青空の大人たち(3)

大久保ゆう

 たとえば自分が乳児の頃マスコットだったなどと申し述べると人は聞いて何だよくある持て囃され型の幼児かと思われるだろうし少し事情を知る人ならうちの家業が洋品店であったことを思い出して我が子かわいいあまり商品や店名にその名を付けたり広告に用いたりするあれかとも察されるのかもしれないがここで綴るのはまったくそういう話ではない。

 家業の店舗の三軒隣、実家とは直接関係のないいわゆるギャルレ――つまり専門店の集まる建物――があり、一歳になるかならないかの頃、その一周年の記念に私は販促として広告に用いられたのであった。むろん親の許可はあっただろうが本人の同意などなく今や当時の二色刷のチラシから読み取るしかないが確かにそこには自分の名と写真がある。そして以後周辺では自分は本名ではなくその建物の名称であった鼻濁音入りカタカナ二文字の末尾に「夫《お》」をつけた実に益体もなく自我があれば屈託のひとつでも見せなくなるようなあだ名で呼び習わされたわけだが(鼻濁音の気恥ずかしさをぜひとも考えてみてほしい)、そもそも私が選ばれたのは同じ町内に一歳になろうかという子が三人しかおらず他のふたりに拒まれたため同じ町のよしみで商い上のギヴ&テイクですなわち子どもにはあずかり知らぬ大人たちの政治上の取引の道具にされてしまったというわけで、何かしらそこには子を表に出したいという親馬鹿も多少もあったのかもしれずそうなると抗議のしようもなく照れるほかない。

 ともあれ。そのギャラリアは一種の庭であった。しかしそれは自分がそこで遊んだとか心温まる触れ合いがあったとかましてや原風景であったとかいうような類いのことではなく、ただ家を出たところにある前庭であったというだけで、それだけに今でもどこに何があって何を買ったかということを覚えているにすぎない。

 入口をくぐると病弱なおのれにとって欠かせぬ薬局があり少し進めば香ばしく薫るパン屋がある。広めのスーパーマーケット然としたエリアを抜けると精肉・生魚の個別店舗が構えておりその裏には乾物や菓子の小売りで青果の奥をゆくと弁当屋と花屋があるという具合だ。階上には玩具店・手芸店・化粧品店・文房具屋・家電屋、あとは衣類を売る店や筐体ゲームの一角もあったはずで催事場もありそこではよく玩具屋がイベントや大会を開いていたのが一度も勝ったことがない。エレベーターの隙間に五〇〇円玉を落としたことやエスカレーターの隙間から見える緑色の光が怖かったことなどギャルレのあらゆる〈ひび〉然としたものが恐怖の対象として現れたのも今となれば一興である。

 しかし幼い記憶を掘り起こそうとしてもどうにも思い起こせることが大してないが、印象深いのは商う人々の顔が楽しそうであったことだろう。とりわけ夏に建物の裏の川で花火を打ち上げる日には普段解放されない屋上を開け、建物内の商店総出で縁日をやり近い町内の人々を集めて皆で夜空の華に興じた。商うとは何よりも自分たちが朗らかであることが大事だというのがおそらくは商店主たちの総意であったのだろう。

 そもそもその建物が築かれたのは以前のギャルレが火災によって焼け落ちたからだという。そのときの写真は見たことがある。さいわい怪我人こそ出なかったが何十という店舗が灰燼に帰した。してみれば多くの商店主にとって新しいギャルレは再起の砦であったことは疑いの余地がない。ならばこそ再生を意味する赤子を象徴に用いたのだろう。祭り上げられたおのれがそれをうまく言祝げたかと言えば、みじんも自信がないばかりかあろうことか失敗してしまったのだと思う。なぜならその建物は今や陰形もなく、うちの家業が店じまいするよりもずいぶん先に閉鎖・解体されて高層集合住宅に建て替わっている。当時の店は同じ町にはいくつと残っていないし、個人的に知る数少ない主たちも少なからずすでに物故している。

 どうにも〈顔〉を出すことで周囲に与えたあるいは自身が得られた実用的効果はこれまでのことを考えても微々たるものなのだが、新聞取材なども同様である。初めて大きく載ったのは朝日新聞で高校生の時分だったがそのときは校内にいらっしゃる嬉々とした年配の方々によく声を掛けられた。一方で生徒や教師間ではただよくわからない陰口や世間話の種にされただけで評判は下がりこそすれ上がりはしない。とはいえそのとき来てくださった記者はたいへん誠実な方で、ともに取材された人物はマスコミ嫌いであったが丁寧に説得なさって結果立派な記事ができあがっていた。その後毎日新聞や讀賣新聞の方とも接することがあったが、こうして最終的に〈記事〉を仕上げてくださった方々は何ら傲慢なところもなく田舎の少年に向き合ってくださりジャーナリストとはかくたるものかと思い知らされたものだ。

〈仕上げた〉とわざわざ書くのはむろんそうではなかった人もいたということで、あるとき公共放送から若者と文学というつながりで番組を作りたいという取材申し込みが青空文庫経由で来たことがあり少年はどうぞどうぞと取材日を決めたが結局その日が来るまで以後の連絡もなくどうしたものかと思っていたらそのまま放送日が来てしまいそれを見た青空文庫の富田倫生さんがたいへん激怒されたということがあった。自分はそれなりに斜にも構えたいっぱしの思春期であったのでTVとはそんなものかと達観したものだったが怒り心頭の富田さんはその制作会社とは今後一切関係しないとおっしゃられるまでに至ったため、悪いことをしてしまったと個人的にたいへん申し訳なく思っている。

 それからというもの富田さんつながりで何かしらの縁ができたが結果として実を結ばなかったことが取材・仕事を含め複数あったのだがご本人の耳には入れないよう苦慮したもので、不快な気持ちは自分のなかだけで済ましておくことにしたのだ。誰かと誰かの縁を強めたりつないだりするのはいいが、マスコットとして不出来なおのれが人や商いの縁を切ってしまうことだけはどうしても嫌だったのだ。今から思い返せば温度差や理解差みたいなものがあったのだろうと思うし、富田さんはたびたび私のこと(それも私にも思いも寄らない所)を褒めてくださったが富田さんの周囲の人はその熱と内容がさっぱりわからないといったふうで、自分もそういった視線に晒されて肩身の狭い思いをしつつ期待に応えようとするのだが富田さんにしかわからない直観を富田さんならぬおのれが一生懸命説明しようともやっぱり相手にはわからない。そうして私の習作は富田さんだけが気に入ったまま数年が流れたあと突如として話題となり当時わからなかった顔をしていた人たちが持て囃すのが恒例だったが、それには富田さんも嬉しそうだったので自分も何食わぬ顔をしてそれを受けた。むろん親や周囲の人も喜んでくれるのだから過去の不快が何であれ拒む理由などないわけだ。

 要するにメディアに顔を出すというのは自分のためではなく、むしろ不出来なマスコットながらも自分を育んでくれた周囲の大人たちが満ち足りた気持ちになるからだと言える。かつての商店主たちへの恩返しというよりは詫びといった類のことで、主たちは今の自分を知らぬかもしれないばかりかすでに亡くなっている人々もいるのだが、とりあえずはメディアを通じて湖の上に広がる虚空に顔を出すことだってできようというものだ。