しもた屋之噺(263)

杉山洋一

今年の大晦日は雨です。とは言っても凍えるような寒さではなく、摂氏8度もあるから、暖冬とよべるでしょう。コロナ禍以来、年の瀬、恙なく一年を過ごした実感などすっかり消え失せてしまいました。ここ暫くウクライナの戦場から送られてくる凄惨な情報で気が滅入っていたところに、今年の秋からは、爆撃された病院であったり、傷ついた乳幼児の映像ばかり目にするようになり、新しい鬱の襞が自分の裡に育っていて、ぞわぞわ毛羽立っているのを感じるのです。最近はウクライナの劣勢を伝える報道が多くなり、教え子の海外在住のウクライナ学生まで召集されないかしらと、薄く慄いてもいます。

12月某日 ミラノ自宅
ミラノの国立音楽院で、イタリア全国の音楽院で選ばれた優秀作品を集めた演奏会。イヴァンとファビオ、ガブリオが審査して最優秀者を決めた。ちょうどケルンから岸野さんがイヴァンの古希を祝いにミラノを訪れていて、演奏がおわると顔を出してくれた。昨夜は彼女とコロンボ・タッカーニ夫妻、ボノーモと一緒に、ミラノの和食レストランで鰻重に舌鼓をうった。
どういうわけか、息子が「水牛」を読んで、なぜ自分を「愚息」と書くのか、「愚息の愚はおろかという意味だろう」と言われ応対に窮す。まあ、その通りだが通例だと体裁を繕う傍ら、家人が大笑いしている。

12月某日 ミラノ自宅
普段なら余り夢は覚えていないが、昨日の夢だけは未だに鮮明に思い出せる。こんもり盛り土された、案外背の高い堤が真っ直ぐ伸びていて、這っている単線のレールを古い1両のディーゼル車が走ってゆく。目の前は見通し良く開けていて、一面大きな池が広がっている。空は澄んだ青空。水辺には背の高い葦がたくさん茂っている。
先ず、そのローカル線の車内から、そのうつくしい風景を眺めてから、池に沿って、水辺を歩いた。近くでみると、葦は自分の背丈より高くてびっくりする。どこからともかく、「ねえ、きれいでしょう」と明るく、そして優しそうな雨田先生の声がする。そうだ、雨田先生のお宅はこのすぐ近くにあって、夢で先生に会いにきたのだった。先生の姿は見えなかったけれど、会いに来たのは覚えている。
先生は今、あののんびりとして素敵な場所で憩っているにちがいない。

12月某日 ミラノ自宅
早朝、運河沿いを散歩していると、暫く見かけなかった魚影が戻ってきていた。水草が繁茂しているあたりに、隠れるように固まって泳いでいる。30センチを超える成魚から、数センチたらずの稚魚まで併せた数十匹単位のコロニーがあちこちに形作られていて、一種の家族のようなものか。こんな寒い最中、何故、わざわざ姿を隠すのだろうかと訝しく思っていると、その視点の先には、鴨の親子が悠々と泳いでいた。あの魚はウグイかクチボソの類なのだろう。

12月某日 ミラノ自宅
何しろミラノに戻ると、溜まっていた授業をこなすために、朝から晩まで学校に残らなければならない。学校にも作曲の道具はもってゆくが、休憩すらままならないから殆ど捗らない。
夜、やっとの思いで家にたどり着くと、困憊で作曲も出来ない。だから夕食を摂り、倒れるように布団に入り、朝早く起きてから学校に出かけるまで作曲する。どうか霊感が下りて間に合うように祈ってほしいと家人にいうと、あなたの作曲ってただ規則通り書いているだけだと思っていた、と言われる。それから息子に向かって、「お父さん大変らしいわよ。あんたもお父さんに作曲の霊感が下りてくるよう神様に祈んなさいよ」、と揶揄される。ガザの地下トンネルにイスラエル軍が海水注入との報道。

