しもた屋之噺(80)

杉山洋一

茹だるような暑さは峠を越え、夜はときには肌寒く感じるほどです。気がつけば、夜はリンリンと鈴虫のような虫声が聞こえます。夏の休暇でミラノは大分閑散としていて、少しだけ空気もきれいになったかも知れません。

あと二週間足らずで日本に戻るのですが、昨日ジェルヴァゾーニの新曲の楽譜を昨日漸くリコルディまで受取りにゆき、自分で製本しなおしました。長年住み慣れたミラノ・ガレリア脇のベルシェ通りのビルから、5月に地下鉄のマチャキーニ駅近くの巨大な近未来都市群よろしきビルに移転したのには、時代の流れを痛感させられました。素敵なビルだし、事務所にでかける度に、時間を持て余しフリーセルを興じている受付嬢にパスポートを渡さなければいけない厄介以外は、居心地もわるくありません。リコルディ社そのものも正確な意味ではもう大分前から存在していません。現在はデュラン社などと同じユニバーサル出版社の傘下に入り、リコルディの社員たちの電子メールアドレスが以前のBMGからユニバーサル出版に変わったのは、今から1年ほど前のことです。
「みんな戦々兢々としている。いつ肩を叩かれるか分からないから」。
周りではこんな風に声を潜めて話していました。

7月初旬に開催された学生たちの終了演奏会を最後に、恩師のポマリコはうちの学校から解雇されました。ミラノ市の助成金が大幅に削減されたからというのが表向きの理由で、かくいう自分も来年度は指揮科から離れ、週一回のイヤートレーニングのみ授業を続けることになります。外人でせいぜい10年足らずの付き合いの新参者の自分ならまだしも、30年、下手すれば40年ちかく学校と関わってきたポマリコを、就任して2年目という外部から宛がわれた新しい学長が、文字通りさらりと解雇してしまう現実が、今のイタリアにはあります。さらりと解雇されたとは言え、学生たちは学長どころか市長にまで抗議をし、メディアにも働き掛けました。暫く前までこの問題に関わる電子メールが相当数送られてきていて、実際はまるでさらりとはしていませんでしたし、イタリア人の血の気の濃さを実感させられる良い機会でした。

昨日リコルディに出かける前、9月末からヴェローナで練習が始まる新作オペラの楽譜を受取るため、サンバービラ駅の喫茶店で作曲者のメルキオーレと話していました。彼はうちの学校の現代音楽セクションの責任者を、ポマリコと同じくらい長きに亘って務めてきましたが、先日もう耐えられないと辞表を提出したと言うではありませんか。イタリアの現代音楽のメッカとして、ファーニホウやデ・パブロ、ドナトーニ、グリゼイやデュフールなど、錚々たる作曲家が何度も作曲のコースを開いていたのは、もう10年も20年も前のことですが、全てメルキオーレの功績です。彼が昨日まず言った言葉は、以前どこかで聴いた台詞にそっくりでした。
「同僚はみな、戦々兢々としている。ただそれだけさ。自分も何時辞めされられるか分からないからな」。

ポマリコの何十年来の親しい友人でもある同僚に学校の廊下で会い、彼の話を知っているかと話しかけると、「ああ知っているよ。何でも予算が削られたからだって? ずいぶん沢山首を切られたらしいな。お前は来年どうなるのかね。まあまた学校で会えるといいねえ」、思いがけなく明るい声で返事がかえってきました。

13年もミラノに住みつつ、変わらずこの社会から遊離して暮らしているせいか、彼らと自分の視点のピントがかみ合うことはごく稀で、例えば学校で同僚たちが新学長を揶揄しているのを度々耳にしても、学長は学校経営者によって、初めから経営に都合のよい人材として選ばれているのだから、彼の行動は充分理に適っているようにしか見えません。誰かが不当に解雇されることがあれば、本来同僚たちがリアクションを起こすべきかと思いますが、それは皆無でした。

今から10年近く前、当時住んでいた安アパートが実は競売物件で、当時の大家が借金を抱えて逃げている間、隠れて家を貸していたことが発覚したことがありました。その上、部屋は仲の良かった隣の住人に競売で競り落とされてしまい、何も知らずに住んでいたところ、突然降って湧いたように、隣の奥さんから毎日のように、何時出て行くのか、間取りを見せろ、警察を呼ぶぞと言われるようになりました。結局アパート中の住人とも顔が合わせ辛くなり、半年ほど酷い思いをしたわけですが、あの時、ずっと親友だと思っていた友人に相談し、「俺は知らないよ。俺のせいじゃない」、と言われたときの驚きは一生忘れないでしょう。あの瞬間に、自分がどんな立場でどんな社会に暮らしているかを悟り、生きてゆくための強さと強かさを学んだのだと思います。

