しもた屋之噺(132)

杉山洋一

一年が瞬く間に過ぎてゆきます。今日が大晦日だとはにわかに受け入れがたい思いですが、アルプスのふもとのメッツォーラ湖のほとりで愚息と元旦を迎えるべくティラーノ行急行に揺られてつつ書いています。今日はロンバルディアは空の端々まで澄みわたった見事な快晴で、おっつけ眼前にはレッコ湖から立ち上る雄大な岩肌が目の前にあらわれるに違いありません。

今年一年、水牛の原稿を特に毎回テーマも決めずに、日記を転記しながら綴ってみて、文章書きと作曲との共通項の多さにあらためて気がつきます。一つ一つはさほど意味を持たない些末な日常を積み重ねてゆくうち、だしぬけにそれら時間の重層が思いもかけぬ意味を持つようになります。些末な日常ながら、記憶に留めておきたい殆ど無意識の欲求が常に薄く残っています。容量の小さいコンピュータと同じで、あまり沢山のことを頭に留めておけないのでしょう。こうして書き出してしまえば、気分が良いところも作曲に似ています。

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12月某日 ミラノに戻る車内にて
人生の最後に、しておけば良かった、会っておけば良かった、と思うことがらは、せめて一つでも減らしておきたいと思うようになった。インターネットや電子メールのおかげで、遠距離間のコミュニケーションが容易になり、人に会い顔を見て話す大切さを最近忘れかけていた気がしている。
家人の恩師を訪ね、夜行寝台に揺られてイタリア半島南端のターラントへ出かけた。酷い寒波がヨーロッパを覆っていたので、身体を温めるため、ミラノ中央駅でイタリア産コニャックの小瓶を購う。6,5ユーロ。連休の直前に旅行を思い立ったので、4人部屋の簡易寝台しかとれない。発車直前に車掌が、シーツと枕カバー、水と杏ジュースをぞんざいに置いていく。
夜明け前のバーリから、小さな電車に揺られてターラントへ向かうと、通学中の高校生の人いきれで溢れかえり、この地方では今日は平日だと知る。車窓にひろがる果てしないオリーブ畑は北イタリアでは想像すらできない乾いた土の色。

ターラントで拾ったタクシーの助手席に乗り込み、シートベルトを締めようとすると、初老の運転手は笑いながら、「ここはイタリアではないよ、アフリカさ」。
そういうと、アラームが鳴るので彼もシートベルトを締めた。尤も、彼が締めたのはシートベルト金具のみで、ベルトそのものは外してある。少し離れた恩師の住む別荘地へ車を飛ばしながら、通るバスの番号を教えてくれのだが、しつこく復唱を求めるのが愉快だ。「で、駅にもどるのは何番のバスだったかね」。「28番だっけ」。「それは反対だ、サンヴィートへ出かけるのは28番、駅に戻るのは27番、わかっとるのかね」。鄙びた訛りが心地よい。

約束の時間まで余裕があって、恩師の住む「海蛍通り」を奥まで進む。と、だしぬけに、真っ白な小さな海岸と目の前に果てしないコバルトブルーのイオニア海が姿をあらわした。特にイオニア海は喩えようもない美しさで、右奥にうっすらシチリアが見える以外、視界をさまたげるものは何もない。海岸に無数の深緑の玉が打ち上げられていて、押すと弾力がある。大きいものは掌を上回るほどで、尋ねると、これが海綿で、垢すりに使うのだという。
この辺りは、全て道に海産物の名前がつけられていて、「海蛍通り」の隣は「水母通り」。日本語で水の母と書くクラゲに、イタリア人は怪物メドゥーサの名前を与えた。2年ぶりに会うブルーノは、意外に元気そうで、「Bruno Mezzena Bolzano 1946」という署名が入ったカゼルラの「ピアノ」という本を借り、カゼルラとプロコフィエフが入った古いCDを頂戴した。