12月某日 ミラノ自宅
寒くなってくると、ポロ葱のスープやらひよこ豆のパスタのような田舎料理が身体をあたためる。息子はアマトリチャーナが好物でしばしば作るが、こちらは肉を食べないから彼の分だけ調理する。パスタだけ多めに茹でて、パスタと一緒に何か余っていた野菜でも茹でて、その野菜とパスタを皿に盛り、パルメザンチーズもふんだんにかけてから、生徒の実家で作ったオリーブ油をかけて食べることもあるが、アマトリチャーナよりよほど美味だとおもう。
アマトリチャーナは豚の頬肉をそのまま火にかけ、そこから染み出させた脂をワインで軽く伸ばし、トマトソースをつくる。毎回、きつい脂の匂いに閉口しながら作り、味見も一切しないが、最近息子はこの類のトマトソースのパスタをよく食べる。

家人が日本に発ったので、息子の滋養強壮を優先しながら、いかに簡便に息子と二人の食事を用意するか考えていて、ピッツァ職人風ソースなら、主菜の肉とパスタを同時に用意できて便利だと気が付いた。ピッツァ職人風ソースも同じトマトソースだが、10分ほどかけてソースを用意すれば、パスタを茹でている間に薄切り牛肉をそのソースで調理し、パスタをソースと絡める直前に、肉を取り出して息子の主菜皿に盛り付けて、残ったトマトソースにパスタを絡めれば、別皿でパスタも食べられる。どことなくソースに牛肉の匂いは残っていても、トマトソースだけのパスタであれば息子と一緒に食べられて、一石二鳥。こうやって簡便に二皿用意するのが、本来あるべきピザ職人風ソースの姿だろう。ところが、後で食べると肉が固くなるからと息子は順番を無視して、先に主菜の肉を食べきってから、パスタに手を伸ばす。ともかく、彼との二人暮らしではパスタ料理が多くなりがちで、体が重くなって仕方がない。
学校に行く前日の晩には米を炊く。朝起きたときに一晩解凍して水気を切っておいた冷凍のサーモンのフィレに塩をまぶして二枚焼き、同時に卵焼きもつくる。学校に行く日の昼食は何時も同じだが、献立を考える手間もなく、時間も計算できてよい。
この塩鮭の一枚は弁当に入れ、もう一枚は息子の昼食になる。卵焼きとご飯で朝食を摂り学校に出かける。学校の教室は天井がとても高く広いので、冬は暖房が効かず寒い。温かい紅茶をポットに入れて持参するのは必須である。

12月某日 ミラノ自宅
ここ暫く、或る伊文の邦訳を日本女性3人と続けていて、これが実に面白い。原文は女性が主人公の官能的な内容を、男性が書いている。今回それを、まず男性が粗訳してから、女性3人と一緒に練り上げているのだが、特に生理的な表現に関して、女性が女性自身の感覚で選択する表現と、男性が想像力を逞しくて女性の感覚を形容する表現とのあいだには、常に微妙な差異が生まれて興味深い。主人公の女性の感覚について、彼女たちは自分事としてずっと切りこんだ大胆な表現をする。
最近、性自認不適合が社会問題視されるようになったが、いわれのない差別根絶は当然ながら、もってうまれた男女の感覚差は、むしろ大切にしたい。必要なのは、相手への思いやりだけである。
本年、イタリアのクリスマス商機は低調との報道。物価が異常な物価の高騰だから、当然だろう。

12月某日 ミラノ自宅
夜明け前から居間の大きな食卓で仕事をしている。夜が明けるかと思しき7時半ころ、庭に面した窓にリスが二匹やってきて、じっとこちらを見つめていて、気が付いたところでクルミをやる。こちらが仕事に没頭していて気が付かないでいると、やがて尻尾でバンバン鉄の手すりを叩いて注意をひく。リスはしゃがれた声を出せるのだが、警戒していたり、諍いのときにしか出さず、食事をねだろうとすると、これはどういうわけか無言である。尤も、至近距離からまんじりともせずこちらを凝視しているだけで、充分な威圧感を醸し出すのだから大したものだ。

