しもた屋の噺(173)

杉山洋一

ここ数日、日中、土砂降りと快晴が何度となく入れ替る、それは目まぐるしい日々が続いていて、自転車で学校へ向かうときなど、雨で目の前が見えなくなるほどです。
下水道の水はけが悪いため、豪雨に襲われると道路はすぐ10センチ、15センチの深さの水溜だらけになりますが、ちょっと晴れ間がさすだけで、驚くほど早く道路は乾いて、それまでの光景が嘘のように感じられます。

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 5月某日
コローニョ・モンツェーゼの古びた立飲み酒屋で、アルフォンソと話す。「君は随分ドイツ語を勉強していたけれど、ドイツに留学しようとしていたの」。「いや、留学など一度も考えたことはないよ。ただドイツ語の本が読みたかっただけ。世界的ピアニストなんて、柄でもない。自分は地方の田舎で生れ育って、性格もとても地方向きだろう。田舎のピアニストが性に合っているのさ」。
夜半の嵐が去った早朝、パンを購いに家を出ると、玄関前のベンチにずぶ濡れの猫が置いてある。ひょろひょろの小さい身体は既に冷たく、動かない。隣人に話して、このアパートの誰かの猫かどうか、心当たりに連絡を取る。買い物を終えて帰ると、既に猫の姿はなく、猫の陰に沿って濡れているベンチが、猫の死を静かに主張していた。

 5月某日
李白を読む。文字から溢れる色と風景、細やかな人物描写。
息子は「子供と魔法」のリハーサル。数字が子供をいじめる場面の他に、蛙の子供役で舞台を2回走るそうだ。ベルグワルドまで自転車で出かけると、細い用水路から何万という蛙の合唱が溢れてきた。
自転車を漕ぎながら、吉原さんのための新曲を考えている。ずっと頭にあるのは、木板を叩くような音。そして、「柷」と「敔」の音。儒教音楽の影響を受けるのなら、本来は李白の描写とは相容れない。だから、音ばかりが頭をどんどん過ってゆくが、それを書き留めるのは気が引ける。単に音を並べることに、裏切りのような気持。単純な音であるほど、より切実なモチベーションがなければ、嘘をつくような気がしてしまう。音はそれを成立させる文脈を必要としている。

 5月某日
自転車でストラディヴァリウスへ出かける。今月末に出るガスリーニCDの確認作業。快晴の朝8時過ぎ、ミラノ中央を抜け、ロレートからパドヴァ通りを真っ直ぐ北へ向かう。この辺りも所謂外国人街で治安も良くないが、気持ちの良い朝、そんな風情は微塵も感じられない。
「Bicicletta di Cortesia」と書かれた自転車にのんびり乗るアフリカ人が前を走っていて、どこかで見掛けたことあるのを思い出した。数か月前、パドヴァ通裏のアパートのガレージで友人が小さなインスタレーションを開いたとき、彼はその入口に自転車を留めに来た。「Bicicletta di Cortesia」は何だろうと不思議に思って尋ねようとしたが、急いでいて結局それきりになった。
今朝そのアフリカ人と信号で隣り合って、「いかすなあその自転車」と笑顔で話しかけられた時も、「有難う!」としか応えられなかったのは、ストラディヴァリウスがモンツァの手前と遠く、すっかり遅れそうだったから。人に尋ねると、「Bicicletta
di Cortesia」は、「自転車出張直し屋」ということらしい。

 5月某日
拙宅の隣に、去年の暮女の赤ちゃんが生まれた。その赤ん坊の泣き声の合間に、母親があやすわらべ歌が聴こえてくる。いつも同じわらべ歌。急に上行する最後のフレーズに聞き覚えがある。よく耳を澄ますと、「ドレ夫人」だった。「ローマの松」冒頭に使われるあの旋律を、今でも子供をあやすのに歌っているのは初めて聴いたので、偉く感激する。本来は「かごめかごめ」のように、子供たちが輪になって鬼を輪の中に入れて踊りながら歌うものだった。

 5月某日
タクシーの運転手ですら番地が分からず通り過ぎた程の、ただ木々が鬱蒼と茂るばかりの庭園。パレストロの停留所からほど近い「芸術の庭」と呼ばれるこの庭に、ファツィオーリのピアノをそのまま運び込み、カニーノさんとリッチャルダがクルタークのバッハ編曲をリハーサルしている。鳥の声が心地よい。背後から聴こえるパレストロ通りを抜ける車の音が、ふっと途絶えるとき、息を飲むほど美しい無音のなかに、瑞々しいピアノの音が浮き上がる。
それからカニーノさんは、リゲティとバルトークを弾いた。跳ねる音はエネルギーが迸り、小さな音は、慈しみながらそっと弾く。それらは、滑舌よく、抑揚のはっきりした伊語のセンテンスのように響く。
地面に赤い毛布を敷くと、環境に優しい即席観客席になった。そこに座ると、土の匂いと相まって地面からピアノの振動が伝わってくる。聴き手も、寝転んだり胡坐をかいたり、人それぞれ。
息子が加わったクルターク編6手コラール。最後のリタルダンドで3人が顔を見合わせながら弾く。ぴったりと合った瞬間、3人の顔から微笑みがこぼれた。

