しもた屋之噺(135)

杉山洋一

復活祭休暇で人通りがまばらになった週末、数日来間断なくいささか強い地雨がおさまり、水平線の奥に夕焼けの赤みがさしこんでいます。もう夏時間に戻ろうというのに、片付けたストーブを食卓の傍らにひっぱりだしてきたところで、日本語が達者になって帰って来た息子は、盛んに「スーホの白い馬」の筋書きを説明してくれます。偶然胡弓の録音を聴いていると、走ってきて「これは馬頭琴なの」と尋ねてきたり、担任の先生が馬頭琴とホーミーの録音を教室で聴かせて下さっていたのにも驚きましたが、何より、彼の級友が既にホーミーの実演に接していたのには仰天しました。こちらなど音楽を生業にしていても、実際馬頭琴とホーミーの演奏に接することができたのは、漸く昨年のシベリアの音楽祭が最初の機会でしたから。

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3月某日
ブルーノ・カニーノより初めてメールがとどく。電話番号が書きつけてあり、電子メールが得意ではないのだろう。娘のセレーナからもメールが届く。父は、いつでも楽譜を読んでいるんだけれど、そうしていないと「人生に飽きてしまうのよ」。早朝パンを買いに出かける。道路の犬の糞も仕方がないと諦め、遠くの信号を見つめながら歩いてみると、思いがけない風景の違いにおどろく。
法王の選出など全く興味がなかったが、BBCのラジオをつけて夕食の準備をしていると、「白煙が焚かれました」と興奮したアナウンスが入り、思わずイタリア国営放送のテレビをつけた。ヨハネ・パウロ2世が逝去したとき、街中の教会から、低く長い弔鐘が鳴り続いたのも、ほぼ同じ時期だった。Fがスイスから持ち帰ったチョコレートの兎を解体しながら、身体に染みこむ鐘の音に耳をかたむけた。鐘ひとつで、これだけ表情を顕せることに、新鮮なおどろきをおぼえた。白煙がたちのぼる煙突の奥で賑々しく打ち鳴らされるバチカンの鐘は、確かによろこびに溢れているように聴こえた。「みなさん、こんばんは」に始まる新法王の言葉に、生まれて初めて鳥肌がたつような感激をおぼえたのは、なぜだろう。週末、レッスンに件のパラグアイ人がやってきたので、「芽出たいじゃないか。おまけに君と同じイエズス会だし出身だし」と謂うと、「これで益々アルゼンチンの株が上がる一方で」と肩をすくませた。午後のレッスンまで待ちくたびれたのか、気がつくと彼は家に帰ってしまっていた。

3月某日
いつも買いに行く近所のアラブ人肉屋で、帰りしな、アラビア語について尋ねた。「ここには各国のアラブ人が来るようだけれど、国によってどのアラビア語は殆ど同じなの」。素人の素朴な質問だが、いつもは寡黙なチュニジア人店主は途端に饒舌になった。
「植民地化が始まる前は、みんな一つのアラビア語を話していたんだ。今は滅茶苦茶になって互いにいがみ合うようになってしまった。西サハラなんて、同じアラブ人通しが殺めあっている。植民地支配するというのなら、インフラを整備し、近代化してそのまま続けていれば良かったのさ。人道主義がどうたらとかいい加減な大義名分をつけて、今度は勝手に独立させる。その結果、どこもかしこも大混乱を来しているだろう。コンゴはその象徴さ。独立させたからといって、裏からオイシイところを全て吸い上げるのは、旧宗主国なんだ。表面上は人道的にふるまっているけどね。例えばイタリアにやってきた俺が、チュニジアの悪口をここで言ったらどうなるか知っているかい。イタリア国内では、人権やら人道が何たらと法律が厳しいから、何も手出しできないのでそのまま強制送還さ。そうして、かの地に足を踏み入れた途端、人権もへったくれもなく手足を切落とされてしまうんだぜ」。
傍らでは、黙々と巨大な包丁で枝肉を骨から叩き割っていた。俎板にあたる骨の響きに思わず背筋がさむくなる。ちなみに、ここの肉は実に美味である。

3月某日
リコルディから連絡があり、グリゼイの子どものオーケストラのための3作品の楽譜が届く。これを果たしてラクイラの学生たちと演奏できるだろうか。演奏を予め準備したものを演奏会場に届ける演奏スタイルと違うかたちで彼らと触れ合いたい。3.11を前にして、改めてそう思う。ラクイラ地震の頂点は、2009年4月6日未明のこと。毎年4月6日午前3時32分、ラクイラ中心部の広場で慰霊式が営まれる。亡くなった全員の名前が若者らによって読み上げられ、提灯を手にした葬送行列が倒壊した夜半の街をめぐる。
「難民を助ける会」から311を前にして、秋に演奏した被災者を助けるチャリティー演奏会の録音が届いた。音楽をやるとき、いつも自分の存在は抜け殻のようであって欲しいと願っている。自分の存在が、演奏者が放射するエネルギーの抵抗になりたくない。少しでもひずみのない伝導率の高い音楽がつくりあげられるのなら、それ以上のことはない。

3月某日
ガリバルディ駅始発の朝1番の特急に乗り込んだのは、漸く出発時刻の1分前。そのままトリノへ出掛ける。エンツォは、書き上げたばかり自著の前書きを全部読み上げてくれる。シェーンベルクとストラヴィンスキーとの出会いが主題。上流階級出身の早熟で数多くの名声に恵まれたストラヴィンスキーと、靴屋の息子に生まれ生活に追われてずっと教職につき、晦渋な作品は大衆的な名声から程遠かったシェーンベルクは、互いにハリウッドの徒歩で往来可能な距離に住んでいたが、結局共通の友人の死に際して、霊安室で顔を合わせたことしかなかった。1910年代にベルリンで彼らが言葉を交わしてから長い月日が流れていた。エンツォは、近くて遠い作曲家二人の作曲家の果たし得なかった交流を、アドルノの色眼鏡なしで伝えたいという。

