「道夫」の「道」は「道草」の「道」とは、幼い頃に父親が言った言葉である。小学生の頃、学校から街中で洋品店を営んでいた家に帰ると、店の中で父が地図と睨めっこをしている。そして、言うには、お前はどこをどうやって帰ってくるのだ、と。聞けば、あそこで見た、ここで見た、と私の目撃談が父に届くのだと言う。それをもとに地図を広げてみると、真っ直ぐはおろか、帰る意志があるのかも分からないぐらいの迷走ぶりだそうである。仕方がないのだ。あそこの犬と会って、とか、そういえば貸本屋に寄らなくちゃ、とか、あのドブでイトミミズを相手に遊んで、とか、果ては石蹴りをして、石の飛んだ方に歩いていくのだ、とか、子供は子供でいろいろと忙しいのである。とてもじゃないが、真っ直ぐなど帰ってはいられない。おまけに本を読むことを覚えてからは、歩きながら読むのである。雨が降っていれば傘を差しながら読む。夢中になれば、道にしゃがみ込んだり、公園やら木の上で読む。おまけに電信柱にぶつかって血を流し、近所の人に介抱されたりする。生まれてこの方、真っ直ぐなど歩いたことはないのである。
今だって事態はさして変わらない。たとえば映画館に映画を見にいこうとする。映画の上映時間は当然のことながら決まっている。もちろん間に合うように外出するのだが、時間通りについた試しはないのである。映画どころか、ライブも、芝居も、その時間に着くことはない。決まって遅れるか、間に合うために最後は走る羽目になる。したがって、時間が決まっているものは億劫だと言うことになり、出不精にますます拍車がかかるのだ。そもそも、歩きながら河を覗き込み、草叢に分け入ったりしているのがいけない。今日は、真っ直ぐに、と言いながら、畦道に咲く花に蝶が来ているのではないか、そろそろ蛇に合うのではないかとか気もそぞろで足がそっちを優先するのがいけない、それに引き換え本屋はいい。もちろん開店時間も閉店時間もあるのだが、何時何分に行かなければならない、というのがないのがいい。要は50歳を過ぎようがなんだろうが、あの頃とちっとも変わっちゃいないのである。だから目的地にわき目もふらず真っ直ぐ行こうという人、道中キョロキョロしない人と一緒に行動するのは、ひどく苦しい。おそらく、そういう人にとって「道中」は、おそらく「無駄」なのである。こっちはそうではない。目的地に着かなければならないのは分かっている。分かっちゃいるが、目的地に着くよりも、その「無駄」な「道中」の方がむしろ大切なのである。
「人」は中枢的身体を持っている。中枢的身体は、その身体が行う行為を、より効率良く行うために、行為のために「有効」な「知覚」を残し、それ以外の「知覚」を排除、選別する。そりゃそうでなくてはならないのだろうが、「人」という生き物の中に、自分にとって「有効」なものを「選別」し、「無効」なのものを「排除」する機能が搭載されていることに絶望的な思いを抱えている。このあらかじめ搭載された機能に抗おうとするのが、「知」と言うことになるのだろうか。一冊の本を読み始める。読み始めれば、あちらこちらを刺激され、連想のようにその本を読み終わらないうちに別の本に手を出すことになる。別の本を開けば、そこからまた別の本へ…。こうして一冊の本は読み終わることがない。そんな読書が面白い。読み終わったらからといって、それがどうだと言うのだろう。そんな読書が面白い。