しもた屋之噺(120)

杉山洋一

昨晩サンマリノで恒例のクリスマス・コンサートを終え、澄み渡った晴れた朝の風景のなかミラノに向けて列車が走っています。以下、ここ数日オーケストラとのリハーサル休憩中などに、テアトロ・ヌオーヴォ(新劇場)の控室でサンドウィッチを齧りながら書いた日記を転記してみます。

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ミヨー「屋根の上の牛」のリハーサルを終えたところ。譜面を読むほどに厄介だと頭を抱えていたが、実際曲にするのが本当にむつかしい。2回リハーサルを終えて少しだけ光明が見えてきた。演奏次第で駄作にも傑作にもなるのはどれも同じだろうが、「屋根の上の牛」では特にそれを痛感する。勉強するほどに、3度で重ねられた多調が実に巧妙に、和声機能を崩さず作用させられていることに気づく。

西洋音楽史に於いて3度は、音楽史の足跡そのものだと思う。シューベルトや彼に端を発するマーラーやブルックナーはもちろん、違うアプローチだけれども、例えばプロコフィエフやミヨーにしても、3度調つまり平行調の無限の可能性を見出したとき、作曲家の興奮はいか程だったろう。3度や5度で重ねるずらす自動書記的作業は自分でも大学時代からずっと使っていて、ミヨーが調性を3つを美しく重ねるところなど共感をもって読んだ。

子供の頃レコードでミヨーが自演していた小交響曲やカンタータを繰返し聴いたが、「屋根の上の…」を勉強するために何十年かぶりに聴き返すと、実に美しい音の響きに驚く。他の演奏家が同じ曲を演奏しても、複調とか和音をぶつける印象が際立つところが、彼自身の演奏はまろやかで雑然とした印象はなく、豊潤な和音が自然に立ち昇る。結局自分自身で音がよく聴こえているからだろう。ミヨーが複調を使い始めたのはバッハに複調を見出したからだそうだが、楽譜を勉強してみると、どれだけしっかりした法則と基準をもって使われているかよく分る。特に複調から単一調性に戻る際に、特に彼の耳、勘の良さ、趣味の良さを思う。それに引き換え強弱はどの程度考えて附けたのだろうと最後まで疑問が残る。彼自身指揮をよくしていたから、音量に関しては他の作曲家よりずっと詳しかったはずで大雑把につけたか、当初もっと小規模の弦楽器群を想定していたのかもしれない。恣意的にはなりたくないが、書いてある通りの演奏が作曲者の意図と必ずしも一致しないのもよく知っている。演奏とは結局どこに落としどころを見出すか。

先日レッスンのあとで中華料理屋で餃子をつつきながら、「演奏していると、演奏家にせよ指揮者にせよ、自分の音が聴こえているかどうかが手に取るように分るね」とピアニストのマルコが興奮して話していたのを思い出す。彼曰く、ミケランジェリは自分の音を聞くことに集中し、解釈など捏ね繰りまわすことはなかった。音を研ぎ澄ます耳をもっていたから、音から音へと自然につなげることができた。だから特にミケランジェリのアプローチが好みであろうとなかろうと、聴き手を納得させる音楽の深みが生まれたに違いないという。ミヨーの自演を聴いたときにその言葉が頭に浮び、なるほどこうして自分で鳴らしている音がつながらないのは、自分の耳が足りないからに違いない。

ホテルのベッドでクープランの墓のフォルラーヌを読んでいて、同じように、増三和音、つまり長三和音の第5音上方変位の可能性を発見したとき、作曲家はどれだけ興奮したかと考えるうち眠り込む。上方変位に至るまで、古くは教会旋法の時代から導音やカデンツの感覚の発展とともに、何百年という気の遠くなる時間をかけて変化してきた。ラヴェルはどこにでも行ける増三和音を自在に操りつつ、カデンツになると導音を抜いて旋法化する。近代フランス音楽特有の温故知新。

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ガーシュウィンやらコープランドなどアメリカ音楽をやっていて、来年は1912年生まれのジョン・ケージ生誕100年だと思い出す。フランスには同年ジャン・フランセが生まれていて、少し不思議な気がするのは、今ではアメリカの現代音楽こそアカデミックで、フランスがどちらかと言えば先駆的な印象が強いせいかも知れない。コープランドは1900生まれでガーシュウィンは1898年生まれ。二人ともブルックリンでユダヤ系ロシア移民の家族のもとに生まれ、どちらも後にパリにでかけてナディア・ブーランジェに会っていたりと、時代や境遇に共通点はたくさんある。確かにカリフォルニア生まれのケージを一緒にしてはいけないかもしれない。

当時のアメリカには、ケージやガーシュウィンが師事したヘンリー・カウエルや、孤高のチャールズ・アイヴスという、伝統の保証のない強さを逆手にとった作曲家がいたけれども、パリではロシアからやってきたストラヴィンスキーが春の祭典などを初演してセンセーションを起こしたくらいで、印象派がそれまでの音楽に教会旋法やガムランなどをブランドして新しい分野を開拓したのは、ちょうど戦後ケージショックから、ブーレーズを初めとして、無数のヨーロッパの作曲家たちが、偶然性と伝統をブレンドしようとしたのに似ている。そういう意味で身体のなかに連綿と流れてきているDNAというものは、恐らくきっと存在している。

