトリュフがけパッケリを頼めば、15ユーロから20ユーロはするだろうが、ティラナでは7ユーロである。全体の物価の印象はミラノの3分の1から4分の1ほどだろうか。イタリアですらそうなのだから、ドイツや北欧から訪れる観光客にとっては、どれだけ安価に感じられるだろうか。
これは未だ通貨がリラだった95年、日本からイタリアに移住した当時の感覚に近い。あの頃は酷い田舎に引っ越してきたと思ったし、全て安価なのに驚いた。これほど安ければ何とか生き延びられるかもしれない、と一縷の望みを抱いた記憶もある。
その頃イタリアには日本人観光客が大挙して押し寄せていた。年始のスカラ座前広場には、幾つもの日本人の団体客がそれぞれ大型観光バスで乗り付け、芋を洗う騒ぎになっていて、ガレリアのプラダでは、日本の観光客は商品を棚ごと買い占めていた。あれから30年ほどの間に世界は随分変わったと思う。
午前中、劇場でドレスリハーサルをしてから、昼食前に一人でホテルの裏山を超え、湖を訪れた。ホテル脇の登坂を少し行くと、道端に座り込んでいる老人がいたので、湖はどこかと尋ねるが通じない。それでも身振り手振りでああだこうだ言っていると、ああそれならここを昇りなさい、と泥濘んだ小道を指示されて、いささか当惑しつつも鬱蒼とした丘を越えると、そこには確かに美しい湖があった。東洋人があまりいないからか、珍しそうに見られるが、湖畔は思い思いに散策する人々で大層な賑わいであった。誰も慌てていない。安穏としていて、不幸な風情は微塵もなかった。湖畔のどこかで、イタリアのパルチザン歌「Bella Ciao!」を歌っているのが聴こえた。
夜の演奏会では、家人のバッハは独奏、オーケストラともに互いにとても聴き合っていて、なかなかの名演であった。「日本組曲」も等しくオーケストラはとても良く弾いてくれて、演奏会終了後、日本大使のご夫妻から、聴いているうち、ふと100年前の日本の農村の風景が目の前に浮かんできて、強烈な郷愁を覚えた。こんなことは初めてです、有難うございます、と言われる。伊福部さんが作曲したのが1933年だから、100年前の農村の姿、というのは、ほぼそのまま当てはまる。作曲の経緯や作曲年代も一切伝えていなかったから、彼らは、純粋に作品と演奏からそう想起したのである。この感想を聞いて、改めて伊福部昭の音楽には畏れ入るばかりであった。音楽とはやはり何かを伝えるツールなのだろうか。その感想をわざわざ伝えに来てくださった時には、鳥肌が立った。演奏前、「日本組曲」を筝で演奏しておられた、野坂恵子さんを思う。
森川さんは、息子さんがゴジラファンなので、違った伊福部音楽を知って喜んでいらしたし、山田さんは、リハーサルで初めて「日本組曲」が鳴り出したときは、思わず胸が一杯になりましたと言ってらした。人それぞれの心に何かを呼び覚ますことができるのは、やはり音楽の醍醐味以外の何物でもない。

10月某日 ミラノ自宅
朝3時50分にホテルラウンジに降りると、ちゃんとタクシー運転手が待っていてくれて安心する。4時20分にはティラナの空港に着いたが、既に驚く程の人いきれでごった返している。どの喫茶店も開店しているどころか、既に満席に近い。皆週末を気候の良いティラナで過ごし、こうして週明け早朝に自宅に戻ってそのまま仕事を始めるのだろう。観光立国らしく、荷物検査もパスポートコントロールも、係員が物凄い勢いで捌いていて、人の流れは案外スムーズであった。午後から学校に出かけて、今年度の仕事始め。へろへろで帰宅。

10月某日 ミラノ自宅
大分三半規管の不調も収まってきて、安心する。朝、運河沿いを散歩していると、タナゴと思しき魚の群れが、一斉に川底に尾びれを翻して産卵していた。朝日に銀色の鱗がきらきら輝いて圧巻の光景。
ティラナでお世話になった高田大使は、まるで偉ぶらず、隅々に気配りを忘れないスマートな方で、同時にエネルギッシュな情熱に溢れていた。フィッシュセンターでの盛大な鰻の蒲焼大会も、アルバニアのマグロを日本に届けるのも、国立オペラ劇場での日本音楽の紹介も、柔道や空手大会の大使杯の開催も、本当にどれも自分事として情熱を傾けていらして、その思いはこちらにもひしひしと伝わってくるのだった。
大使のような立場であれば、持ちこまれた企画を採択して、実現をサポートする役回りかと思いこんでいたが、高田さんはその先入観を見事に覆して下さって、大変感銘を受けた。
庶民的と言うと失礼かも知れないが、遠くから眺めて満足されるような他人行儀な印象は皆無であった。実際に足を運び、食べて、見て、聴いて、話すことが大好きでたまらない、とお見受けした。国立音大でのワークショップのレッスン風景も、嬉々として眺めていらしたので、最初は少々驚いた程だった。
アルバニアのように、現在様々なインセンティブを貪欲に欲している国にとって、高田さんのような情熱溢れる存在の意味は、途轍もなく大きいはずだ。概して、大使館の誰もが、アルバニアと日本の関係発展に対し、純粋に心を砕いている非常に温かい公館という印象を受けた。
ところで、息子曰く、伊福部「日本組曲」は「春の祭典」を想起させるそうだ。なかなか良いセンスをしていると感心する。曲名も言わずに「日本組曲」を聞かせたミーノは、「これがアルバニアの音楽なのかい、なかなかいいねえ」と感想を寄せた。伊福部作品が日本人の心を代弁しているというのは、案外我々の先入観そのものかもしれない。なるほどディアギレフとニジンスキーの「春の祭典」など、そのまま「日本組曲」の振り付けに使えそうである。

