しもた屋之噺(270)

杉山洋一

数日前に栃木で41度を観測と言っていましたが、ちょっと想像ができません。我々が子供だったころ、30度を超えれば猛暑だと思っていましたから、最近のように最高気温が30度を下回るだけでずいぶん涼しい、という感覚からかけ離れていました。
当時、電車などは冷房のない扇風機だけの車両ばかりで、たまたま冷房つきの列車が来ただけで、籤に当たったような得した気分を味わったものです。あの程度で満足していれば良かったのかもしれません。町には砂利道が沢山残っていて、自転車でそうした砂利道で急ブレーキをかけると、転んで膝をひどく擦りむきました。生まれ育った家の前も砂利道でしたが、アスファルトで舗装された道が、すごくモダンで羨ましかったのをよく覚えています。現在では、都会を歩いていて、土に触れる機会もすっかり減りました。街路樹の根元に少しだけ地面が顔を覗かせる程度ではないでしょうか。

7月某日 ミラノ自宅                                                                                                                                                                                                               自転車でプリマティッチョ駅前の市役所出張所に息子を連れてゆき、彼の身分証明書を作った。予め予約してあったので、並ぶこともなく思いの外すんなりと手続きが完了した。息子曰く、窓口の係員と話して書類を作ってゆき、最後、もし自分が死ぬことがあったら、臓器を提供する意思があるか質問されたという。

7月某日 ミラノ自宅
フランス総選挙を前に、朝のイタリア国営放送のニュース解説では、現在のフランス政権と大戦中のヴェシー政権との比較をしている。先日のヨーロッパ議会での極右躍進を受けて、今後のヨーロッパの政治動向にも話が及ぶ。恐らくマクロンは右派を取り込みつつ、今までのような舵取りを続けると予想。フランスでは、ドイツやイタリア、スペインのようなファシズム政権が生まれたことがないからだという。ただ、このまま極右勢力が増大すれば、スペイン内戦を引き起こした捻じれに似てくる可能性もある。

7月某日 ミラノ自宅
どこか奇妙な朝であった。行きつけの焙煎屋では冗談が通じず怪訝な顔をされ、続いて訪れたパン屋では、渡した小銭を店員がショーケースのパンのなかに落としてしまった。どうも妙だと思いながら、そのまま用水路べりを散歩していると、向こうから1メートルほどの鹿が流れてきた。眼を見開いたまま、きれいな躰で浮いていたから、昨夜の酷い驟雨で水に落ちたばかりなのだろうな、などと考える。一度落水すると、用水路だから陸にあがるのも難しかったのだろう。すると、鹿の後ろほんの3メートルほどの所に、今度は小さなネズミの死体が浮いていた。20年近く住んでいるが、動物の死体が流れてくるのを見たのは初めてだった。ランニング中の妙齢も思わず足をとめて鹿の写真を撮っていたし、ネズミに気が付いた中年の夫婦は、あらまあネズミよ、と困惑した声をあげた。

7月某日 ミラノ自宅
もうすぐ日本に戻るので、息子に芝刈り機の延長コードを持たせて芝を刈る。こうすると格段に効率がよいからだ。今年はよく雨が降ったので、芝も木も青々と繁っている。去年は酷い旱魃だったから、いくら水を撒いても草木は乾いたままで気の毒な程だった。
息子はこのところバッハのハ短調トッカータをさらっていて、前奏に続くコラールに現れる2度下行と4度上行の音型が、子供の頃よく聴いたクラム「夏の夜の音楽」のバッハの引用にそっくりなのだが、原曲がこのトッカータなのか、それとも似た別のバッハ曲なのか気になって仕方がない。
キーウの小児病院などにミサイル攻撃。少なくとも41人死亡、170人負傷との報道。外国為替1ユーロは175円まで円安進行。