 5月某日
スカラで「子供と魔法」を観て、夜半家に戻ると、母が古いりんごを砂糖で煮てコンポートを作ってある。熱いコンポートにアイスクリームをかけ溶かしながら食べる。息子は、「数字の場面」では、上から降りてくるはずの3枚の幕が1枚しか降りず立ち位置が分からなくなったのと、子蛙の後を追って出てくる段どりの親蛙が先にでて歌い始めてしまい、子蛙の出番が一つ減ってしまいご機嫌斜め。
今年は日本イタリア交流150周年。国立音楽院のジョヴァンナが、ガリヴァルディ駅裏の「ヴェルディ劇場」で、学生を集めて武満作品を中心に演奏会をするので、そこで話をしてほしいと言われる。プログラムには、武満作品のほか、ストラヴィンスキーの「3つの日本の抒情詩」とかケージの「6つのメロディー」など。
日本とイタリアの交流について話そうと調べてみて、江戸後期、日本が蚕糸を大量にイタリアに輸出していたことを知る。
子供の頃、家に蚕がいた記憶があるが、あれは何故だったのか。家の裏に桑の葉を取りに行ったのも覚えている。
母がミラノを訪れているので、あれはどこから来たのか尋ねたが、バリバリと桑の葉を食べる音が大きかったのと、糸を取るのが難しかったことしか覚えていなかった。
そのほか、日本人がイタリア人に比べて観念的に物事を捉える傾向があるのは、表意文字で思考するからか、とも話す。「山」という言葉を思うとき、我々は無意識に山の形そのものを思い浮かべているけれど、イタリア人が「山=monte」のMの字に、山の形を思い浮かべることはないだろう。
日本人が音楽に感情を込めると、自らの内面に気持ちが向かうけれど、イタリア人は、音符そのものに感情を込めるように見える。感情の込める場所そのものが、我々はずいぶん違う。
それなら韓国やベトナムのように、中世や近代まで表意文字を使っていて、それから表音文字に改めた場合とか、国民性そのものも変化するのか。
言語学では、どの文字も当初は表意文字から始まり、改良し表音文字化してゆくプロセスが普通、と読んだ気がする。あまり難しいことは考えないことにする。

 5月某日
学年末の週末とあって、向いの中学校では、年度末恒例の学校主催パーティー。漸く一日家で落ち着いて仕事が出来ると思いきや、朝からロック・バンドの演奏が続く。少々耳の遠い母に話しかける時は、バンドの音が止んだ隙を狙う。母曰く、「その昔、石井真木さんのお宅の隣が鎮守様で、作曲中お祭りのタイコが鳴りっぱなしだと、もう気が違いそうだとか言ってらしたわね」。
音の洪水の中で、母がもう一言。「なんだか天理教の太鼓みたい」。

 5月某日
米大統領広島訪問のニュースを、イタリアのラジオで聞く。
ミラノ国立音楽院の作曲科作曲賞コンクール審査。各楽器に現代特殊奏法を効果的に混ぜる技術は最早必須なのかも知れないが、こうなると何も特殊奏法を使わない方が、新鮮ではないか。大学生の頃、初めてドナトーニの夏期講習を受けにイタリアに来た時を思い出す。誰もが5連音符6連音符で隅々まで整頓された譜面を書くのが、新鮮でもあり不思議だった。右も左も分からなかったので、こう書かなければいけないのか、とその時は漠然と受け容れたのを思い出す。
審査では同期のハビエルも一緒。彼の娘も劇場の児童合唱で、送迎の時間に鉢合わせになる。肩を並べて国立音楽院で楽譜を眺めるのは、何十年ぶりか。

 5月某日
スカラから通りを一本抜けた、ガレリアの一角に、「スカラ座天井桟敷会」というのがあって、要は「玄人集団」を暗に標榜している。
「天井桟敷会」でどういう訳か、ガスリーニの作品のマラソン演奏会が二日続けて行われたので、リリースされたばかりのCDのプレゼンテーションのため、アルフォンソと一緒に招かれて、録音のエピソードなどについて話す。
我々の後に舞台に上がったジャズ歌手フランチェスカ・オリヴェーリは、長年ガスリーニと演奏していたイタリア最高のジャズ歌手の一人。ただ聞きほれるばかりの圧倒的な存在感と、ジャズでも現代音楽でもない、ガスリーニ音楽の素晴らしさ。こんな風に音楽と一生付き合えたら、どれだけ幸せだったろうか。

5月31日ミラノにて