その午後、連れられるがまま出かけた先は、現ロエロ候のモンティチェルロ・ディ・アルバ城で、ロエロ候アイモーネが、泥だらけの仕事着のまま出迎えてくれる。さほど年齢も違わない若くハツラツとした領主だ。城には戦時中使われた秘密の通路などもあり、大広間にはロエロ一族の肖像画がひしめく。図書室に飾られていた旧いフランスの子供向け絵本が印象に残る。大判でハードカヴァー。挿絵は全て丁寧に書き込まれた水彩画で、実にうつくしい。ジャンヌ・ダルク物語などに雑じって、「フランスの歴史」があった。ケルト人やフランク王国などの古代から始まって、一番新しい史実はナポレオンの絶頂期で終わっている。
こうした貴族に雇われて、作曲家たちが生活していた時代を思う。朝から晩まで城に住み込みで毎日暮らし、消費するため朝から晩まで音楽を用意していたなら、ルーティンに陥るほうが当然にも見える。外界と遮断された幽閉生活というのも、いかがなものか。

3月某日
七重さんに頼まれた箏二重奏の準備。悠治さんからテトラコルドの説明を受け、学校の休み時間にはシャイエなども読んでみる。大体、最初から最終的に欲しい音は決まっていて、そのまま書けば良いところを、そうすることに、殆ど罪悪感に近いものが沸いてきて、わざわざそうなるよう思索を巡らせる。そして、最終的に現われる音は、最初の意図にほぼ沿ったものとなる。他の誰もそうなのか知らないが、せめてもプロセスが反対であればよほど生産的でスリリングだろう。どういうものが出来るか分からないが、一定の決まりごとを見出すと思いもかけない見事な結果が浮き上がる、というもの。何という手間。これが「よりどころ」なのか。

既存の伝統を違った視点で捉え透かしてみる。悠治さんからのアドヴァイスは含蓄が深い。伝統音楽の文字通りの初心者として、「六段」をテキストの一つの軸として選んだ。
真偽のほどは専門家に任せるとして、「六段」と「クレド」や「ディファレンシアス」との関連性も、別の指標か軸になりそうだと気づき、そこでしばらく考えが澱んでいた。
大好きな琉球箏の「六段菅攪」の響きを思い出していて、悠治さんから教わった「テトラコルド」の移旋、モジュールをその都度入れ替えてゆく「メタボール」が、別の指標となりそうだとわかった。楽器が音を限定するのなら、音が楽器を亘ってゆけばよい。「クレド」のネウマ譜にも大雑把な情報しか載っていないわけで、それらを組合わせ、別の風景が眺められるに違いない。
こう書くと、そこに至る随分操作は過分に「浪漫」を滴らせているものの、出来上がる音像は最初から見えているので、最後に拍子抜けするのは当の本人なわけである。それを「浪漫」と書けばそれらしい気もするが。

3月某日
生徒のラファエッレから畏まったメールがとどいた。彼はナポリの南、サレルノ出身の作曲家で、トロンボーン吹き。強い南訛りの上に敬称をLeiではなくVoiで話す。南イタリアでは旧い敬称Voiを今でも使うとはきいていたが、若者までそうだとは思わなかった。基本的に生徒には親称で話させているが、南部出身者やラテンアメリカの留学生は一概に恭しい。「杉山さんお元気ですか」を「杉山様ご機嫌いかがでございますか」と呼ばれるようでむず痒いが、南では場合によっては実親にすらこの敬称で話すそうだから、仕方ないかもしれない。
彼が小説を書いていることを初めて聞いた時は耳を疑った。普通の恋愛小説などを書いているらしく、文筆業の繁忙期には音楽活動を一時中断するという。

「Voi」というと、エットレ・スコラの「特別な一日」で、ソフィア・ローレンがマストロヤンニに「貴方と来たら、今朝からLei、Lei。Leiが禁止されているのはご存知のはず。本来ならVoiで話さなければならないのに」と激昂する場面がある。有名なラブシーンだからよく覚えているが、高校の頃初めてこの映画を見たとき、このニュアンスは全く分からなかった。この映画でマストロヤンニが作る目玉焼きが美味しそうだった。
マストロヤンニとソフィア・ローレンと言うと、「昨日・今日・明日」で子供を作り続けて公営住宅に居座るナポリの肝っ玉母さんの話を思い出す。現在ミラノでは家賃を踏み倒したアラブ人の家庭が、同じように子供を作り続けて市営住宅に居座るという。ソーシャルワーカーが家族を訪ねて退去を迫ると、子供をベランダから吊り下げて脅迫するそうだが、眉唾ものだろう。

一ヶ月東京の小学校で過ごした息子が日本から戻ってきた。敬称といえば、日本は今では学校でも教師が生徒を「さん」付けで呼ぶ。「ちゃん」と「君」の使用も、男女差別助長につながるため「さん」で統一されたとか。彼がクラスで級友の作文を読んだとき、名前に「さん」付けをしなかったのを、友達に咎められたそうだが、折に触れ現代日本語の実地アップデートしておかなければ親でも教えられない。生きた言葉を実感する瞬間でもある。

(3月31日ミラノにて)