10月某日 ミラノ自宅
新年度初めての指揮レッスン日。3年来教えて来たマルティーナもダヴィデもマスクなしで話すのは初めてで、感慨を覚える。こんな顔をしていたのかと意外に思ったり、マスクがなければ、これほど表情が豊かな若者だったのかと感心したり、笑顔がこれほど顔いっぱいに広がっていたのかと驚いた。
ガブリエレに、音楽を生き物のように、動物のように扱ってみたらどうかな、と言うと、先生うちは代々猟師ですから動物との関わりはちょっと特殊なんです。試しに先生の言う通り、今も「運命」を動物のように考えて振ってみたのですが、目の前に浮かんでくるのは、今年夏に刎ねた最後の鶏の顔ばかりで、これではどうにもうまく行きません、と言われる。

10月某日 ミラノ自宅
家の手伝いをしてくれているアナがコロナ陽性になり休みを取った。家からほど近い薬局にて、ワクチン4回目接種。オミクロン株仕様に強化されたファイザー。特にワクチン推進派でもないが、家族のため、ともかくどんなものか試しておきたいと思ったのと、今秋から授業は全て対面になったので、念のため。壮大な治験に参加している感覚で、それ以上でもそれ以下でもない。外国為替対ドル150円突破。

10月某日 ミラノ自宅
昨日打ったワクチンのことを考え、朝8時まで布団に入って休む。尤も、腕の注射跡に朝方多少の違和感が残っていただけで、発熱もなし。全く普通と変わらない。
塚原さんのファゴットのための新作、仮でも構わないので題名を決めてほしいということで、今朝の新聞記事をそのまま使い、「ドニエプル河をわたって」とする。現在、ロシアがダム破壊を準備している、と盛んに報道されているが、実際はどうかわからない。この曲が演奏されるころ、世界はどうなっているのだろう。世界が今と同じように続いているのかすら、正直心許ない限りである。対ドル151円となり日銀介入。146円まで上がる。

10月某日 ミラノ自宅
メローニ政権発足。息子は明け方酷く咳をしていたので、昼前まで寝かせておく。彼は以前、こうして喘息症状のあとで身体が麻痺した経験があるので、気が気ではない。薬は極力飲みたくないようだから、本人も気にしているのかもしれない。

10月某日 ミラノ自宅
入野禮子先生がお亡くなりになった、と家人からのメール。
その昔、日本にいた頃は、禮子先生のところで何度となくレクチャーやレッスンなどを開かせて頂いた。誰にも分け隔てなく門戸を開いてくださり、我々皆のパトロンであった。イタリアから作曲家が来るたびにお世話になり、彼らを先生のお宅に泊めて頂いたこともある。そうした経緯から、マンカやピサーティも、入野先生とはずいぶん親しくお付き合いしていた。世界で最初にカザーレを見出したのも、入野先生のところのコンクールが切っ掛けではなかったか。ウラジオストクとの交流の印象が強い禮子先生でいらしたが、こうしてイタリアはじめ、世界各地の音楽家たちと交流が深かったに違いない。今にして思えば、家人と最初に出会ったのも、禮子先生宅の交流会であった。若い頃は、そうした掛替えのない時間の一つ一つを、殆ど気にも留めずに過ごしてゆく。若さとは本来そうであるべきなのかもしれない。入野禮子先生はいつも明るく闊達で、どことなくマーガレットの花に似ている。
夕刻息子が受けた国立音楽院のコンクール表彰式にでかけると、卒業生代表としてシャイーが特別ゲストとして招かれていて、彼が舞台にあがると万雷の拍手。
町田の母と電話をする。従兄の操さんから電話があったとこのこと。操さんは3月19日生まれと出生届が出ているが、実際は1月生まれで、家族が忙しくて役所に届けを出さなかった。昔は大らかだったし、子供が生まれても大騒ぎもしなかったと笑った。母の父親は謹吾さんと言ったが、本当はケン吾さんになるはずだった。
町田で育てている月下美人が三輪同時に開花している。父曰く、生きているかのようにブルブルと震わせながら頭を擡げてきて、花が開いた途端、本当に良い香りに包まれるという。

(10月31日ミラノにて)