しもた屋之噺(266)

杉山洋一

ここ暫く、朝しとしと雨が降り夕方には上がったかと思うと翌朝また雨が降る塩梅の毎日が続いています。ですから夜明け頃までは鳥のさえずりが聞こえるのですが、毎日決まって「ドミソ、チチチチチ」と啼く鳥がいて、あれはなんだろうと不思議に思っています。
先月から続く長雨で、道路に散見される10センチほどの穴はどんどん広がっています。穿かれた穴は、水はけが悪く冠水していて見えないため、そこに次々にタイヤがはまってしまって大きくなるそうです。この道路の穴の最新情報をドライバー同士で共有する携帯電話のアプリケーションまであって重宝されていると聞きました。

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3月某日 ミラノ自宅
現在各自が手元に持つ音楽資料を、どのように後世に残す方法について、Kさんとズームで話し込む。ほんの数年前まで、紙資料は今後すべてデジタル化され、インターネットを通して簡単に世界中で共有されるようになると信じていたが、この5年ほどのあいだに、それまで想像もできなかった事象が立て続けにおきた。戦争の過ちはもう繰り返さない、そんな言葉はもはや信じる人の方が少ないかもしれない。
情報ををデジタル化して共有しても、インターネットが遮断されれば意味を成さないばかりか、現在の世情を鑑みれば、インターネットそのものが、未来永劫無事に使用される保証は全くない。現在の各国の領土も、100年後には大きく変わっている方が当然だろうし、日本が現在と同じ領土ではないだろう。別の国になっているかもしれないし、国が分断されているかもしれない。50年後、100年後に向けて、我々はどのように現在の音楽情報を記録すればよいのか。
息子が酷い嘔吐。胃腸を酷くやられるインフルエンザが流行している。当初発熱はなかったが、現在38度9分。珍しくすったリンゴが食べたいと言うので、スーパーで果物を見繕い、薬局で解熱剤、吐き気止めとロイヤルゼリー購入。ガザで支援物資を運ぶ30台ものトラックに群衆が殺到し、トラックに轢かれ、人の下敷きになったりして圧死があり、そこから100メートル程の場所では、イスラエル軍に対し危険が迫った状況と判断し、軍が民衆に発砲し、延べ112人の死亡が確認された。支援物資用のトラックのうち1台は遺体を収容するのに使われたが、残された遺体は、ロバの曳く荷車で回収されるか、そのまま放置されていた。篠原眞さんの訃報。

3月某日 三軒茶屋自宅
昨日は息子に生姜と葱をいれた粥を作り置きして、学校へ出かけた。毎週土曜日は映画音楽作曲科の学生を一日教えているのだが、午前中は決まって隣の部屋に「ノクターン」やら「リュートのための舞曲とアリア」全曲!とレスピーギばかりを練習する学生がやってきて、午後になると決まって調子っぱずれのサックス四重奏が「マホゴニー市の興亡」で室内楽のレッスンを受けていて、隣の部屋は、午前と午後でイデオロギーが正反対に入れ替わる。
ベルゴニョーネ通りの「ルカ」で、復活祭用鳩ケーキを購入するが、どう持ち帰るのかと呆れられた挙句、結局家まで車で届けてくれた。ずいぶん親切である。機内では最初に譜読みを済ませ、時差に合わせてメラトニンを服用し、アイマスクを使って眠る。由紀子さんと電話でお話しする。ご両親がお元気なうちに間に合ってよかったわねとしみじみ話していらしたけれど、確かに、自分が生きるための人生ではあっても、時としてそれは他者のための人生としても機能している、と気づく瞬間がある。
昨年のクリスマスにお送りした家族三人の写真をご覧になり、息子の姿に思わず「あ、ヨ―イチだ」と心の中で叫んでしまった、と笑っていらした。
夜、アルベルトと飯田橋のイタリア料理屋に出かけた。フロア端のテーブルで食事していた会社員と思しき4人組の一人が、盛大に酔っぱらって気勢を上げているのが日本らしい。アルベルト曰くヨーロッパの誰もロシアと戦争などしたくなかった。アメリカは皆を無理やり引き摺りこんでおいて、奴さんその責任すら取ろうとしない、と顔を顰めた。アルベルト自身はQuaresima、四旬節だからと肉も酒もコーヒーもデザートも断っていたが、どうしてもこちらにデザートを食べさせたいらしく強く勧めるので、桜のティラミスを頼む。アメリカ軍とヨルダン軍ガザ地区海岸線に沿って3万8000食の支援物資投下。