12月某日 ミラノ自宅
指揮レッスンの前日、夕食の支度をしていると、学校から帰ってくるなり、息子が「ベートーヴェン1番の冒頭の和音は四度調のドミナントでしょう」と言うのでおどろく。明日初めて「兵士の物語」を読み始める予定だが、息子曰くそちらは自信があるそうだ。ピアノのレッスン前にそんな台詞を聞いた記憶はないが、どういうことか。
ヴァーギ先生から先日頂いた採りたての自家製蜂蜜は、ねっとりと濃厚な味わい。家人が好物のOsellaのクリームチーズと併せてパンにつけて食べると、極上の味。
蜂蜜を採集しようと彼が自分の養蜂場へでかけたところ、巣箱には蜂の姿が全くみえない。何かに追われたのか、蜜を巣箱に残したまま旅立ってしまったらしい。本来、半数の蜂は巣箱に残って巣箱を管理し、巣を離れる半数は蜜を栄養源として取ってゆく。今回、蜜は手付かずのまま残されていたから、蜂たちはどこかで息絶えてしまう恐れがある。
息子とは、テレビで見たスカラ初日「ドン・カルロ」の話。どこかスペイン風の演出に感じられたのは、ウィスキーだったか、昔のテレビコマーシャルを思い出したから。小人ダンサーやアルルカンが登場して、たしかガウディがテーマだった。

12月某日 ミラノ自宅
息子も日本に発った。無人の自宅の鍵を開けながら、ちょっと新鮮で不思議な感覚にとらわれる。誰もいない自宅は珍しくないけれど、普段であれば、家そのものが、そのうち誰かが家に帰って来る、という雰囲気を醸し出している。
年末の散髪帰りだからか、その昔ミラノを訪れた家人から、出し抜けに散髪されたのを思い出した。当時、彼女は人の髪をカットするのが楽しみだったからだが、当時は一文無しで、よほどむさ苦しい格好をしていたのかもしれない。
年末というと、息子が小学生だったころ、しばしば二人でキャヴェンナへ出掛けた。大晦日、二人で小さなホテルのレストランで、慎ましくも美味な夕食に舌鼓をうち、きれいに飾られたケーキを食べるのが、年越しと洒落こんだささやかな贅沢だった。
元旦早朝、夜明け前のバスで北上してアルプス、マデージモのスキー場に息子を連れていったこともある。それよりずっと後、3月くらいの初春に、マジ―ジモで息子にそり遊びをさせた記憶もある。秋だったか、日本から訪れた母を連れてキャヴェンナからスイス・アルプスまで遠出もした。
思えば家人と三人で、お金もないのに随分あちこちに出かけたものだ。早晩、そんなことも出来なくなると分かっていたからかもしれないし、暇を弄んでいただけかも知れないし、単に自分が父にしてもらったことを息子にしたかった、言ってみれば単なる自己満足だったのかも知れない。一人でいると、様々な記憶があちらこちらからひょっこり顔を出す。
いつしか、毎朝、世界の戦争のニュースが流れるのが普通になってしまった。次第にニュースを読むのも聞くのも嫌になってきている。世界保健機構、4割ガザ市民が食糧不足と発表。

12月某日 ミラノ自宅
締切り過ぎたファゴット曲を書く。朝起きてそのまま作曲をはじめ、気が付くと日が暮れている。昨日は朝食も昼食も食べ忘れてしまった。今日も昼食を食べなかった。昨夜は作業しながら、ポロ葱とインゲン豆、それに残っていた屑野菜で簡単なカレーを作ったので、今日は朝も夜もその残りをたべた。冬らしく、固くなったパルメザンチーズの外皮とツナも一緒にトマトソースで煮込んでから、最後にルーをいれる。
ロンバルディア州で、Covidとインフルエンザの感染状況悪化との報道。なんでも、新種のインフルエンザはLa long flu、長期性インフルエンザと呼ばれていて、治るのに従来よりずっと時間がかかり、症状も重いという。街中でマスクしている人の数もめっきり増え、ミラノでは12月3日より病院のマスク着用が義務になった。