7月某日 ミラノ自宅
Mdiと一緒に国立音楽院の作曲試験を手伝う。5人編成のアンサンブル作曲が課題に出されていて、試験では先ず学生が曲の意図などを簡単に説明してから全体を通す。その後5、6分作曲者がアンサンブルと簡単なリハーサルをする時間があって、最後にもう一度全体を通す。それから演奏者や見学者は退出、学生と教員3人でのディスカッションの後、学生も退席して教員が点数を話し合い、再び呼び込まれて点数発表となる。こんな塩梅で一人につき1時間近くかかるから、6人の学生だけで朝から夕方までかかる。試験から解放されたところで、息子より無事に日本着との連絡あり。
夜サラから電話がかかってきて、彼女の母親パオラが亡くなったことを知る。突然電話があったので、どうしたの?と尋ねると、お母さん死んじゃったの、と絶句している。暫く沈黙したあと、明日の昼、お葬式だから参列してくれないかしら、と震える声で言った。サラと息子は小学校低学年の頃から一緒に劇場の合唱団で歌っていた。家が近かったこともあって、家族ぐるみで仲が良かった。劇場の公演がある時など、夜おそく劇場裏の通用口で大きな犬を連れたパオラと話しながら、子供たちが通用口からでてくるのを待っていた。合唱団を終えてサラはヴァイオリン、息子はピアノと音楽を続けて、結局同じ音楽院に通うことになり、一緒に演奏するようにもなった。その切っ掛けを作ったのもパオラだった。サラや彼女の姉のソフィアとは、国立音楽院のオーケストラを振ったときに一緒にもなった。サラはちょうど初めてのコンサートミストレスですごく緊張していて、パオラからよろしく頼むわね、と連絡を貰ったりしたのを思い出していた。
最後にパオラに会ったのは、息子とサラが4月にピエモンテの教会で演奏会を開いたときだった。以前はふっくらした印象だったパオラが、すっかり痩せてこけてしまっていたから、家人と二人内心心配していた。そんなことをつらつら思い出していると、再びサラから電話があった。明日の葬式で、音楽院時代に一緒に演奏したブリテンのサラバンドを振ってほしいという。

7月某日 ミラノ自宅
14時20分にロレート広場にほど近い、サンティッシモ・レデントーレ教会に行く。特に何も言われなかったが、折り畳みの譜面台を持ってきたのは正解だった。もう少しで忘れるところだったが、サラやソフィアは気が動転してそこまで気が回らないのは当然である。友人の葬式で演奏した経験はなかったので、服装もよくわからなかったが、一応黒っぽい格好をした。約束の時間になるとサラとソフィアの友人や先生などが集まってきて、小さいながら立派な弦楽アンサンブルが出来上がった。最初にソフィアに会って抱擁したけれど、彼女も、来てくれてありがとうね、と言うのが精いっぱいだった。
既に柩は閉められていて、顔が見えないから実感も湧かない。本当にパオラは亡くなったのか、信じられない気持ちにもなる。柩の傍らの長椅子を皆で動かして、即席の演奏スペースを作って、ミサが始まる前5分程だけ音を出した。
時間通りに葬儀ミサが始まり、神父の説教になった。聖パオロ、聖アンブロ―ジョ、聖某、と聖人の名前を羅列した後、そちらに向かいましたパオラをどうぞ無事に神の国に送り届けてください。よろしくお願いします、ハレルヤ、ホザンナと締めくくると、本当に天空で無数の天使や聖人たちが環になってパオラを歓迎し、そのまま神の国へと吸い込まる姿が見えるようである。観念的というより、ずっと描写的な説教に妙に感心した。ずっと昔から作曲家たちは、この宗教観を連綿と音に綴ってきたのである。
パオラとカルロは別れているから、喪主は長女のソフィアになっていて、家族の言葉も「今朝あわてて書きなぐったものですが」と泣きじゃくりながらソフィアが読んだ。カルロは大学かどこかでミサで歌う聖歌を刷った簡単なパンフレットを用意してきて、ソフィアたちより少し後にミサに着いて、参列者に一人一人配っていた。
ミサの最後にブリテンを演奏したときのこと。左を見れば泣きじゃくるサラがヴァイオリンを弾いていて、右を見れば泣き崩れてチェロを弾いているソフィアが目に入って、胸が締め付けられる思いであった。ただこの音楽がすぐ隣に据えられている柩のなかのパオラに届くといい、そう思いながら振る。途方に暮れていたのだが、演奏に参加した皆の気持ちが彼女たち二人を励まそうと一つに纏まったから、結果としてとても情熱的な演奏になった。
ミサの後、カルロに言葉をかけてから、言葉に詰まってしまった。「生前パオラは息子に本当に良くしてくれて、本当に恩人だと思っている。今は何と言ったらよいか、言葉が見つからない」というと、カルロは「言葉なんかいらないよ。音楽で思いを伝えてくれたばかりじゃないか、あれ以上の言葉なんてないよ」と言った。
泣きじゃくるサラを抱きしめてから、教会を後にした。振り向くとサラとソフィアのところに参列者の長い列が続いていた。柩が運び出されてゆくとき、サラもソフィアもただ教会のなかで立ちつくしていて、教会外の霊柩車までついてゆくことはなかった。すでにパオラが、聖人のびっしり並ぶ環のずっと奥深く佇んでいるのを、或いは彼女たちは見ていたのかもしれない。

