しもた屋之噺(280)

杉山洋一

フランチェスコ法王の最後のインタビューは、「結婚とは何か」だったそうです。ベルゴーリオ曰く、「結婚とはタンゴのようなもの。それも何時までも続く、なかなか手ごわい(un tango che non si scherza!)タンゴ」とのこと。

4月某日 ミラノ自宅
ロベルト・カッペルロのマスタークラス見学。息子はモーツァルト466を弾き、カッペルロは暗譜で伴奏しながら注文をつける。ベートーヴェンが書いたカデンツァなのだから、音色もルバートもフレージングもベートーヴェンらしく変えて、協奏曲冒頭のモティーフが出てくるところは、冒頭の様式を踏襲しつつ、時間をたっぷり使って弾くこと。1楽章で初めてピアノが登場するところは、ピアノはオーケストラと一体化していること。
トランプ大統領、全世界に対し一律10%の追加関税を発動。

4月某日 ミラノ自宅
朝、家人と連立って市立音楽院に出かけたところ、シモネッタ荘玄関の石造りの柱廊のところで、一人の学生が可愛らしいポルタティフ・オルガンを調律している。素朴でどこか不器用な5度の響きが、柱廊をわたる春の微風にのって運ばれてゆくのを眺めながら、子供のころ、手で鞴を操作しながら音をだすポルタティフ・オルガンと手回しハーディ・ガーディに憧れていた。三つ子の魂なんとかと言うが、この二つの楽器を目の前にすると、サンティアゴ・デ・コンポステラのレリーフ写真にときめいた小学生の頃と何も変わっていないのを実感する。
市立音楽院の映画音楽作曲クラス、自作指揮1年目の試験。「子供の情景」より10曲と「ミクロコスモス4・5巻」より7曲、20分以上も振らなければならないから大変である。ところが試験を始めてみると学生たちが驚くほど音楽的に振るので、むしろクラシックの指揮専攻の学生への自分の教え方が余程悪いのではないかしら、と訝しくすらおもうほどだ。
夜は家人と連立ってヴェルディ・ホールに出かけて、カッペルロ・マスターコース試演会を愉しんだ。地下鉄サンバビラ駅を降り、国立音楽院に向かおうとすると、少なくとも100人ほどはいるであろう親パレスチナ・デモ行進が道を占拠していて、警察機動隊を先頭に、横断幕を広げながら、ゆっくりと歩みを進めていた。ついさきほども学校から帰宅途中、ロレンテッジョ地区が結成したらしいアラブ系市民15人ほどのデモ隊、そのうち4、5人は小、中学生と思しき子供であったが、ささやかなパレスチナ保護を求めるデモ行進を見たばかりだった。
試演会では息子はカッペルロの伴奏でモーツァルト466を弾いた。カッペルロが、自分なら1楽章再現部1小節前のフォルテを敢えて弱音のスタッカートに変更して、弦楽器の再現部へ繋げてみたいと言ったのを踏襲していたが、なかなか面白い解釈である。カデンツァも今までよりずっと時間をかけてたっぷり弾いていて、音像が立体的で奥行きが増した分、情感も豊かに聴こえる。
この2年ほどの間に、息子と音楽の関係は大きく変化した。成人した息子に口出しする積りはさらさらないが、各々自らに与えられた人生をどう生きるのか、こればかりは誰にも分からない、恐らく当人すら想像もつかない、つくづく不思議なものだと実感する。

4月某日 ミラノ自宅
「ルカ」にパンを買いにゆき朝食にしてから、冬の間ずっと庭の垣根を塞いでいた、嵐のときに折れた立派な幹とそれに絡みつく無数の蔓草を片付ける。太い部分は軽く3、40キロはあるはずで、動かすだけでも一苦労であった。数メートルの丸太は拙宅のへろへろの鋸では到底切り分けることも叶わないので、土壁の脇に寄せるのが精々だ。
夜は Magazzino Musica で市立音楽院の教師30人程が集まり、今後の学校運営に関する会合が開かれる。2030年でミラノ市は学校運営への参画から外れるが、このまま運営全てをミラノ市に任せておくと、文化を軽視する政府の傾向と相俟って学校を閉鎖しかねない、その前に学校内部から対外的に働きかけをすべき、と署名に参加。グロバリゼーションへの反動なのだろうけれど、日本、イタリアのみならず、こうした社会傾向は著しい。