翌日、ターラントの聖カタルド教会から、聖母の受胎を祝う、荘重な行列が出た。ブラスバンドが奏でるゆったりとした8分の6拍子のベネディクトゥスに合わせて、右に左に聖母像を揺らしながら、少しずつ歩を進めていて、まるで引き伸ばされた映画、いやスローモーションのフィルムを眺めているようだ。周りでは、みな熱心に聖母像に手を併せていた。帰りの寝台急行に乗ろうと、バーリ駅構内で焼き立てのパンツェロットを齧っていると、機嫌のよい労働者風の男たちが大声で話しかけてくる。初め中国人と勘違いして、ニーハオ、ニーハオと囃し立てていたが、日本人だと言うと、日本の経済強力のおかげで、オイラの街ナポリはすっかり見違えるようになったと感謝される。

12月某日 自宅にて
風呂から上がった息子にドライヤーをやりなさい、と家人が言うので、ドライヤーはかけるもの、あてるものだと口をはさむ。尤も、7歳の息子に「ドライヤーをあててよ」と言われても困るので、確かに日本語はむつかしい。
ところで家人が「嗅ぐ」と言うべきところを「臭う」というのが気にかかっていて、調べてみると関西の表現らしいが、普段日本語に触れる機会の少ない息子のためには「匂いを嗅ぐ」と「匂う」の違いを教えてやってくれと頼む。日本語の自動詞と他動詞の違いは、思いのほか曖昧。息子の前で気をつけているのは、ら抜き言葉と「ヤツ」を使わないで話すことくらいだが、最近息子がよく言う「しかも」をどこから仕入れてきたのか不思議に思う。息子の国語の練習帳を見ていて難しいのはやはり擬音・擬態語の類で、こればかりはどうにも説明も出来ない。どう覚えたのかも記憶が定かでない。

12月某日 自宅にて
昨年から雨が降ると屋根の雨樋から天井に少しずつ水が染み出していたのが、今年の大雨と大雪に至っては、遂に天井から水滴が滴るようになった。
管理組合に連絡するため懐中電灯でしずくを照らしてヴィデオ撮影していると、息子が「何だか僕たち化石を撮っているみたい」とつぶやいた。水を含んで剥がれ落ち、ふわりと生えた黴で毛羽立った漆喰の壁は、確かにかかる風情を醸し出す。
夜半にベルリンから戻り、ミラノの空港に降り立つと雪がしんしんと降っている。荷物も少なかったので見本市会場で一人降ろしてもらい、ロット広場から人気のないバスに乗ると、後方でアラビア語で罵り合う酒臭い労働者3人が殴り合いの喧嘩。彼ら曰く、一人が他の二人の荷物を盗んだと言う。盗まれた側は運転手に警察に突き出してくれと頼み込むが、毎度のことなのか、彼は相手にもしない。暫くして犯人呼ばわりされた男が逃げ出して、他の二人は、乗ってきたアラブ人の妙齢に絡みはじめた。あんたの宗教で酒は御法度だったろうと諭そうかとも思ったが、妙齢が席を移動して運転手の傍らに座ったので、そのまま降りた。
翌朝、久しぶりにエミリオと電話で長話。演奏家も指揮者も、品揃え豊かなスーパーマーケットに置かれるようになった昨今、人目につき易い場所で、分かり易くディスプレイされていなければ、存在すら忘れられてしまう。

12月某日 自宅にて
MやEの楽譜を受取りに出版社に出かけ、販促のガブリエレと思いがけず話し込むことになったのは、カスティリオーニの未初演のオペラ「ジャベルヴォッキイJabberwocky(不思議の国のアリス)」に話が及んだから。普段は仕事上あたり障りない会話に終始していても、興味や情熱が合致して思わず仕事抜きで話に花が咲くのは、元来彼も立派な音楽学者なのだから当然だろう。学校へ息子を迎えに行く時間なんだ、と慌てて席を立つと、一部しかない楽譜のコピーをこちらの胸に押しつけ、今はこれはお前が持っていてくれ、と上気した顔で言ってくれる。
「ジャベルヴォッキイ」は、元来61年のラジオ劇「鏡の国のアリス」の直後にスカラの小劇場のために作曲されたものの、初演されることなく忘却のかなたに捨置かれていた40分ほどの小オペラ。ソプラノ・レッジェーロの「アリス」、リリックソプラノの「ねずみ」、アルトの「亀」、テナーの「うさぎ」、バリトンの「帽子屋」、バスの「グリフォン」が登場し、それに4部合唱と2管編成のオーケストラがつく。カスティリオーニが最も輝いていた時期の作品で、事実楽譜を読み始めると面白くてとまらない。きっと近い将来彼の傑作の一つとして認められる日が来るに違いない。