7月某日 ミラノ自宅
トランプ大統領暗殺未遂。イタリアのテレビでは「今回の事件で、左派はここぞとばかり銃規制に反対する共和党派を糾弾するでしょうが、規制の厳しいはずの日本でさえ首相が銃で暗殺されたばかりですからね、あまり関係ありませんね」と報じていて、何ともいえない心地。イスラエル、ハーンユーニスを空爆。少なくとも71人死亡、289人負傷との報道。

7月某日 三軒茶屋自宅
朝、散歩にでると、目の前の小学校の校門で、女児がインターホンを押し、開けてもらうのを待っているところだった。インターホンから「お名前をお願いします」と男性教諭と思しき男性の声が聞こえ、女児は名前を言ってから入っていった。
30年近く日本を離れていれば、言語感覚も乖離する。今は先生が低学年の小学生にこうも丁寧に尋ねるのか、と不思議というか新鮮な感覚をおぼえる。じゃあ自分がどう呼ばれていたかと言われると思い出せないが、お名前どうぞ、名前をどうぞ、程度だったのではないか。
たとえば、食う、食わない、という言葉も、息子などには理解がむつかしいようだ。息子に向かって、これは食わなきゃあ勿体ないよ、などと敢えてぞんざいに話すことがあって、彼はそれを真似て、我々に向かって、これも食いなよ、などとたどたどしく試みるのだが、家人から親に向かって使ってはいけない、などと言われて理解に困っている。ジェンダーの境界線も曖昧になりつつある昨今、男言葉、女言葉の区別も時代錯誤というか、矛盾も生じる。尤も、これはイタリア語を話すときでも同じである。
正確に言えば、親に向かって「食う」という言葉を使えないわけではないし、「食ってみたら」と婉曲的な命令表現すらも、場合によっては可能であろう。しかしそれは、「食う」以外の部分の日本語ニュアンスとのバランスであって、唐突に「食って」と親に言うのはやはり無理がある。
息子は魚釣りなどやらないからわからないだろうが、魚の食いつきが悪い、今日は餌を食わないねえ、というのを、魚の食べっぷりが悪いなあ、今日は餌を食べないねえ、というと、どうも雰囲気がでない。庭の池で錦鯉でも飼っているようである。
ところが犬や猫に餌をやるとき、最近この犬、餌を食わなくてさ、この猫、食わないんだよ、と言うと流石にやさぐれて聞こえる。動物にも等級があるのか、それとも日本人が伝統的に食してきたかによるのか。尤も、牛や馬くらい図体が大きくなると、食うでも食べるでもなくて、食むになりそうだ。
時代を下るに従い、以前の敬語表現が格下げされて使われる傾向があるらしいから、50年後くらいには、親が子供に向かって「ほらこれを召しあがって」、飼い猫にも「この餌召し上がらないと」などと話しているのかと想像すると、愉快ではある。イタリア語だって、さまざまなニュアンスを一致させながら話す必要はあるのだけれど、日本語はやはり突出してむつかしい。
バイデン大統領、次期大統領選撤退発表。カマラ・ハリス副大統領を民主党候補として支持を表明。少し前から外国為替は円高傾向に転じている。

7月某日 三軒茶屋自宅
息子が見つけてきた、ディノ・チャーニのウェーバーの録音に衝撃を受けている。輝かしい音を並べつつ、ほとんど即興的に表現の限界に挑んでいる。チャーニは、カセルラ、アゴスティ、コルトーの薫陶を受けたデル・ヴェッキオからピアノを学んだ後、チャーニ自身もパリでコルトーのもとで研鑽を積んだ。その為かチャーニが弾くバルトークは、カセルラの自作自演を思い起こさせるし、ロマン派のレパートリーであれば、イタリア的な読譜が礎に据えながら、コルトーのように眩く発色させた印象を受ける。ウェーバーのソナタも間違いなくコルトーの教えを受けたに違いない。チャーニのショパン3番ソナタの録音でも同じようなショックを受けたが、イタリア人らしい、観念性を排除した譜面の読み込み方と、そこから脱皮し敢えてその衣を過ぎ捨てながら、自在に空間に遊ぶ姿が共存している。もしベートーヴェンからショパンに至る一本の線があるとするなら、ウェーバーは確かにその線上に位置している。息子曰く、ウェーバーとベートーヴェンが違うと考えるより、ウェーバーがあったからショパンがある、と思う方がよほど納得しやすいそうだ。その昔、初めてクラシック作品を指揮した演奏会で選んだのは「魔弾の射手」だった。