3月某日 三軒茶屋自宅
パーテーションで幾つも仕切られている更衣室で着替えていると、忘れ物をしたと関係者に使いを出して慌てているご様子やら、ご夫婦で仲良く談笑しつつ和やかに着替えていらっしゃる様子などがつい漏れ聞こえてくるのだが、こちらは何年も着ていなかったワイシャツの首回りが全く閉まらないのに愕然としている上に、右のカフスが手元から落ちてそのまま行方不明になり、床を這いつくばって必死に探していた。諦めかけていると脱いだばかりの靴の中に発見し、なんとか事なきを得る。
控室で隣に座っていらした福原徹さんより、福原さんの幼少期、三善先生の「おでこのこいつ」をN児で歌ったお話を伺う。あんなむつかしい曲をどうやって歌えるのかと思っていたが、子供と言うのは何でも耳で覚えてしまうんですよと笑って仰った。「おでこのこいつ」は72年作曲だから、半世紀にほんの少し欠けるくらい前の作品。終戦から30年近く経った高度成長期の我々日本人に、三善先生はどうしても戦争の愚かさを思い出させたかったのではないか。さもなければ、詩を書いた蓬莱泰三さんを含め、皆がそれぞれに危機感を共有していた時代なのかもしれない。三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入したのは、70年11月末だった。福原さんは、中川俊郎さんとよく仕事をご一緒しているそうだ。写真撮影が終わったとき、隣の俳優さんが「何だか妙な緊張があるよね」と話したので、一同どっと沸いた。やはり一流の俳優さんたるもの、場を和ませるのが上手である。そのあと、目黒駅前のルノワールで矢野君とシャリーノの打合せを始めるが閉店となり、マクドナルドでポテトフライを摘まみながら仕事を続けるも間もなく蛍の光がかかって追い出され、その脇のビル1階の蛍光灯の下残った部分の打合せを終えて、何とか終電に間に合わせる。ガザでは、支援物資の投下が原因で5名死亡との報道。

3月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに仲宗根さん、櫻井卓さんに再会。仲宗根さんと三軒茶屋でお会いしたのはコロナ禍が始まる直前ではなかったかしら。アシスタントのボンちゃんさんと連立って現れた櫻井さんとは、第3回高橋悠治作品演奏会以来、当時は文字通りコロナ禍の真盛りだった。
仲宗根さんと櫻井さんの話を聞いていると、知らなかったお二人の姿が浮かび上がる。意外に自分とも接点があって愉快である。最初に櫻井さんを知ったのは平井さんのご紹介だったが、学生時分お世話になったバリオホールで櫻井さんが当時、長を務めていらしたとは想像もしなかった。夜、功子先生宅に復活祭「鳩」をお届けして世間話を少々。先生と話している途中でミラノに残る息子から、ピザが食べたいとメッセージが入って家人が注文する。それから暫く経って、今度は配達先不明でピザが戻ってしまったと再度メッセージが届く。

3月某日 ミラノ自宅
機中、一昨日矢野君と打ち合わせた内容を整理し、少し方向性が見えてきた。方針が決まるというより、覚悟ができたのだろう。スカラで鍛えられた矢野君が初めてミラノを訪れた頃を思い出して感慨に耽る。当時は新進気鋭ピアニストで活躍していたから、まさか彼がオペラに携わるとは想像もしていなかった。人間万事塞翁が馬、と言ったら気を悪くするだろうか。夜半、ミラノ自宅に着くと、息子が遅い夕食にシンプルなトマトパスタを作っていて、横から少々分けて貰うが、なかなかに美味。

