線と文字と音

高橋悠治

11月で休暇を取って、ピアノを弾いているとできなかったことをしたい。知らなかった音楽を見つけて演奏するのにも限界がある。20世紀後半の「現代音楽」と言われていたものも、今は「現代」とは言えない。世界は変わりつつある。ヨーロッパは分裂し、アメリカに従って戦争で壊れていくばかり。

音楽しかできることがなくても、社会の変化に影響されて、できないことが増えていく。コロナが2020年に流行し始めて、コンサートには人が来なくなった。CDも本も売れなくなっている。日本から出ないと他の土地の様子はわからない。でも、「行かれない」だけでなく、行きたくないのは、年齢のせいか、You Tube や Vimeo で見聞きする、わずかな情報のせいか。

今年2020年にバガテルを集めたコンサートをした時、出会ったフィリピンのジョナス・バエスの曲、その元になったミャンマーのサンダヤというピアノ・スタイルは、ガムランはじめ東南アジアの合奏スタイルを、西洋楽器に取り入れたものだった。西洋楽器で西洋音楽を弾く、そしてそれをモデルとして自分たちの音楽を作る、という日本とはちがう考え方がある。

そういえば日本でも、中国や朝鮮から取り入れた漢字や学問は、好みのままに見方・使い方を変え、実験を重ねて、平安朝の女文字や日記を作った時もあった。明治時代の西洋崇拝や、第2次大戦後のアメリカ風とはちがっていた気がする。

今は西洋モデルでできることはあまり見えない。和声や対位法、旋法も、20世紀に分解されて点の音楽になり、コンピュータ化された。その道具の方からディジタルの限界が感じられる。対位法 (contra-punct) は点対点、旋法の終止法や調性の機能のない響きだけの和音は点の堆積。音色は、標準化されたオーケストラ楽器の限られた組み合わせ。

声だけが、ディジタル化されていない。声の分析と再合成は複雑で、再生機器を通すと、短いサンプルだけが不自然に聞こえなかった。20年前にコンピュータ音楽をやめたのは、その音に飽きたから。

声や楽器で音の線を作る。線の時間・空間の配置・配分を試してみる。線の即興的変化で、中心のない、不安定な動きに、演奏の即興性が加われば、そこに平安朝の女手の散らし書きのような、揺れる水鏡やそよ風の木魂が起こるかもしれない。