4月某日 ミラノ自宅
ギターのための「間奏曲」浄書、出来たところまで藤元さんに確認してもらう。沢井さん揮毫の「待春賦」の書を仲宗根さんから見せていただく。深く染入る響きのようでもあり、茶目っ気を帯びた沢井さんの明るい声色のようでもあり、春を待ちわびる芹のようでもあり、餌台のクルミににじり寄る大小色とりどりの飄々とした鳥たちのようでもあり、慈しみと温かみ、そして遊び心にも溢れていて、深く感動する。
ほんのささやかな息子の二十歳祝いのため、家人と二人 Griffa に出かけた。このところ家人と街を歩いていると、ミラノの街並みはやっぱり美しい、いい街ねえ、と繰返している。

4月某日 ミラノ自宅
朝、サン・ルイージ教会にピアノ搬入。息子は、責任をもつような仕事は絶対嫌だ、弾き振りなんて自分には到底できないと文句をいいつつ、466を練習している。
午後、リッタ宮で開催中のミラノ・サローネ博覧会に家人の友人をたずねると、林太郎君が通訳として働いていた。今年でもう26歳になるそうだ。世界各国からサローネを訪れる見学者と、出品した日本人関係者との通訳が主な仕事で、見学者の大多数はイタリア国外から訪れるので、結局使う言葉というと、英語と日本語がほとんどだという。彼の専門は都市計画が専門だが、お父さんはインテリア・デザイナーでもあり、ここでの通訳も楽しいそうだ。これからどうするのか尋ねると、昔よりイタリアの治安は悪くなったし、どこか別の場所で働きたい気もするが、まだわかりません、と微笑んだ。彼がまだ幼い頃、拙宅でお父さんの仕事が終わるのを待っていることがしばしばあったのを思い出し、「あの庭が好きでした」とはにかんでいた。

4月某日 ミラノ自宅
ジュゼッペが主宰しているアマチュアオーケストラの慈善演奏会で、息子がモーツァルト466を弾き振りするので、コルソ・ローディ脇のサン・ルイージ教会へでかける。前半は、ジュゼッペの振るヴェルディ「ジョヴァンナ・ダルコ」前奏曲と、息子のモーツァルト、後半はジュゼッペがベートーヴェン交響曲第5番にアンコールはモリコーネの「ニューシネマパラダイス」。100年前ほどに建てられた、明るく広々としたサン・ルイージ教会はミラノ南部のコルヴェット地区の手前にある。ここから先の地域は最近までミラノのブロンクスと呼ばれるほど治安が悪く、文化活動も揮わなかったため、ジュゼッペは通っているサン・ルイージ教会のドン・グイード神父と一緒に、この地域の市民、特に若者に向けて、地元に根付いた音楽啓蒙活動を始めたらしい。聴衆は老若男女あわせて200人は下らないだろう。ほとんどがこの地域に住んでいるのか、雰囲気としてはミサに来るような普段着の気軽さと温かさがあって、とてもよい。ベビーカーを押している若いカップルもいれば、幼稚園児くらいの子供もベンチから身を乗り出してオーケストラを眺めていたし、年配の夫婦もかなり見かけた。
尤も、教会全体がとても広いので200人程度では、クーポラ下の祭壇から聖堂半ばまで固まって座っている感じにみえる。ドン・グイードは普段のミサよりずっと人が集まった、と喜んでいたそうだ。
朝から学校で試験だったので、息子には恐らく演奏会には間に合わないだろうと伝えてあったから、リハーサル途中でオーケストラの配置をどうするか、とジュゼッペと息子から何度も電話がかかってきた。こちらは試験中だったので困惑したが、今となっては愉快な思い出である。
息子もジュゼッペもオーケストラも、堂々と見事な演奏を披露して、深い感銘を受けた。息子があんな真剣な顔をして音楽をするのを初めて見て愕いたし、不思議でもあった。家人は、息子が466を振り出したとき思わず感動して涙が込み上げてきたそうだ。親ともなれば、世界中どこでも似たようなものだろう。我々が聴きに来るとは思っていなかった息子は、こちらが演奏後に顔を出すとびっくりしていた。
アジア系の聴衆が殆どいなかったからか、聴いていた年配者何人かから、あんたはあの子の父親かい、すごいねえ、ますます頑張るように伝えて等と声を掛けられ、小学校の運動会を眺める父親の気分である。