3月某日 ミラノ自宅
中学三年のときにお世話になった稲葉先生ご夫婦、ミラノ来訪。南イタリアから中部、ヴェニス、ヴェローナと駆け足で周っていらしたというのに、頗るお元気でおどろく。スカラ座前で待ち合わせるが、ミラノの中心街は酷い人いきれで歩くことすらままならない。これほどの観光客とは想像もしていなかった。少し静かなところを探して、スカラ座の博物館を見物し、ガッレリエ・ディタリアの喫茶店で四方山話に花を咲かせつつイタリアで撮った写真など拝見する。やや暑い午後だったから、冷たいものをと、カフェ・シェケラートを頼んだ。アジア系妙齢のウェイトレスが幾ら呼んでもなかなか注文を取りに来ないので余程性格でも悪いのかと思いきや、注文の折ちょっと時間がなくてね、悪いけど急ぎでお願いと一言言い添えると、実に手早く用意してくれた。レジで君はなかなか凄いね、有難うと礼を云ったところ、まあねとばかりにウィンクで返事される。それから、中央駅前のレストランでツアーの皆さんに交ぜて頂き一緒に夕食を摂り、セストのホテルにまでお邪魔してしまった。30年近く前になるが、このレストランには何度か通ったことがあって、内装も料理もそのままで当時が懐かしく思い出された。先生方はミラノ風リゾットにミラノ風カツレツ、こちらは野菜のせピザを頼んだ。当時、稲葉先生は未だ二十代の若さだったと聞いて、吃驚する。中学三年生から見た二十歳代の教師は、ずっと大人でしっかりとして見えるものなのだ。自分が二十代の時を鑑みると、確かに稲葉先生の方がよほど地に足が着いていらしたとは思うが、先生の若さと情熱にかこつけて、随分とご迷惑かけたものだと我乍ら呆れる。
先生はミラノを訪れたのがよほど嬉しかったのか、日本が真夜中なのにも関わらず、早速一緒に撮った写真を当時の級友たちのラインに送っていて微笑ましいと思ったが、気が付けば、こちらこそ写真を頂くのを忘れていた。

3月某日 ミラノ自宅
ミラノにいて、もう長いこと口にしたいと思っている日本の食材三点。
一つ目はサヨリ。日本に帰ったとて寿司屋に行く機会もそうないが、あれば必ずサヨリはないか確かめているが、最後にサヨリを食べたのはもう何十年前だろう。子供のころ、父に連れられて食べる寿司が楽しみだった。サヨリの寿司は勿論好きだったが、皮の焙りも一緒に食べられたときは、より一層幸福度が増した。今となっては、寿司でも刺身でも構わないが、無償に食べたくて仕方がない。
続いてはタラの芽。天ぷらでもいいが、できればおひたしのタラの芽に鰹節でもかけて、ほかほかの白米と一緒に食べたい。子供のころ両親と毎年伊勢原の大山に登っていて、参道の豆腐料理店だかで山菜料理を食べるのが楽しみだった。軽い苦みのある野菜を初めて美味しいと感じたのは、多分大山で食べたタラの芽だったとおもう。
今年の正月、母が従兄の操さんから電話をもらったとき、「千恵子、お前の住んでいるあたりでは土筆は取れるかい」とだしぬけに尋ねられたそうだが、思い返せば子供のころ、母と連れ立ってつきみ野あたりの見晴らしよい丘に出かけては、沢山の土筆を摘んで帰って、それを母が煮てくれるのが楽しみであった。子供の頃食べた味というのは、郷愁と相俟ってそう簡単には忘れられない。
夕方久しぶりにミラに会いに出かけた。今月末から彼女と仲良しの女友達二人で一カ月弱かけた初めての日本周遊を計画している。東京で数泊した後別府に飛び、温泉を愉しみ、翌日には久留米に移動し、絣織り体験などをしてから宮島を訪問、そこから京都と奈良、高野山を数日かけ観光し金沢へ。その後飛騨高山に滞在してから木曽馬籠宿を訪ね東京に戻るという。特に調べるのが大変だったのは、久留米の絣体験のインフォメーションと、高山から馬籠宿、馬籠宿から東京への交通手段のインフォメーションで、英語検索できるサイトがアップデートされていないにも関わらず、海外からの観光客はこうした観光地をよく知っているのにおどろく。ミラは日本で流石に「郷に入っては郷に従え」で何でも食べるつもりとは言っていたが、基本的にヴィ―ガンだから、豆腐料理、精進料理、蕎麦、和菓子などぜひ愉しんできてほしいと伝える。
プーチン大統領87%の支持を得て、再選。