自分にはケージの存在は世代的に遠い気がしないが、生誕100年と言われると少し当惑する。恐らく今大学生くらいの人たちにとっては、身近に感じろと言うほうがむつかしいに違いない。時間が過ぎてゆくということは、今生きている現在が過去になり客体化され、「文化」とか「時代」とか呼ばれるようになること。自分も文化という無数の石でできたピラミッドの石の一つだという自覚は、イタリアに住み始めてから生まれた。それを息子に伝え、自分が見てきたことや今見せられるものを、できるだけ惜しまず、包み隠さず見せてやらなければいけないと思う。

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自分が子供だった頃より、現在は情報が与えられすぎているのかも知れない。子供のころもっと知りたいという欲求が常にわれわれを突き上げていて、それが動力源だった。そのエネルギーがいつでも調べられる、手に入れられる安堵感に取り替えられることは、どうなのだろう。尤もそれが時代というものなのだろう。自分も現在のテクノロジーに甘んじて生きていて、それなしでは生き長らえられない。今から100年後には、恐らくずっと沢山の情報を、もしかしたらもっと合理的に処理しているかもしれない。案外機械的に脳にインプットできるようになっているかもしれない。
父親が持っていた写植機など息子に説明してもわからないだろうし、写植屋という職業は若いひとたちすら知らないはずだ。この10年20年ほどで、世の中すべての流通体系は悉く変化して便利になったけれども、専門分野のレヴェルは上がってはいないし、後退したものさえたくさんある。ただ全てが簡便になった。こうしてコンピュータで文字を打つようになり、漢字が書けなくなるのと一緒だ。
100年後にはどうなっているのか。

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今でも毎回リハーサルの始まる前、どうして自分はこんなに向いていないことをしているのかと軽い鬱に襲われる。今誰かが廊下でさらっているミヨーのヴァイオリンが止んで、3管編成のオーケストラが調弦を始めたら、同じ気持ちになるに違いない。少なくとも高校くらいまでは対人恐怖症だったのが、良くここまでできるようになったと感心もするが、オーケストラからすれば対人恐怖症の指揮者は困るだろう。ただ指揮するなかで学んだことが沢山あって続けていられる気がする。学んだことは音楽の範疇には留まらない。人間の機敏や人と交わる基本を指揮のなかで学び、これからも学び続ける。

先日フィレンツェで極右の狂信者による無差別殺人で亡くなった2人のセネガル人を悼むデモ行進が、今日イタリア各地で行われた。朝ホテルのテレビをつけると、彼らが殺害されたダルマツィア広場の商工会議所の女性が強い調子でこう語った。
「フィレンツェは古くから外国人を受け入れ共存し、平和に暮らしてきた。外国人排斥するなんてもっての他だ。ダルマツィア広場にはたくさんの外国人の商人がいるけれど、皆とても良い人たちで問題など起こしたこともない。その証拠に、今回犯人が凶行に及んだ際セネガル人たちがまず助けを求めに走ったのは我々商工会議所の人間だ。心から哀悼の意を表し、誤ったナショナリズムの台頭と外国人排斥の気運に強い警鐘を鳴らす」。それを聞いて涙がこぼれる。

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昨夜演奏会が終わって控え室で着替えていると、廊下で声高に話しこむオーケストラの団員たちの楽しそうな談笑が耳に入って、この嬉しそうな声を聞きたくて指揮を引受けているのかとも思う。リミニに下りるタクシーを待ちながら、朝焼けで真っ赤に染まった冷気の中、早朝のミサに白い息をはきながら言葉すくなに教会に入っていく人たちを眺める。ふと甲高い音を立てて目の前の鐘楼の3個の鐘が鳴り出して、まあその通りなのだが、ちょうどグリゼイのような響きになった。

8時ちょうどに坂の下から上ってきたタクシーに乗るとラジオでジャヴァンの知らない曲がかかっていて、タイトルを聞こうと耳を澄ましているとそのまま曲名もいわずガル・コスタの「Festa do Interior」に変わってしまった。ミラノに戻ったら久しぶりにナナ・カイミの「Meu Silencio」でも聴こうと思っていると、
「実はわたしはこう見えても、ペーザロの国立音楽院で打楽器のディプロマをとったんです」。思いがけずそれまで黙っていた運転手がふと話し出した。
「バルトークの2台のピアノと打楽器とかオケスタとかね。オーケストラ実習なんかも本当に楽しかったなあ、10年ちゃんと通いました。あのころは素晴らしい教師ばかりで古きよき時代でした。打楽器や音楽が本当に好きでね。なにしろ父がドラマーでしたから、子供のころから家には音楽が溢れていたのです。ディプロマ課題のティンパニのオケスタ、あれはむつかしかったなあ。リズムがとても複雑で、なんだったかなあ」。
「サグラ(春の祭典)かな」と言葉を接ぐと、それは嬉しそうに「ああそうでした。あれは本当にむつかしかった。5年目の中間試験は兵士の物語でした」と応えてくれた。
「ティンパニは本当に面白い楽器でね。すごくむつかしいけれど。本当に音色がねえ」。彼が懐かしそうにそういったところでリミニの小さな駅舎の前に着いた。
どう答えたものか戸惑っていると、「マエストロ、ありがとうございました」。少しはにかみながら、手を差し出してくれたのが忘れられない。
(12月18日 リミニからミラノにもどる車中にて)