4月某日 南馬込
朝10時に羽田着。家人のアドヴァイスで蒲田まで京急を使い、そこからタクシーで馬込に向かう。シャワーを浴びてから西大井に向かい、14時からの、鎌倉・源氏山公園の古民家、ディロン演奏会に顔を出す。鎌倉を訪れるのは、高校の頃に作曲の先輩方と山へ登って遭難しかけた時以来だが、当時とはまるで様相が違って、まるでフィレンツェやヴェネツィアを思わせる観光客の人いきれであった。
何しろ道が狭く車の往来すら儘ならないところに、観光客が行列を成しているのだから大変である。イタリアの観光地であれば路地はせめてずっと広い。鎌倉ですらこうなのだから、京都の騒ぎなど想像に難くない。銭洗弁天に向かう住宅地あたりで、車はいよいよ全く動かなくなり、14時には間に合わない。
峠の館と名付けられた古民家の外観は、所謂雰囲気のある洋館という出で立ちながら、中に足を踏みいれると、堂々とした梁がわたされている、立派な旧家の佇まいが広がる。畳敷きの広間には、巨大な猪一頭を描いた見事な屏風がたてかけられ、ディロンはその猪を目の前にしてソロを弾いた。
ここで胡坐をかきながら聴くバッハの組曲は、コンサートホールと違う、不思議なありがたみがあった。外ではウグイスが盛んに啼いていて、目を向ければ、未だ春の花が樹々を賑わせている。コンサートホールの演奏なら、演奏そのものに集中するのかもしれないし、教会で聴けば、思わず聖堂の威風に惧れを成して、人間としての自分の領分をわきまえつつ、神と我々を繋ぐバイパスとして音楽を聴くのかもしれない。ここで聴くとそのどちらとも違って、ごく普通に人としてバッハを眺めている気分とでも言おうか、ウグイスと対話するチェロを眺めているのが心地よかった。
後半は地下の会場に場を移して、家人とディロンでシューマンなどを弾き、ここではチェロとピアノの丁々発止を愉しむ。20数年前、彼らが初めて一緒に演奏した頃のことを思い出す。皆若かったし、互いにエネルギーをぶつけて生み出す面白みを愉しんでいたのだろう。今日のような丁々発止とはいえ会話の滋味を味わう感じは、音楽の裡へと聴き手をいざなう。
夜は東銀座でカレーを食べながら悠治さん、美恵さん、小野さん、吉田さんと座談会。悠治さんたちも小野さんも鎌倉と所縁が深い。
悠治さんの本を読み、楽譜を勉強して想像していたものと、実際にそれを音にして見えて来るもの、というはなし。
これだけ情報が溢れている社会において録音をCDとして残す意味は、今日生きている作曲者本人のためというより寧ろ、何十年後かに彼の作品を知ろうとする誰かのため。
音源と資料がセットになっているCDという形態は、何十年か経って情報を遡るときに、恐らく役立つに違いない。音声ファイルだけが残っていても、これだけ情報が氾濫している中で、信用し得る関連資料を見つけるのも容易ではないだろう。問題はCDも劣化が激しいということと、何十年、何百年か経って、CD を再生させるハードが存在しているかどうか。
第二次世界大戦後、日生劇場、草月ホール、西武グループ、サントリーと文化を支えてきた掛け替えのない人々がいて、これから半世紀後、果たして我々のことを知りたいとおもう人々がいるのだろうか。
0歳の頃から「味とめ」で美恵さんや悠治さん、浜野さんなどに抱いてもらっていた息子も20歳になった。悠治さんのことは、いつも蛸を食べていた「蛸のオジサン」として理解している。味とめの女将さんが亡くなったと美恵さんから聞く。

