想像の共同体の舞踊

冨岡三智

このタイトルをつけたけれど、話はアンダーソンの『想像の共同体』とは関係がない。ジャワの宮廷伝統舞踊をやっていると、西洋では失われてしまった、大地に根差した共同体舞踊の本質がその中にはあるのでしょう?この舞踊も本来は儀礼的・儀式的な舞踊だったのですよね?という問いを観客から受けることがある。直接そう言われることはなくても、そういう期待やそう言いたげな視線を感じることがある。たぶん、アジアの伝統舞踊をやっている人は皆同じような経験をしているのではなかろうか。そして、かく言う私も、そういう期待を以てジャワ舞踊を始めたのかもしれないと思う。

けれど、いまの私は、現在では失われてしまった宮廷舞踊の本質がかつての宮廷にはあった…とは実はあまり思っていない。現在では失われてしまった何かが古代にある、アジアにある、どこか人知れない所にいまなおある…という想像は学問や芸術の探求において大きな動機・起爆装置になる。そしてそれを追体験したい人たちにとって観光の大きな動機にもなる。

けれど、たぶん、人間の本質というのはそうそうは変わらなくて、昔だって儀礼として舞踊を探求したい人も、また優れた踊り手も、実はそんなに多くはなかっただろうと思うのだ。昔は舞台公演がなくて、「共同体儀礼」や「宮廷儀礼」の中でしか踊れなかったのかもしれない。けれど、このコンテクストがあるから成立させてもらえていた面だって大いにあるはずだ。逆に、それだけでは満足できなくて、コンテクストの支えなしの芸術性を追求したいと思っていた人も中にはいたはずだ。

共同体のコンテクストというのは、儀礼の場でもあると同時に社交や娯楽、単なる暇つぶしの場でもあっただろうなとも私は想像している。儀礼として尋常でない覚悟を持ってやっている人の隣には、それを見届けたいと思う人だけではなくて、ボケーッとしている人も、仕方ないからそこにいる人だっていたことだろう。だって、そこを離れたら行く所がないというのがかつての共同体なのだから。それはちょうど今の義務教育の学校のようなものではないだろうか。学校の中でも、言われなくても勉強にスポーツにどんどん自発的に取り組んで工夫をするのが好きな人もいれば、言われたらできる人もおり、言われてもやらなかったりやれなかったりする人もいる。

だから、時間的な隔たりの向こうに(古代に)、辺境の彼方に(アジアに)あったらしい想像の共同体の中で伝承されてきた儀礼的な舞踊…、きっとあるに違いないと思って想像する何かを私は見つけたいのだろうと思っている。