教員が教室のクーラーをつけ忘れていて、九州の小学6年生が「暑い、なんでつけてくれんやったと。死ね」と言った事に対し、生徒を窓際まで連れていき、肩に手をまわして教員が「一緒に死のう、一緒に飛び降りるか」と指導したことが体罰に相当と判断されて、「決して許されることではなかった。もう一度学校づくりを進めていきたいと思います。本当に申し訳ありませんでした」と学校が謝罪したとニュースに書いてある。
一概に、時代が進むにつれて、丁寧な表現が格下げされて敷延するばかりではないことは分かった。さて、「亡くなる」の命令形はなんだろう。
日本滞在中の愉しみのひとつ、金曜夜の「高橋源一郎の飛ぶ教室」で大田ステファニー歓人インタビュー。山根明季子さんの音楽を思い出しながら、聴き入る。まだ彼の本を読んでいないから、恐らく見当はずれの感想には違いないが、番組で音読された長大なセンテンスを聞きつつ無意識に想起していたのは、山根さんの音に満たされた三島由紀夫の文章だった。息子は先日まで熱があったらしくて、多少味覚障害が残っている、どうしよう、とすっかり不安に駆られている。

7月某日 三軒茶屋自宅
全く仕事が進んでいないが、ちょっと抜け出してトーンシークの演奏会を聴く。主宰者の久保くんも、増田建太くんも秋吉台で知り合った。久保くんはその後ミラノで研鑽を積んだから、その頃も親しくしていたし、今年の春も奥さんを連れてミラノに遊びにきてくれた。指揮の馬場くんも彼がトロンボーンを吹いていたころから知っている。クラリネットのキュサンは、渡邉理恵さんのアンサンブルで吹いていたのを思い出した。打楽器の沓名さんもフルートの齋藤さんもピアノの秋山くんもご一緒したことがあるから、それぞれ素晴らしい演奏家だと知っている。
久保くんは、ミラノでmdiアンサンブルが若手作曲家にむけたワークショップを開いては、広く演奏の機会を与えていたことに深く感銘を受けていた。だから、帰国直後から、同様の活動を日本でどうしてもやりたい、と深く情熱を傾けてきた。
秋吉台以来の増田くんも見違えるように紳士になっていて、彼の音楽もより広がりを持ち、何よりやりたいことが明瞭になっていたとおもう。秋吉台のホールで、彼が自作を熱心に振っていた姿を感慨深く思い出す。客席にはチューバの橋本君がいて、秋吉台の思い出話に花が咲く。実は増田くんは我々の直ぐ傍らに座っていたのだが、すっかり垢ぬけてしまっていて二人とも彼が増田くんとは気づかなかった。馬場くんの指揮は流れるように音楽的で、アンサンブルも深く寄添っていた。久保くん凄いね、これこそ情熱だよね、いや執念でしょう、と橋本君と笑う。
ヒズボラがイスラエル占領下のゴラン高原にロケット弾攻撃との報道。被害を受けたサッカー場で子供を含む12人死亡。

7月某日 三軒茶屋自宅
その昔、創立されたばかりのひばり合唱団一期生に母が入団した頃、朝5時に起きては蒸気機関車の曳く汽車に乗って、10時からのNHKの収録に出かけていたという。東京にむかう汽車の中で合唱の練習をしていたそうだが、今じゃあ到底考えられないわね、昔はのどかよね、と電話の向こうで笑っている。
般若さんが来月金沢で演奏してくれる「Jeux III」の解説文を書く。すっかり忘れていたけれど、この曲を般若さんに送ったのは、イタリアでcovidが爆発した直後のことだった。あの年の1月、東京で般若さんが悠治さんの演奏会に参加してくれた時、何かヴィオラ曲を書いてほしいと言われていたのだけれど、3月にcovidが爆発して、そのヴィオラ曲を書きあげるまで自分が生き抜く自信がなかったから、サックスと太鼓のための作品を急遽ヴィオラに直して般若さんに送ったのだった。当時、家人と息子は金沢からほど近い、入善の友人宅に身を寄せていたから、無意識に何か書いて送りたかったのかもしれない。
オリンピック開会式。見ていないので何もわからないが、選手たちはセーヌ川を船で下って入場したと聞いた。イタリアはイスラエルと同じ船だったから、イタリアでは、そんな船に同乗させるのは可哀想だとか、見るのも耐えられないなどとも言われたようだ。実際イスラエルの選手たちに対しては、少なからず抗議のブーイングなどが投げかけられたようである。ロシアとベラルーシの選手の参加は認められなかった。