4月某日 南馬込
打合せの後、昼過ぎ九段下でディロンと落ち合い「葉椀」にて昼食を摂る。彼が一人でふらりと入ってすっかり気に入り毎日通った店だという。カウンター席にて、カツオたたき定食、彼はマグロ丼に舌鼓。美味。玄米なのも凄くいいでしょう、とディロンが喜んでいる。そこからほど近い青海珈琲でコーヒーを立ち飲みして、二人で写真を撮りシャリーノに送った。持ち帰り用のコーヒーのカップやストローがプラスティックなのを見て、ヨーロッパがエコロジー・アレルギーが過ぎるのかな、ロンドンでもどこでも、プラスティックのストローなんてすっかり見なくなったから、何だか新鮮だ、とのこと。日本て、なんだか不思議な国だよね、と言われる。
夕刻、佐々木さんと美紀さんと、代官山のイタリア料理店に集い、岡部さんのワインを持ち込んで献杯。
最近、思考がパンクしてしまって、何だかまっさらに物を見たくなってアリストテレスの「形而上学」を読んでいるという話から、佐々木さんと暫くギリシャばなし。イタリアに住んでいて、やっぱり「腐っても鯛」的なところがイタリアにはある気がする、結局「すべての道はローマに通ず」の共通認識をイタリア人を含むヨーロッパ人は甘受している、という話。
アリストテレスを読みながら、どこか頭が喜ぶのを実感するのは、真理を求める素朴な姿勢に共感できるから。知らないから知りたい、そんな単純な思考を、我々は軽視し過ぎているのかもしれない。既に我々は知っている、その過信が我々の思考を、深く刻み込む真理に向けた渇望の意識から、浅く広く茫洋としたジャンキーへ変えてしまった。実は何も知らないのに、知っている積りになっている自分に気づくことは、精神衛生上とても良い。それはつまるところ、知識でも常識でもなく、ただ真実を知りたいという、無意識に天を仰ぐような畏怖にも近い態度なのだろう。
岡部さんの膨大なるワインセーラーから美紀さんが持っていらしたのは、間違えていなければNicolelloの40年もので、しっかりと深い味がした。豚に何某とか猫になんたら、殆ど酒が呑めない人間には全て美味しい。
以前、美紀さんと岡部さんがミラノにいらした時、すらっとした美紀さんの姿がちょうど観音菩薩そっくりに見えた。岡部さんは本当に幸せそうだったのを、テーブルに並ぶ4つのワイングラスを眺めながら思い出す。

4月某日 南馬込
安江佐和子さんの企画演奏会1日目。伊左治君の「diorama」の演奏に参加しながら、大学時代「冬の劇場」を一緒にやっていた頃を思い出す。中川俊郎さんの作品で、水を垂らすパフォーマンスをしていたのが強い印象を残したので、今回のパートが作られたらしい。伊左治作品は、黄金色というのか、黄昏ているわけではないが、美しい映像が映し出されるような作品であった。

diorama
それでも私は、この震える海を渡ろう
新美 桂子

太陽を背に
父なる川を隔て
寄りあう母音の群れ
向こう岸の親密

姿かたちを変え
海原に流れ込む
耳なじみのない言葉
無口な花嫁

寄せては返す
白波にさらわれ
打ち上げられた星々
潮だまりの鼓動

雨足遠のき
別れの予感を胸に
俄かに飛び去る冬鳥
籠のなかの寒空

最果ての夢に
置き去りの雪景色
指針を狂わす出会い
降り積もる歳月

旅路を先まわり
光を回収する奇術師
虹の麓に散った影
葉っぱのふくよかな匂い

朝霧が手招く
混沌のはざまに
雲がくれする眼差し
出迎える大木

Diorama  / Nonostante tutto, attraverso questo mare tremante
Keiko Niimi

Le spalle rivolte al sole,
qua e là le due rive del fiume paterno,
un branco di vocali ammassate
nell’intimità della battigia sull’altra sponda.

Parole ignote
mutano figura
e sfociano nel mare
come spose mute,

viavai di onde bianche
catturano le stelle
e le trascinano a riva
sopra i solchi delle pozze di marea.

Mentre la pioggia si allontana,
nel presentimento di una separazione,
un uccello invernale si congeda
e il cielo rabbrividisce in un cesto.

Abbandonato nel sogno dell’estremità della terra,
in un paesaggio truccato dalla neve,
un incontro paralizza la bussola
e il tempo si coagula.

Anticipando il cammino
un mago recupera le luci,
ombre di un arcobaleno sparse ai piedi delle montagne,
odore carnoso delle foglie.

