『海からの黙示』をめぐって

高橋悠治

2011年3月11日14時46分、地震があった。渋谷駅の地下鉄出口で階段をあがったときだった。長い揺れの後で外に出てみると、人びとが空を見上げていた。何かが見えたのだろう。携帯電話は通じなくなっていた。電車は停まっていた。わずかに残っていた公衆電話から家に電話をして、まだ走っていた路線バスで帰ったが、数分後には公衆電話の前に長い列ができていた。その後バスも停まり、道路は渋滞し、人びとは何時間も歩いていた。

帰ってテレビを見ると、どこかの工場が爆発して白い煙を噴き上げていた。でも、それはまだフクシマではなかった。フクシマはもうはじまっていた。いまも終わっていないし、終わりはないかもしれない。

金属の筒に入ったウランの粒が鉄の釜のなかで発熱して、水を蒸気に変える。釜の外から水で冷やしているが、その水はタービンの羽に吹きつけられて電気を起こすその蒸気が、冷やされて水にもどったその水らしい。と聞けば、永久運動機関のように、いつまでも発電し続ける夢のような機械のようにも聞こえるが、そんなことがありうるだろうか。機械はすこしずつすりへって、こわれていく。鋼鉄もコンクリートもやがては風化してぼろぼろになる。国だって何千年も続かない。国滅びて山河あり。物質の発熱は何万年続くのか。

広い窓から海が見え、対岸には白い建物が小さく見えた。千年も前からこの土地は、都に食物と奉公人を送っていた。いまは補助金もあり、出稼ぎもなく、都市に電気を送る。格差の構造は変ったのか。

2011年3月11日は一つだけの災害ではなかった。一つの島だけでなく、地球全体で地震、津波、台風、大雨、落雷、竜巻が毎年起こっている。水の惑星の水は動きまわり、地層も呼吸し、身震いしてバランスをとる。人間の技術は惑星をうごかせないし、その動きも予測するには大きすぎ、複雑すぎる。わからないことがおおい。それでも、「リスクのない技術はない』と言いながら、停めることができない装置を作る会社があり、他の国にも売りつける政治家がいる。

富山妙子が描いたいくつかの絵と、絵葉書を見ながら、2012年の暮に24分のピアノ曲を録音した。その音楽に添って、絵にもとづく映像が作られた。「死して成れ」というゲーテの詩の一節。グリーグの『蝶』というピアノ曲のリズムとパターン。こうして『海からの黙示』というディジタル・スライドができた。

光をもとめてろうそくの炎に飛び込む蝶、日本では蛾と呼ぶが、「死んで生まれる」ことがなければ、暗い地上にひととき身を置くだけの存在にすぎない、と書いたゲーテは、科学者でもあった。原子の火に焼かれた蝶はいつかまた飛ぶのだろうか。

静かな海、崩れた建物、積み上がったがらくた、人のいない春。見えるものから見えないものを想像するしかない、怖れをもって。音楽が聞きなれない音を立て、映像はさまざまな記憶や自由な思いを呼びこむように。