7月某日 三軒茶屋自宅
橋本さんとのリハーサルは楽しい。ご本人からしたら未経験の無理難題ばかり押し付けられ、堪ったものではないだろうが、同時に、怖いものみたさで、それを嬉々として待ち構えているというか、ハングリー精神とも少し違うのだが、興味深々とでもいうのか、練習のたびに研ぎ澄まされてゆく感覚を愉しんでいらっしゃるようにすら感じる。彼女の裡には粘り強く強靭な何かがあって、そこを目がけて音を放つとしっかりと受け止めて跳ね返してくる。そこにエネルギーが生まれ、耀く色が見えてくる。
磨けば磨くほど、何かを演じる際、彼女の裡が空っぽの真空になってゆくのがわかって、すばらしい。体現すべき対象物が自身の裡に燻っていては、表現として外に発すことはできない。
夜、ニグアルダ病院時代に息子がすっかりお世話になった、ベルガモーニ先生と彼女の友人と16歳の息子に会う。彼女たちが2週間の日本を観光を終え、明日ミラノに戻るので、何か食べたいものはないかと尋ねたところ、フグだと言う。よってリハーサル後、渋谷で落ち合って息子も合流して5人でフグの刺身とフグ焼き、カニとうなぎに舌鼓を打った。
フグ専門店に行こうかと思ったが、友人親子はフグがどうしても怖くて食べられないということで、他の食材もあるところを探したのだが、実に美味であった。何でもイタリアでは、日本で有毒のフグを食べるという肝試しがあるらしい。そんな話はついぞ聞いたこともないが、ある所にはあるのだろう。音楽家界隈には馴染みのない肝試しには違いない。
よく聞くと友人親子が想像していたフグとは、トラフグではなくハリセンボンであった。なるほど確かにハリセンボンは我々の食指も動かさない。親子曰く、怖いし、ハリセンボンの剥製を家に飾ってあるから、可哀想だというのである。ともかくベルガモーニ先生は、明日生きて帰れるかしらと冗談を言いながらパクパクと食べていたから、すっかりフグの味が気に入ったのだろう。ウナギもイタリアではあまり頻繁に食べられるものでもないので、最初は皆少し緊張していたが、結局喜んで平らげていた。
ヴィム・ヴェンダーズの「パーフェクト・デイズ」にでてくる公衆トイレは全部行った、と嬉しそうに写真を見せてくれる。この映画に刺激をうけて日本を訪問する観光客はかなりいるはずだ。
渋谷の夜景に美しい美しいと感動していたけれど、でもここに住むのは大変そうね、と笑っていた。道で犬を散歩させる人もずいぶん少ない、と驚いていたが、確かに特に住宅街を訪れなければ、そういう印象を持つのも仕方がない。

7月某日 三軒茶屋自宅
留学先から帰国して2年ほどになるT君と話す。ずっと日本にいると、自分が学んできた大切な部分を忘れてしまいそうになるんですよ、という。狭い世界に閉じ籠っているからか、ここで仕事を続けていると、自分の性格が悪くなってゆく気がするそうだ。日本人社会がとてもきっちりしているのはその通りかもしれないが、それ以上に、学生と社会人であることの違いが大きいに違いない。リハーサルと会議を終え幡ヶ谷から自転車で戻ってみると、慕っていた作曲家の訃報がとどいていて、言葉につまる。
外国為替は1ドル151円、1ユーロ166円まで円が回復。イラン訪問中のハマス最高幹部、イスマイル・ハニーアが飛翔体によって就寝中に殺害との報道。昨日はイスラエルがベイルート南部ダヒエ地区を空爆、ヒズボラ最高幹部のファド・シュクル殺害と発表。世界では平和の祭典オリンピックからはかけ離れた日々が続く。

(7月31日 三軒茶屋にて)