しもた屋之噺(169)

杉山洋一

毎年1月終わり、イタリア各地でアウシュヴィッツ解放記念日の追悼行事が行われますが、ミラノ中央駅の右壁を500メートルほど進み、ホームの端が丁度終って、無数のポイントが絡み合う下あたり、旧貨物駅入口のあるフェルランテ・アポルティ通り3番地は、ミラノの式典の中心です。

1943年から44年にかけ、コモ、ヴァレーゼ、ミラノのサン・ヴィットーレの監獄に収容された北イタリアのユダヤ人はムッソリーニに反発する政治囚らとともに、一定数集まったところで、人目につかない未明のうちに、この貨物駅21番ホームから家畜用の有蓋貨車に載せられ、イタリア各地の強制収容所や、アウシュヴィッツなどへ運ばれてゆきました。

アウシュヴィッツから生還したイタリアのユダヤ人はわずか20数名で、ミラノを発ち収容所のあるポーランドのオシフェンチムまでは7日間かかりました。極寒の中家畜用の貨車で人間が運ばれる姿をじっと見つめる農民たちは、自分たちを眺めながら何を思っているのだろうと生還者の一人は語っています。こうした場所が戦時中のまま残っているのは、ヨーロッパでもとても貴重なのだそうです。この時期イタリア各地の高校生や大学生の多くが、自らがユダヤ人であるかどうかに関わらず、アウシュヴィッツ行きの特別列車Treno di Memoria (記憶の列車)というツアーに参加するといいます。道中語り部らの話をきき、収容所を訪問することで、戦時中の悲劇を追体験するのです。

ここまでは納得できますが、20数年イタリアに暮らし、常に薄く感じられるユダヤ人への羨望と差別をどう理解すれば良いか、1月末が巡ってくるたび消化不良の思いが頭をもたげるのです。

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 1月某日 ミラノ自宅
ミラノの大気汚染が酷く、新年0時前にぺタルドという爆竹を使うと罰金というお触れ。10歳になる息子は、爆竹という日本語は知らないので、「かんしゃく玉」と呼ぶ。赤塚不二夫の古い漫画で覚えたそうだ。尤も、ぺタルドは導火線がついていて、正確には「かんしゃく玉」ではない。

 1月某日 ミラノ自宅
2年前に書いた「悲しみにくれる女のように」を、低音デュオのため、歌詞再構成する。バンショワの歌曲、イスラエル国歌「ハティクヴァ(希望)」、パレスチナの旧国歌「マウティ二―(わが祖国)」の歌詞を、作曲当初の下書きに沿い、それぞれあるべき場所へ戻してゆく。旋律に言葉がつくと、意味がかえってくる。改めて、自分はなぜ言葉を剥ごうとしたのか考える。

元来、サグバッドとルネッサンス・フルートのための作品であったから、言葉が介在しないのは当然ではあったが、何か無意識に介在していた気がする。現在のラテン文字アルファベットも、フィニキア文字として誕生した当初は、絵文字に近かった。ヒエログリフや漢字のように、表意文字として生まれ、語彙の増大に応じて表音文字に変化するのは、自然な流れだという。

西洋音楽の音符はグラフで、数字譜も邦楽のたて譜も、音響現象を再現する表に近く、謂わば初めから純粋に表音文字を目指した記号だったが、音符に言葉がついた時点で、当初意味をもたなかった記号が、表意記号に変化する。ラテン文字が26の表音文字を置換えた音響組合せに過ぎず、音となった瞬間そこに意味が立昇るというのなら、文字を簡素な数字に読み替えても、本質的に変化を来たさないのではないか。

そこから「アフリカからの最後のインタビュー」を書き、見えない、聞こえない言葉の発する意味から音楽を成立させようとした。音響現象を再現する表音音符を放棄し、演奏される音が無から発生させる記号の意味を、傍観者として観察するに徹した。それだけ強い言葉であったし、そこに自分が介入するのは無意味で、寧ろ無責任だと思った。

