オトメンと指を差されて(61)

大久保ゆう

富田倫生さんのお別れ会があります。

そらもよう 2013年08月31日

わたしはそこに記載され、大久保ゆう(青空文庫)とあります。戸惑いを隠せません。なぜか。

ひとつには、わたしは青空文庫の作業をさほどこなしてはこなかったのです。長さにして量にして、平均値以下、これまで何百人といたはずのボランティアから考えればほんの微々たる尽力であり、一万を越えるファイルを基準にするとわずかな数しか手がけていません。実運営は言わずもがな。

ふたつには、わたしは富田倫生という人物のことを、ほとんど知りません。思い出にしても会話にしても、これまで彼と出会ってきた他の人々に比べれば接触がほとんどないも同様、何を教わったわけでもなく、おそらくはこの肩書きから周囲の人が推察するような師匠弟子の関係があったということでもありません。

それでもどうしてここにわたしの名前があるのか。推測と煩悶と修正。

大久保ゆう(青空文庫の、子ども)

たぶんこれがわたしの自意識と一致する、ただひとつの答えです。青空文庫が始まって間もない頃、インターネットでそのサイトを見かけ、1998年にはひょっこり勝手に現れ、ひとりの少年が遊び、暖かく見守られながら15年。

そのあいだにわたしは成長などして翻訳などして、童話や海外文学を増やしてみたり、芥川龍之介「後世」を見つけてきたり、映画に字幕を付けたり新聞に取材を受けたりサークルを作ったり朗読を進めたりサンタクロースになったり絵本を入れちゃったりミュージカルをしたりと、それこそ好き放題。

富田さんがそんな少年・若者のことをどう思っていたのか今となってはわからないけれど、青空文庫にこんにちわをしたごくごく初期の頃、自宅にいきなり「リーダーズ英和辞典」と「本の未来」が送られてきたことがありました。おそらく高校1年生にして「仮定法をまだ習っていない」と豪語しながら翻訳に取り組む少年を見かねたのでしょう。そのときの手紙には、短くこうあります。

「1999年5月11日
 青空文庫に関連する拙著を、同封しました。
 自分の本を送るなどと言うのは、ちょっと下司な気もします。(なら、すんなって)
 他の呼びかけ人には、内緒にしといてね。」

みっつには、そもそもわたしは青空文庫に収録された電子テキストをそんなに読んでもいません。きっと、ブラウザで、PDAで、T-Timeで、iPhoneで、Kindleで、わたし以上に読書した人はそれこそ大勢いらっしゃるはずです。青空文庫形式を使って小説を書いた人もいますし、青春時代に青空文庫に触れて本の世界へ入った人もいらっしゃるでしょう。

それに対してわたしは、青空があってそこに読まれる本が待っているにもかかわらず、その青空をただ走り回ってはしゃいでいただけなのです。あるいは、ながめていただけ。ただ自由に、気ままに。青空の下にいて、気の向いたときだけ本を読み、気まぐれに邪魔やお手伝いをしただけ。

ほら、これってすごく、子どもっぽい。

子どもというからには、やんちゃもするし、親に反抗もする。言うことなんてぜんぜん聞かない。ふらふらして家業を継ぐのか継がないのか何者になるのかもはっきりしないままなのに、けれども心のなかでは、何か親孝行しなきゃな、と思いつつ、いつまでもそれができず、ついにしそびれてしまうような、そんなありふれた子ども。

その日その時間、わたしはそんな子どもとして、その場所に現れると思います。

富田さん、本当に、さようなら。