12月某日 自宅にて
ドナトーニの次男レナートからクリスマスのメッセージが届く。
「不況の辛さが身に凍みるが、どうしたものか本当に途方に暮れている。このご時世じゃ物件を売飛ばすことすらむつかしくて。お前からのメッセージのお陰で、いつも心を和らげてもらっているよ」。両親は既に他界し今春長兄のロベルトも頓死して天涯孤独になった彼の言葉は、率直だが重い。ドナトーニが長く夏期講習会を催していたシエナの近くの、トスカーナの丘の上に、兼ねてから趣味だったビリヤードが本格的に楽しめるペンションを経営している。年末に息子と彼の宿をを訪ねたいとも思ったが、聞けばキュージから先、車がなければ辿り付けないと聞いて諦めた。

12月某日 自宅にて
遠方より友来る。有馬さん東京より来訪。来年ライブエレクトロニクスを含む新作を引受けていて、右も左も分からない素人のための、即席初級の電子音楽講義。さすが大学で教鞭を取っているだけあって、手際がいい。「これが所謂イルカム風の音響です」と新しいプログラムも聴かせて頂いたが全く食指が動かない。別に自分がやる必然性を全く感じないのはなぜだろう。凝ったことをコンピュータを通して実行すればするほど、どれもが似たよう音に収斂していくのは当然かもしれない。だから、違う音を望むのなら、違った場所から出発しなければならない。有馬さんをオペレーターとして欲さないのなら、どんなに新しいソフトを見せてもらっても、思っている感覚には近づかない。自分も演奏する立場からすれば、現時点では人間に演奏できる内容には限界があることを知っているし、それが面白いところでもある。

今から100年前の1913年は、パリの「春の祭典」の年であり、ミラノのルッソロ「未来派音楽宣言」の年だった。その前年はウィーンの「月につかれたピエロ」の年だった。今から見れば、それぞれの都市で個性の強い音楽が脈々と産まれていた時代であって、たとえばルッソロの「都市の目覚め」を、今聴き返しても古めかしい印象は一切ない。彼がもし正式に音楽を学んだ人間で、ストラヴィンスキーやシェーンベルクに匹敵するほど作曲に秀でていたら、西洋音楽の歴史は全く違ったものになっていたかもしれない。ルッソロのイタリア人らしい音楽観は、隙間を観念的に塗りつぶしてゆくドイツ音楽とも違い、音響体として音楽を継承し続けてきたフランス音楽とも違って、イタリア人らしい快楽主義的な対位法観が浮き彫りになっている。

12月某日 自宅にて
家人が仕事で日本に戻ったので、息子と二人で年末年始を過ごすことになった。幸いミラノ市が提携している冬季キャンパスが近くの小学校で開かれていて、毎朝、前日の夕飯のソースで昼食のパスタの弁当をつくり、「水仙通り」小学校に連れてゆく。トラムに乗ってゆくときは、西に三つ下った停留所で降りて、お世辞にも治安の良さそうに見えない怪しげな古い公団住宅群を通り抜けてゆく。夕方5時前に迎えに行く頃には、日はとっぷり暮れている。仕事は相変わらず山積していて、朝4時から始めても全く間に合わない。

最近若い人たちに力を貸してほしいと頼まれるようになったのは、単に自分が歳を取った証拠なのだろう。聞けば、ミラノに新しいアンサンブルを作りたいという。この厭世観に塗り潰された時代にあって、若い人たちが肯定的なエネルギーを発散してくれるのは、何より嬉しい。
そのひたむきな気持ちを大きく受け止めることが、年長者に唯一許された仕事なのかも知れない。そうして共に文化を耕してゆかなければ、何が残っていくのだろう。息子たちの時代に何を残してやれるのだろう。若々しい音楽を前に、そんなことを考えながら練習を終えると、思いがけず、せめてもの私たちの気持ちです、とプレゼントを頂戴し、驚く。開けてみると、磁石付き鉛筆と洒落た書類入れだった。
「よいお年を迎えてね」と外に出ると、友人からすぐに連絡があって、リータ・レーヴィ=モンタルチーニの死を知ることになった。

(12月31日ドゥビーノにて)