しもた屋之噺(126)

杉山洋一

クラスノヤルスクのホテル6階の窓から外に目をやると、夕陽がエニセイ川を真っ赤に染めています。眼下の350年記念広場では、思い思いにドレスアップした若者たちが互いに記念撮影をしていて、高校生の卒業パーティーでしょうか。広場にはいつも2頭ほど馬が佇んでいて、子供をのせて歩く風景もみられます。大きな噴水の向こう側、川への階段を降りきったところでは、コーヒー牛乳の瓶を、斜めの板に載せただけのゲームが結構賑わっていて、日本のヨーヨー釣りのようなものでしょう。垂れた釣糸の先につけられた輪で瓶の首を引っ掛けて立てるだけの素朴な遊びで「釣れたら4000ルーブル」と破った段ボールの切れ端にマジックで書いてあります。30分ごとに時報の短いチャイムが鳴るのも独特の風情で,子供のころによく聞いた短波ラジオのインターバル・シグナルを思い出します。

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6月X日11:20 ミラノ・Lスタジオ
昨日録ったOさんのシェルシを聴き返す。野性的で直情的な音楽は、時に日本の子守唄のようなひびきで、耳にねっとり残る。
家人が一年間通ったイタリア語クラスの打上げに息子を連れて顔をだす。小学校隣にある社会センター、ここは共産党系の自習施設のようなもの。普段は学校帰りの中学生たちが一緒に宿題などをやっている。この語学教室は、息子の通う小学校で開かれた外国人の母親のための無料のイタリア語教室で、市が主催している。7割がアラブ人、エジプト人女性なのだが、普段彼女たちを街で見かけても、別段明るい印象も持っていなかったのが、ここでは別人のように活き活きとして、喜びがみなぎっていることに心を打たれた。修了証書と記念写真を一人ひとり受け取るとき、アラブの女性たちは舌をふるわせ歓声をあげる。みな、見違えるように嬉しそうだ。

そこのイタリア語を教師フランチェスカのパートナーと話しこみ、「暗やみでお食事を(Cena al buio)」の話しになる。イタリア視覚障害者協会がずいぶん前から開いているイヴェントで、窓をしめきり文字通り真っ暗ななかで、視覚障害者に手伝ってもらいながらフルコースの食事をするだけなのだが、それは素晴らしい体験だという。
自分が部屋のどこにいるのかも勿論わからなければ、何を食べようとしているのかもわからない。何を食べているのかすら、時としてわからない。水やワインをグラスに注ぐことなど、神業のように思えるそうだ。殆どすべて視覚障害者のひとに助けてもらって、彼らにとってごく自然な形で食事をとることで、助ける側と助けられる側が逆になった、新しい世界観がひろがる。
と、教室の外で遊びに興じていたアラブの子供たちが、口々に甲高い声で叫びだした。誰が一番うるさいかを競っているらしい。途中で一人の子供が耳をいためて大声をあげて泣き出した。
何でも息子は校長先生から呼ばれて、学校登録にきた日本人の通訳をしたと大得意だ。校長先生自ら、授業中の小学1年生を呼び出して通訳させようとする発想がイタリアらしい。

6月X日 22:40 自宅にて
「カジキマグロや」亭にでかけ、パリからやってきた作曲のS君とOさんに会う。S君には数年前からあってみたいと思いつつ、機会を逃してしまっていたが、会ってみると控えめでまじめな青年だった。彼の曲を聴くと、洗練された響きの部分よりむしろ、そこに浮上る一見不器用そうな部分こそ独特で魅力的だった。アムランのピアノが好きだという言葉が印象にのこる。Esaの譜割りがなかなか終わらない。
補講にでかけると、隣の教室から聴こえてきたピアノに思わず聞惚れてしまう。ベルガマスク組曲全曲と、感傷的で高貴なワルツ。ペダルは極力抑えてあり、悪趣味なルバートもなく、和声感が美しく、こんな素晴らしいピアニストが学校で教えていたのか誰だろうと隣の教室に入ろうとすると、生徒たちが静まってレコードを聴いているところだった。ベルガマスクの出だしを何度もくりかえしていた以外、止まらず間違えもせずさすがに妙だと思ってはいたのだが。しかし誰の演奏だったのか。ベルガマスク組曲があれほどすばらしいと思ったことはなかった。隠れていたバロックのひびきが浮上る。

6月X日 23:00 自宅にて
夏のフェスティヴァルで演奏するドナトーニのプログラムを書くことになり、途方にくれている。ドナトーニが書いたプログラムノートが殆どないことがわかり止むに止まれず。朝晩息子をサマーキャンプに送り迎えにローモロ駅に通いながらバスのなかでシューベルトの5番を読み返し、ドナトーニの本を捲っている。
家に帰るとクラスノヤルスクで大学2年生のときに書いた拙作を演奏するため慌てて譜読み。自作の譜読みはいつも一番最後、申し訳程度にしかやる気がおきない。楽譜を広げて思い出されるのは、大学2階奥の広い教室で、明るい日差しのなか、せっせと授業中に書いていたこと。当時は横へ音楽を紡ごうとしていたことを思い出す。

6月X日 23:30 三軒茶屋自宅にて
翌日日本経由でクラスノヤルスクへ出掛けるという段になって、プログラムにドヴォルザークのセレナーデを足してくれと言われる。とにかく楽譜を荷物に放り込んで家族と一緒に日本に発ち、機内で息子を寝かせた上で、毛布をテント状にして読書灯を遮りつつ譜読み。これほど混乱したスコアなのは原本のせいか、校訂者のせいか。日本海に差し掛かるころ、ようやく最後まで粗読みを終えて少しだけ眠った。
セレナーデの流れが納得できず和声分析を一からやり直してみる。音がわかっていても、コンテキストが繋がらなければ音楽は流れない。単純な和声と高を括っていても、実は全く分っていない。人体を素描するとき、ただ表面をなぞるのと、骨格や筋肉の厚さを理解し表面を描く違いとはこんな感じなのかもしれない。

