しもた屋之噺(86)

杉山洋一

昨日、聳え立つ山の頂きで乳白色の深い霧に包まれたサンマリノの街から、車で一気にリミニまで降りると、気圧で思わず耳がツンとつまりました。

元旦明けの2日から、雪景色のブレッシャでエマヌエレ・カザーレ作品の録音のため、スタジオにこもっていました。その翌日から、再び大雪に見舞われ、ミラノですら70センチは積もったでしょうか。きめ細かく美しい、ふわりとした雪で、思わず家人が庭に小さな雪だるまをつくりました。頭に小さなバケツをかぶせ、目に黒オリーブ、鼻にニンジンをあしらった、それなりに愛らしいものでしたが、夜半、オレンジ色の街灯が一面の白い雪を照らし、ぼんやりと薄ぼらけた風景に空ろに浮上る姿は、やはりどこか頼りなげでした。もっとも夜が明けて、あちこちで子供たちが声をあげて雪合戦に興じる姿は、日本もイタリアも一緒です。子供のころ、自分も手がかじかんだのを思い出しました。

なかなか溶けない雪だるまを眺めつつ、9月末に仕上げるはずだった新曲を漸く送り、翌日にはコントルシャンの演奏会のためジュネーブ行のチザルピーノ特急に乗っていました。毎日、スイス・ロマンドのアンセルメ・ホールで練習をしながら、時間ができると、演奏家たちの溜り場になっている、辻ひとつ先のポルトガル人の喫茶店で、オムレツやらケーキに舌鼓をうちました。ベルリンに住んでいるノルウェー人のメゾ、トーラは、少しでも時間が空くと控室で余念なく勉強に精を出していて、演奏会とFMの録音を兼ねたアンセルメ・ホールの本番は、それは素晴らしいものでした。

朝7時40分、夜も明けぬジュネーブ駅を列車が出て、まもなく車窓一杯にひろがるレマン湖に映る朝日に見入り、イタリアン・アルプスのどことなく繊細な雪景色に目を奪われ、イタリアに戻り、やがて姿をあらわす、マッジョーレ湖の幽玄な島々に美しさに思わず溜め息がもれました。特に旅が好きでもないのですが、仕事にでかけるときは、いつも決まって楽譜に齧りついているので、帰途は周りの風景に驚くことばかりです。

洗濯を兼ね、雪があちこち残るミラノで2日ほど慌しく譜読みをし、ルツェルン劇場でのみさとちゃんの新作オペラに駆けつけました。ミラノからコモを通り、ルガーノ湖のほとりを暫く走り、イタリア語圏・スイスにベッリンゾーナで別れを告げ、アルプスはゴッタルド峠の荒々しいほど男性的な風景に息をのみます。雪も1メートル以上は積もっていたでしょう。そそり立つ山々と対照的に、点々と続く街は、雪に沈んでいるようにみえます。

車窓の風景が、暗く重く圧し掛かるように感じられるようになると、周りの人々もつられて無口になり、雪ばかりの風景を思いつめたように見つめていましたが、やがてルツェルン湖が見えてくると、お伽噺にでてくるような愛らしい家が点在するなか、丘に羊や牛が群れる、文字通り牧歌的な風景に心がなごみました。

みさとちゃんのオペラは、時間が深く進行してゆく1幕と、作曲者の時間感覚、皮膚感覚が直截に聴衆に伝わるような、畳みかける2幕とも、まるで時間の経つのも感じられないほどに面白くて、見に来て本当によかったと感激しました。彼女らしい書法と、さらさら流れるように書き綴ったような書法、それを引立たせるよう所々に忍ばせた仕掛けのバランスにも脱帽しました。

翌朝、もと来た道をミラノまで戻り、サンマリノまで下り、先昨日、サンマリノの山の頂き近くにあるタイタン劇場で、オーケストラ選抜メンバーとアウシュヴィッツ解放記念の演奏会をしたところ、一ヶ月前のクリスマスコンサートにも駆けつけて下さった二人の執政(大統領にあたる)が来賓としていらしていて、何とまめまめしいのだろうと驚きました。

朝の練習が終わり、フルートのクリスティーナとクラリネットのマルコなどと連立って、「リーノ屋」で特製の手打ちガルガネッリを食べながら、ひょんな事から、イタリア人のクリスティーナが、サンマリノのコンヴァトの職を今年限りで失うのだと打ち明けられました。彼女の教え子が去年見事にディプロマを取り、早速来年からサンマリノで教職につくことを望んでいるのですが、サンマリノの法律によると、どんな教師であれ、サンマリノ人がそのポストを望めさえすれば、外人である限り、自らの職を無条件で譲らなければなりません。

自ら教えた生徒に、教師が職を追われる。良い教師であればあるほど、外人であれば、自分に不都合な優秀な生徒を世に送り出すことになるのさ。サンマリノ人の同僚たちは、自虐的に声を潜めて話してくれました。せめてクリスティーナが、サンマリノの男と結婚してくれれればなあ、彼らは、冗談とも本気ともつかぬ笑いを浮かべつつ、残念そうに繰返しました。コンヴァトの校長はクリスティーナの友人だし、あれだけ親しければ、きっと助けてくれるでしょう、と思わず口にすると、皆、揃って頭を横にふりました。こればかりは、彼にもどうにもならない。法律なんだよ。昔から長く続く伝統なのさ。彼女がここを去ったとて、僕ら以外誰も心を痛めやしない。

30年前に初めてコンヴァトを開いたときは、イタリアから錚々たる教師陣を集めてきたのだけれど、数年経つうち、彼らは揃って若くてろくでもないサンマリノ人の同僚に根こそぎ挿げ替えられてしまったというわけだ。演奏会の夜、サンマリノの街は深い霧に沈み込んでいて、下界とは隔絶の感がありました。まるで宙に浮かぶ島のようです。

戦時中、短い間ながらサンマリノにもファシスト政権が誕生したことがあり、タイタン劇場は実は当時の残滓でした。全体に小さいながらも、確かにファシズム建築らしい厳(いかめ)しいつくりで、正面玄関の装飾は、紛れもなくファッショ(束棹)そのものでした。
演奏会が終わり、関係者も引払ったがらんどうの劇場で、管理人の男性が乾いた笑い声をあげました。よりによって、ここで、アウシュヴィッツ解放記念の演奏会とはなあ。

翌日、ミラノにもどると意外なほど肌寒く、思わずコートの襟を立てました。

(1月31日ミラノにて)