12月某日 ミラノ自宅
一柳さんのための新作は、一柳さんの迸る才気をおもいだしながら、あたかも一柳さんの作品を演奏している心地で書いた。一気呵成というか、音楽が自分をドライブするような感覚にとらわれた。

野坂さんのための曲は、操壽さんと惠璃さん、お二人の演奏を想像しながら、もっと触感で書いた。25絃の独奏は初めてで想像以上に調絃をきめるのに苦労したが、それは当初絃が多すぎると感じられたからだ。ところが、実際書き始めると妙なもので、他の筝のときよりずっと押し手が多くなってしまった。
ところで、仕事机には、操壽さんのお葬式でいただいたカードがおいてあって、その表には祈る聖女の姿が描かれ、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」、そして操壽さんのお名前と洗礼名、生没、洗礼、改宗年月日などが書かれた12cm
x 7cmほどの小さなカードで、日本のカトリックのお葬式では普通に配られるものかもしれない。
いま見ると、聖女の挿絵の左下にはPax-6と印刷され、右下にはほんの小さく、Bonella Milano Copyright F.B. Printed in Italyのロゴマークが入っていた。Fratelli Bonella社は1931年からカトリック関連の印刷物を扱っているミラノの老舗で、このカードがミラノと所縁があったとは、まるで気付かなかった。描かれている聖女も、操壽さんに洗礼名を授けた聖女と関わりがあるのだろう。

塚原さんのためのファゴット曲では、その前に旋法色の強いものが続いたので、敢えてそこから少し身を遠ざけている。当初、叙情的な曲を書こうとファゴットを選んだが、後になって奏者の超絶技巧に焦点をあわせたプログラムだと知った。
先の見えない毎日をやり過ごすのは運河の閘門を進む船に似ている。閘門を閉め水位を調整する間、先の風景はおろか、目の前に見える風景が運河の両壁だけに制限されることだってあるだろう。
この日記を書くのも同じだが、日々の雑感を楽譜に取り留めなく書きつけているだけであっても、以前は影も形も存在していなかったものが、いつしか何某か目に見える形に具現化されているのが興味深い。

12月某日 ミラノ自宅
先日のロシアからの攻撃により、キーウだけで少なくとも23人死亡との報道。ウクライナ全土あわせると、この日だけで42人もの市民が犠牲になったと報道が更新されている。翌日はウクライナからベルゴロドへの報復攻撃があって、市民から22人もの犠牲者がでた。今朝がたのあたらしいロシアからの報復攻撃が、今日のガザの難民キャンプ爆撃とともに報道されている。
もちろん世界の紛争はこれだけに留まらない。アフリカからイタリアへ鈴なりの船で渡航する難民、亡命者は増え続けるばかりだ。
このように、我々の生命はとどのつまり、数字へと変換されてゆく。数字として理解され消化されてゆく。日記や曲を書いてみたり、録音を残そうとするのは、無意識ながら子孫を残そうとする本能に近いかも知れない。自分が土に返ったとき、ささやかながら生きた証をどこかに残したいと思っているのではないか。

12月某日 ミラノ自宅
夜半に楽譜を送ってから、なぜ軽々しく仕事を引き受けてしまうのか暫し沈思する。作曲も日本語も書いていなければ忘れてゆく。その忘却が社会に迷惑をもたらすわけではないが、いよいよ死ぬ段になったとき、自らの裡にひろがる空洞に気が付くかもしれない。
書けば腕のあがる類ではないが、書き終えてこそ見えてくるものはある。無限に続く、ほんのささやかな試行の繰り返しだ。書くときくらいしか頭を使っていないとすれば、単に自分は仕事量が少なすぎると気が付いて、暗澹とする大晦日。

12月31日ミラノにて