Tra la confusione
la nebbia mattutina fa un richiamo di invito,
uno sguardo celato.
E un grande albero lo abbraccia.
(traduzione : Maria Silvana Pavan, Yoichi Sugiyama)

久しぶりに内藤明美さんに再会する。全くお変わりなくお元気そうでとても嬉しい。すみれさんが演奏する八村義夫「dolcissima mia vita」。色々な思考が脳裏を錯綜し、駆け巡る。八村さんの選択する音の美しさであったり、金属打楽器だけが並ぶ不思議さについても思う。
カルロ・ジュズアルドのマドリガルの手触りは、どちらかと言えば、より肉感的で皮質打楽器に近いとも思う。それを敢えて金属打楽器に限定して見えてくるものは、八村さんのジュズアルドへの憧憬やロマンチシズムかも知れないが、不貞を働いた妻と情夫、赤子までの殺人を冒したジュズアルドと従者が携えていた剣の刃の輝きのようでもある。純粋に音だけを辿れば「星辰譜」の頃から「dolcissima」まで八村さんが望む音は一貫していた。すみれさん曰く、八村さんは「dolcissima」を「濡れズロ」のように演奏するように望んでいたそうだ。ジュズアルドのマドリガルと濡れたズロースは、なるほど八村さんの裡で正格に繋がっていた。

4月某日 馬込
漸く二日目の演奏で、伊左治作品のパフォーマンスが少しだけうまく出来た。敢えて立ち上がらずに、椅子に座ったまま、水をいれたペットボトルを掲げる按配で水を垂らすと、うつくしい音がした。安江さんの演奏会は、会場初めての大入りだったとか。湯浅先生「相即相入」は名演。二人の演奏家の息が合い、音と音の間に新しい空間が生まれてくると、まるで見たことのない有機的な風景が目の前に顕れる。これを玲奈さんに聴いていただけたのは、個人的にとても嬉しかった。眞木さんの「14パーカッションズ」は、眞木さん自身をご存じで、声明であったり和太鼓であったり、眞木さんが展開された活動をつぶさに知るすみれさんだからこそ出せる音があった。甲乙どういうことではなく、ただ自分が知っている石井眞木さんの人間に、直に通じる何かをそこから掬いあげることが出来たのは、倖せなことだった。
演奏会後、綱島に垣ケ原さんを訪ね、一緒に美枝さんの墓参をする。大倉山の法華寺の参道脇一面に蕗が生えていて、垣ケ原さんが採りに来ないといけないな、と呟いていた。住職さんと予め話がしてあるらしい。お墓を覆うよう大きな桜の樹が並んでいて、散った桜の花をたわしなどで落とす。墓石には、既に垣ケ原さんの戒名も彫られていた。桜が咲き乱れるころは、それは見事な光景に違いない。
ご自宅では、庭で採れた蕗の煮つけに下鼓を打ってから、お寿司の出前まで頂いてしまった。蕗を煮ると毎回違う味付けになってしまってねえ、と照れていらしたが、とても美味しかった。同じようにお寿司もずいぶんよい味なので覚えていたのだが、大倉山の美景寿司という知る人ぞ知る名店の寿司であった。垣ケ原さんご自身も、湯河原の祖父に似た面影があるのだが、垣ケ原さんと弟さんが話している抑揚が、まるで湯河原の実家のそれと一緒なのはどういうことか。
夜半、池上の湯浅邸にて、「軌跡」のスケッチを見る。鉛筆書きの雲のような挿絵があって、その隣にdreamと綴られている。日本を発つ前にここを訪ねられて本当に良かった。今まで自分が不思議に思っていた湯浅作品に思うギャップが見事に払拭された。グラフで描かれる音楽は結果に過ぎず、湯浅先生が追及していたのは、より人間愛的な信念、信条のようなものであったし、最後まで人間を愛し、信じようとしていらしたのを実感する。雲に添えられたdreamは、湯浅先生が信じようとした音楽の姿だったのかもしれない。
玲奈さんは、最後に湯浅先生が舞台にあがったとき、笑っていたのが嬉しかったという。彼女は後ろから車椅子を押していたから見えなかったけれど、後で写真を見ると「父が満面の笑顔で笑っていたんですよ」。