でもイタリアはそれだけではありません。たとえばポマリコは自分が全く無一文の頃、何年も無償でレッスンをつけてくれました。何度、授業料が払えないので辞めると言っても、いいから来いと言って、一切お金は受取りませんでした。こういうイタリアも確かに存在するのを忘れてはいけません。だから、イタリア社会を一概に悪く捉えているのでは決してないのです。自分のなかで閊えていた甘えが、吹っ切れただけかも知れません。

イタリアに来た13年前と現在とでは様々なパラメーターが大きく変化していて、端的に言えば、昔より随分殺伐としているのは、否定できません。余りにお金がないと、暮しが殺伐としてきますが、学校も国もお金がなくなれば、殺伐としてくるのかも知れません。特に、音楽のような霞を食べて暮らす人間には、この変化は相当大きな変化をもたらします。お金はなくとも、自分一人気ままに暮らす分には良いかも知れませんが、学校も国も家庭と同じで、誰かを食べさせなければいけません。そうすると、どうしても底の方で涸れてくるものがあると思うのです。

音楽学校が殺伐としてきて、教師の教え方が殺伐となればなるほど、学生の音楽に夢がなくなります。国が殺伐としても同じでしょう。音楽家が殺伐としてくると、弾く音にも書く音に夢がなくなり、明日食べるためのお金ばかりが透けて見えるようになり、そうした音ばかり聴くようになると聴衆も影響を受けるに違いありません。でも、音楽から夢がなくなったら、同じように絵や文学や、それだけじゃない、野菜や魚や肉にも夢が枯渇したら、一体我々の人生に何の意味があるというのでしょう。

大学生の頃、桐朋の旧館4階の図書館から、と或る巨大なスコアを借りては、階段を昇り降りしていました。当時音源はなく、楽譜を見ただけで音が鳴るほどの頭ではありませんでしたから、訳も分からず、ただわくわくと子供のように眺めていたのでしょう。それが来月東京で演奏するカスティリオーニの楽譜です。文字通りで夢が詰まった宝箱で、きらきら輝いてみえました。そうして、大学の終り頃、出たばかりのCDで初めて録音を聴き、自分がまさに書きたい、鳴らしたいと思っていた音がそのまま聴こえてきた時には、ショックで聴き続けられず、作曲はやめようと思ったのを覚えています。

何の因果か、その作品を自分が演奏することになるとは、想像もできませんでした。夢のようです、と書ければ幸せなのだけれど、演奏、それも指揮となると、文字通り夢と正反対のシビアな仕事なので、巨大なスコアを食卓に広げ、自分も食卓に乗って書込みしながら譜読みをしていて、でもお陰で、数え切れない発見と、感激に巡り合えることはこの上ない幸せです。

まっさらな楽譜に自分が書込むとき、最初はどんな作品でも緊張するのですが、この楽譜に関しては、殆どおののきに近い感情がありました。自分には到底演奏できないのでは、という畏れと、自分がショックを受けたあの音を自分で紡ぎだす畏れなのでしょう。演奏家は、誰でもそういう畏れは持っているものでしょうけれども。

そして「夢」という言葉を、改めて考えました。こんなに殺伐とした毎日をやり過ごしつつ、「夢」なんて本当に必要だろうか。でも考えてみれば、ほんの60年近く前まで、日本ですら信じられない戦争の中心に居たのです。ベトナム戦争なり、アフリカの内戦なり、バルカンやイラクの戦争なり、無数の殺戮がその60年の間にも続いていて、心が本当に渇ききってしまった人々は、今この瞬間にも沢山いると思うし、また、そこから本来の人間らしく、心に潤いを取戻して生き抜く、強く逞しい人々も数え切れない程いる筈です。

本来「夢」は、どくどくと血が通い生き生きと輝く、力強いものに違いありません。夢こそが、夢のみが人間らしさを取戻す原動力になり得るのですから。そうして楽譜を開くと、今自分がしなければならないこと、感じなければいけないことを、カスティリオーニが優しく、厳しく諭してくれている気がして、思わず頭が垂れます。

夢の持つ力強さ、インテリジェンス、強かさ、しなやかさ。作曲や音楽がこうして文化として地面に深く浸透することを痛感させられ、自分が生きる時間の重さ、責の重さに、時にはぞっとさせられたりもするのです。

(7月30日 ミラノにて)