3月某日 ミラノ自宅
学校で授業の合間、インターネットでイタリアのニュースを読んでいて、発表されたばかりのポリーニの訃報。スカラ座フォワイエにて告別式との発表が付記されているが、これだけミラノの街と市民に愛された演奏家だから当然だろう。それだけでなく、ポリーニはパトスでクラシックと現代音楽を繋いだ。ポリーニとブーレーズ、ポリーニとシュトックハウゼン、ポリーニとノーノ、ポリーニとマンゾーニ、ポリーニとシャリーノ、やはり拙い言葉ながら偉業だと思う。クラシックであれ、現代音楽であれ、ポリーニがミラノで演奏会を開けば、必ず熱狂的に迎えられた。生粋の地元の音楽家として愛され続ける姿は、現在ではシャイーに受継がれているように見える。直接の関わりは全くなかったけれど、電話でお話ししたことや、預かりものを届けたことはあって、その度に彼がどれだけ人々に愛されているのかを実感した。
モスクワのコンサートホールで銃乱射テロ。

3月某日 ミラノ自宅
昨日は息子19歳の誕生日。朝7時過ぎ「ルカ」まで歩いてイチゴケーキを購い、バースデーメッセージを付けて貰う。クリームの上にふんだんにイチゴがのっている。夜、息子は中学の時の友達数人を誘って、エーガディ通りの中華に出かけた。ささやかなセルフプロデュース誕生日食事会。
夜になって家人がミラノ帰宅。家族三人揃ったのは2か月ぶり。今朝、いきなり息子に代演の打診がきたとかで、夕刻夫婦連立って国立音楽院まで演奏会にでかける。この3年ほどで彼が随分成長したと感じるのは親の欲目か。そんな中、ペーター・エトヴェシュの訃報。とても温かい心の音楽家であった。その人間味が染み出てくるような音楽を書き、そして演奏を行った。教育者としての姿勢も全く同じであった。ポリーニ82歳、エトヴェシュ80歳逝去とは流石に早すぎる、と独り言ちる。国連安全保障理事会、米国の棄権によりラマダン期間の即時停戦決議採択。先日のモスクワでのコンサートホール銃乱射による死亡者は、現在139名に上る。

3月某日 ミラノ自宅
階下で、ブラームスのホルントリオの音を拾っている音が聴こえる。つい先日19になった息子だ。暫くして今度は「浄夜」を拾っている音がする。このシュトイアーマンのトリオ版は、もうすぐアルドやフランチェスコとピエモンテに出かける家人が弾いている。
息子の誕生日祝にと、彼のシングルベッドを新調した。今あるベッドの下の差さえ棒が数本折れてしまっていた。フラッティーニ広場脇のベッド販売店で購入したのだが、そこは30過ぎと思しき小柄でよく話す男性が切盛りしていた。
契約書など書き込んでいて、こちらの名前を見ると、ごく普通のイタリア人らしいやりとりが始まる。こういう経験は久しく欠落していたので、新鮮である。
「おやお客さん、あんた日本人だね。こっちは日本が大好きでさあ。お客さんもそれじゃあ筋金入りのミラノっ子ってわけだ。インテルとミランどっちのファンなの?え知らないの。つまんないなあ、ふうん。でもなんでそんなにイタリア語話せるの。ええ?そんな前から住んでいるの。ははん、なるほど奥さんイタリア人というわけだな。え?ちがう?ちがうの?なんで?日本人?どこで見つけたの日本人の奥さん」。