それに比べ「悲しみにくれる」は、自らの恣意的な感情に突き動かされて書いた。ユダヤ人もパレスチナ人も、言葉が通さなければ案外見えてくるものはないか。余りに楽観的な発想で彼らにうまく説明出来る自信もないが、正直に書かなければいけないと思ったし、演奏されるたびにそこには何らかの相関的な意味が立ち昇るように思う。そのまっさらにされた音の上に言葉が戻ってきた。音に意味と歴史と時間が宿り、人の声がそれを生々しいほどに顕わにする。自分が無意識に封をしかけていたものに気づく。恐らく全く違った意味が姿を顕すに違いないが、それをじっと見守りたい。

 1月某日 ミラノ自宅
息子と二人で朝食を摂りながら、NHKラジオニュースで北朝鮮の地下核実験を知る。原子爆弾の話になり、息子はインターネットで探してきた「きのこ雲の下で何が起きていたか」を食入るように見る。水素爆弾はこの一千倍の威力と聞いて仰天している。夜怖くて一人で寝られない。

ブーレーズ永眠。中央駅前老舗の和食レストランで、フィレンツェから着いたチェロのFと昼食。「我先にブーレーズと写りこんだスナップ写真を載せるか、挑戦的にブーレーズを貶して、辺り構わず論戦を交わすか」。フェイスブックがなくても、人生失うものは余りないという。

 1月某日 ミラノ自宅
自分の思う音を鳴らすのと、書いてある音を鳴らすのは、傍目には同じようだが、実際は全く違う作業のはずだ。近代音楽の場合、隠れている機能和声がうっすら見えてくるだけでも、目に映る風景は全く違うものとなる。

近代和声が機能和声領域の拡張を主眼として発展してきたのであれば、単純化して機能和声の柱と梁の姿に戻すのは間違っているかもしれないし、機能感や調性感を見出すのは矛盾かも知れない。分からなければ演奏できないのは非生産的だが、読めば読むほど無知に気付くのだから仕方がない。単なるソルフェージュ能力の不足だと訝しく、愉快に思う。

 1月某日 ミラノ自宅
大石くんの「禁じられた煙」初演にあたり、岡村さんの質問に答える。

「Q: 音楽と社会性について思っていらっしゃることを簡単に教えてください。

A: 僕にとって音楽をかく行為は、日記のようなものです。自分にとって忘れられない出来事、忘れられない感情を、書き残しておきたいのです。情報が人間の処理能力を超えて氾濫するようになって、白黒明確なわかりやすい意見が望まれています。しかし乍ら、本来人間の感情はそこまで単純化できるものでしょうか。

自分にとって音を書くという行為は、かかる不明瞭な領域にある自分の姿を、できるだけ恣意的にならぬよう心掛けつつ、音符に置き換える作業です。それが演奏家という他者によって読取られて音になったとき、改めて自分を見つめ直します。ですから、当初気がつかなかった一面を、思いがけず見出すこともあります。

ですから、作曲は自分と一体ではありません。作曲という作業に、自らを顧みる機会を託しているのです。同じように自分の曲を通し、演奏する人や耳にした人が、何かを考えたり感じる切欠になれたら、とても嬉しく思います。他者への共感を求めているのではなく、それぞれが、それぞれの思いを、音という媒体を通して感じられた素晴らしいと思います。

日本でもヨーロッパでも、難民や移民がたびたび話題に上ります。自分も21年もミラノに暮らす移民ですから、10歳の息子は移民の息子で、妻は移民の妻、ということになります。日本に住み続けていたら、作品に社会を反映させようとは思わなかったかもしれません」。

「自分は移民」と書いて、自分自身に衝撃を受ける。全く認識がなかった。言葉にしてみて初めて、気づくこともある。
(ミラノ 1月29日)