4月某日 ミラノ自宅
ローマ空港に着いたとき、機内でフランチェスコ法王の逝去を知る。
沢井さんの録音のマスターが届いた。久しぶりに「鵠」を聴き、沢井さんから生まれる音が、まるでシャーマンの響きのようで、激しく魂が揺すぶられるのを感じる。「鵠」を書いて10年以上が経ち、なぜ自分が「手弱女」や「真澄鏡」などを書きたくなったのか、改めて実感できた気がする。当時は、ただ自分の気の向くまま書いたつもりになっていた。
90歳になったばかりの町田の母曰く、最近パルメザンチーズをよく食べるようになってから、足腰年齢が80歳から75歳になり、内臓年齢は74歳から70歳になったらしい。理由は定かではないが、心当たりは、せいぜいパルメザンチーズか、欠かさず飲むようになった養命酒くらいしかないという。不思議なこともあるものだ。

4月某日 ミラノ自宅
朝10時からのフランチェスコ法王の葬儀ミサ中継を見る。雲一つない澄み切った青空。サンピエトロからテーヴェレ川まで埋め尽くされた人いきれ。サンピエトロの広場は、その人いきれに関わらず、沈黙が支配している。
イタリア国営放送は、葬儀ミサが始まる前、ヴァチカンの礼拝堂でベルゴーリオの柩と対面するトランプの姿を伝えながら、
「どことなく、トランプの表情は緊張しているというか、当惑しているようにみえます」。
ヴァチカンで膝を突き合わせるトランプとゼレンスキーの写真を示しながら、イタリア国営放送のコメンテーターが話す。
「この写真をみると、どこかトランプの方がむしろ前のめりというか、積極的にすら見えますね。前回の会談から何か心変わりでもあったのでしょうか。遥か昔から現在に伝わる歴史的な転換点、特に大事な節目、ここぞという出来事は、いつもヴァチカンのこの宮殿から発せられてきました」。イタリア人が普段は隠しているプライドは、こういうところで顔を覗かせる。Covid直前の日本を訪れ、東日本大震災の被災者と会い、広島、長崎で被爆者と交流しながら核廃絶を訴えた教皇のお別れに、できることなら日本の首相も参列してほしかった。
毎月の給金も受取らず清貧を良しとした法王の甥は、葬儀に出席するためのブエノスアイレスからローマまでのフライトチケットを払うお金すらなかったが、それを知ったアルゼンチンの旅行代理店が、彼にチケットを贈ったという。
レ枢機卿の説教で、法王が「壁ではなく橋をかけようとしたこと」、「アメリカとメキシコ国境でミサをしたこと」、「難民に対して常に心を痛めていたこと」、近年の戦争などについて触れる度、群衆から大きな拍手が起こった。その度にレ枢機卿の声は少しずつ熱を帯びてゆく。
「フランチェスコ法王が就任後まず最初に訪れた地が、何千人という移民が海の藻屑と消えた、シチリアとアフリカの間のランペドゥーザ島であったのは、象徴的だったと言えますまいか」。群衆より大きな拍手。
「恐ろしく非人道的で、数えきれない死者をもたらした、ここ数年の猛り狂う沢山の戦禍を前に、フランチェスコ法王は絶えず平和を掲げ、人々に道理を取戻すよう呼びかけていました。落ち着いて対話にのぞみ、解決を導くよう声をあげました。なぜなら、戦争は、ただ人の死をもたらし、家を、病院を、学校を破壊するものだからです。戦争は、常により悲惨で劣悪な世界をもたらすからです」。群衆から割れんばかりの拍手。トランプ大統領の姿がクローズアップ。
ミサ終盤、Pace(安らぎを)と参列者が握手を交わす際、トランプとマクロンの姿がクローズアップされた。100年前、どのようにして大戦へ向かっていったのか。後年になれば、政治家ばかりがクローズアップされるけれど、その政治家を選んでいる、さもなければ、その政治家に甘んじているのは、他ならず我々一般市民であることを知る。我々が最上と信じて疑わなかった民主主義は、結局100年前と同じ道を辿っていること。どちらかに揺られれば、揺り戻しが来るということ。

隣の部屋で、久しぶりに息子がウェーバーのソナタを練習している。こうも変わるのかと思うほど、まるで各旋律の音色が違って聞こえるのは、自分で実際にオーケストラを振ったからかもしれない。ホルンらしい旋律にはホルンのブレス、クラリネットらしい旋律にはクラリネットのブレスを感じる。伴奏する弦楽器群の手触りや厚みが、掌の裡に息づいて聴こえるのは親の買い被りには違いなかろうが、以前の息子のウェーバーには感じられなかった彩りと瑞々しさに思わず耳を欹(そばだ)てている。

(4月30日 ミラノにて)