6月X日 23:15 クラスノヤルスクホテル
モスクワ経由でクラスノヤルスクに着く。時差5時間のモスクワに10時間弱かけて飛び、5時間近く日本方面に戻ってクラスノヤルスクに着くと、日本との時差は1時間になっていて、狐につままれた気分だ。ここはヨーロッパではなく中央アジアだという至極当たり前の第一印象。英語はあまり通じないが、みなとても親切で温かい。熱く滾るような演奏は想像通りだが、思いがけず繊細な部分にもふれて感激する。招待してくれたオーケストラのディレクターは、クラスノヤルスクからは、モスクワ、パリ、ベルリン、ミラノ、東京、どこに行っても今や距離感は一緒だと力説しているが、そんなものなのだろうか。ドヴォルザークは、不可解なリタルダンドなどは無視して、フレーズを大きくつくることに腐心。展示部と再現部で楽譜に矛盾はなはだ多いためだ。

6月X日 00:20 クラスノヤルスクホテル
今日の練習会場はスリコフ記念美術館。スリコフの聖母と聖ガブリエルの絵には目を奪われる。ワシーリー・スリコフ(1848-1916)はクラスノヤルスク生まれの、ロシアの代表する画家だが、彼の受胎告知は官能的としか形容できない。聖天使ガブリエレは、屈強な男性像で、対する聖母は戸惑いを隠せないあどけない少女だ。イタリアで見る構図とは正反対でこちらも当惑せずにはいられない。マリアの位置づけがロシア正教でまったく違うのだろう。ガブリエレは白色の大きな光を放ち、内に秘めた情熱が放射するようだ。性向も世代も違うが、スクリャービン(1872-1915)の悩ましげな響きが立ち昇ってくる。ここでは魂が素材に宿されているのがわかる。裡へと内向する情熱に圧倒される。ヨーロッパの、少なくともイタリア絵画とは、根本的に一線を画している。ナボコフのロリータが頭を過ぎった。

6月X日 23:50 クラスノヤルスクホテル 
ガイドの女性と通訳の妙齢と連れ立って、街を歩く。ソ連時代のアパートは寂しい感じ。元共産圏を訪ねたのは初めてで驚くことは多い。街を走るバスは、一番古いものがロシア製、それから韓国製、新しいものはドイツ製の払い下げ。白と水色の教会の前で、ガイドの女性は、ここが中心の教会です、とだけいって通り過ぎようとしたが、正教会をどうしても訪れたくて中に入れてもらう。思いもかけないほど低い天井で、全体的に暗くて神秘的だ。鈍い金色に輝くイコンが所狭しと並んでいて、あちらこちらのロウソクの光が美しい。天井が高く広々として、さんさんと光が差しこむ、ローマ・カトリックのイメージとはかけ離れている。女性は揃ってみな頭にスカーフを巻いている。信者たちは熱心に祈っていて、ふと頭をあげてため息をもらしつつイコンを見つめる眼差しの情熱には、当惑すらおぼえた。
ガイドの女性は、ここに日本人抑留地だったことは一切触れない。レーニンがクラスノヤルスクに流刑されたため、レーニンに纏わる史跡は多い。

6月X日16:50 クラスノヤルスク・フィルハーモニーホール
フィルハーモニーホールの練習室で、ソプラノのEを待っている。練習室には巨大なバラライカが2本立てかけてあり、小型のバラライカケースには古くなった譜面台が入っている。汗が噴き出すほど暑い。窓のすぐそばに見えるエニセイ川のほとりに旧レーニン博物館があり、現在は美術館だ。そのエニセイ川を眺めながら、もうすぐ本格的再稼動になる大飯原発についてぼんやり思う。ここに来る前にクラスノヤルスクという街の名前は、地図には載らなかった秘密都市クラスノヤルスク26の軍用核施設と、橋本=エリツィンのクラスノヤルスク会談で耳にしたくらいだった。93年の核燃料再処理施設爆発事故、いわゆるトムスク事故があったのは、ここから600キロ近く離れた、クラスノヤルスク州に隣接するトムスク州トムスク7だった。
いつも離れず着いている通訳の妙齢に言わせれば、レーニンもスターリンもみな嫌いなのに、この街がレーニンにあやかろうとするのは奇妙だという。ゴルバチョフもエリツィンも彼女ら若い世代にとって全く無関係の存在のようだ。そんな時代は終わったが、ホテルから一人で出掛けてはいけないと繰り返し念を押される。彼女のボーイフレンドも演奏会に来ると聞いたので紹介してねと言うと、「それは駄目です。わたしは常に杉山さんと一緒にいます。これはわたしの仕事です」とすげなく断られる。

日本人抑留者記念墓地にでかけて手を合わせたいが、墓地は駅のあちら側にある。フェスティヴァルの最大限の好意は身にしみていて記念墓地訪問は少し切出しづらいが、あちらは案外気にもとめないかもしれない。どこかで時間を見つけて出掛けられれば良いのだが、今日は練習のあと演奏会に4つも出席しなければならないそうだし、明日の夜はホテル着は夜半過ぎ2時と聞き冗談かと思ったほど。
街並みを眺めていると、もしかすると当時日本人が作ったものも混じっているのかも知れないと思う。韓国や中国の人の裡にくすぶり続ける蟠りの片鱗を、少しだけ垣間見た気がした。

(6月29日シベリア・クラスノヤルスクにて)