3月某日 ミラノ自宅
ひがな一日音楽院でレッスンの後、マリアグラツィアの奏するマンカのピアノ曲初演を聴きにゆく。一貫して洗練された素材を徹底して使う姿勢は変わらないが、その素材一つ一つが実に美しい。ちょうどモンドリアンを思わせる抽象画を、磨き上げられた音響をつかって、坦々と描きあげる。抽象ながら人間らしさを纏う具象のような実存性が持続するところが、モンドリアンに似ていて魅力的だ。
演奏会休憩中でゴルリの妻、ジュリアと話し込む。アッバードが逝き、ポリーニが逝ってしまって、私たちの世代のスター、大立者は揃って皆いなくなってしまった。なんだか意気消沈しちゃうわよね。その替わり、めきめきと若くて才能ある音楽家たちが芽を出してくれるのはうれしいから、そんなものなのかしら。でも、これからの世界に我々は何を残してゆけるのかしらね。戦争はもちろんだし、気象変動も酷いでしょう?ピエモンティにあるうちの別荘、もう20年以上住んでいるけれど、この3年間、毎年夏の終わりに竜巻に襲われているのよ。それまでは一度もなかったのに。最後の時は目の前の家の屋根が風で吹き飛んでいってしまったわ。なんだか酷い未来しか残してゆけないのがつらいわよね。昔は、インターネットなんかなかったけれど、今よりずっと情報は正しく伝わっていたような気がする。少なくとも、わたしたちは正しい情報を得ようと常に腐心していて、ちゃんとそれに見合う情報がおのずと手に入ったものだったわ。今はその反対。何が正しいのかすらわからないし、もしかしたら、どちらが正しいのかすらわからなくなりかけている。本当に正しいことが存在するのか、疑念を抱く始末だわ。
目の前はす向かいに飄々とジャコモ・マンゾーニが座っていて、声をかけると、おおお前かと大喜びしている。彼だけは何時まで経っても元気で嬉しい。
演奏会で再会したアルフォンソは、インターネットの日本語コースを一通りやり通した、と嬉しそう。しゃべるのはだめだけど、読むのは結構上達したそうで、ソーセキの「io sono un gatto」を少しずつ原語で読み始めたが、いやあむつかしいねえ、と言われる。Gattoは伊語で猫。アルフォンソのところは夫婦で猫を溺愛中。ところで、伊文学史で言うと漱石は誰にあたるのだろう。漱石は1867年生まれでピランデルロと同年生まれ。同じ世代には1863年生まれのダンヌンツィオがいる。ダンヌンツィオの日本人版は断然三島だし、ピランデルロも傾向が違う気がする。世代は重ならないが、案外クワジーモドあたりかしら、と思う。
現在もガザでは戦闘が続いており、モスクワ・テロの犠牲者は143名になった。これから我々が足を踏み込もうとしている世界は、一体何を我々に求めているのか。平和か諍いか達観か諦観か。
ガザの海に投下された支援物資を回収しようとして12名溺死。新聞によれば、泳げないパレスチナ人が多いそうだ。物資に群がった群衆の圧死6名。ハマスは投下による支援物資配給は中止し、陸路での配給を希望している。

3月某日 ミラノ自宅
復活祭の朝は全く人気がなかった。ナヴィリオを散歩すると、昨晩の嵐で運河はすっかり濁っていて、あちらこちらで40センチほどの魚影が水面近く浮かび上がっては消えてゆく。辺りが静まり返っているから、路面電車の古ぼけたエンジン音が、いつもよりずっと響いて聴こえて新鮮である。復活祭の説教でフランシスコ法王は「諍いの風が止むように」祈った。
昼、久しぶりにカリフラワーでパスタを作り、夜はほかの野菜を足して、ニンニク、生姜、玉ねぎその他を擂り入れたカレーにした。今日大阪では山田剛史さんが「君が微笑めば」を演奏してくださっていて、それを思いながら東京と「ローエングリン」遠隔打合せをした。無事先ほど東京に着いたばかりのミラからは、人生初、本格ラーメン絶賛体験中と、満面の笑顔の写真が届く。何となくすべてが一つの糸で繋がっているような、そうでないような不思議な一日。

(3月31日ミラノにて)