切れと余韻

高橋悠治

ことばで書くとき、試していないことを、つい断定して書いてしまう。でも、実験しつづけ、さまざまなやり方を試すのには、互いに矛盾した判断を書き並べておくほうがいいのではないだろうか。あれこれ迷う心をそのままに残す、それが考えの先端ではなく、痕跡として散らばっている、探る先端は鋭く細く、絶えず動き回り、痕跡は残響のように、薄く空間を彩っている。これなら動画として成り立つだろう。

音楽として聞くときは、動きまわる線とその線を包む響きの空間になる。その場合、響きは線の触れていく音の余韻かもしれないし、別な音で作られた背景かもしれない。

一筆で引く墨の線が途切れ、墨を付け直して線の続きを引くのは、失敗だろうか。長いフレーズで息が足りなくなったとき、息の最後を突いて切り、次の息で同じ音を受ける、この突きと返しという、フレーズの区切りと呼吸の間をずらすやり方で途切れる線を続けていくと、意外な起伏を含んだ長い線ができる。

ピアノの場合は、息ではなく、鍵盤による触覚と、指が隣の音にずれて、不正確な動きになるから、変化や拡散が続いていくと感じるなら、予想通りの結果や安定した図式にならない。管理された即興とか、即興とその修正というよりは、書く作業で予想しなかった発見(セレンディピティー)がないにしろ、歪みや逸れがあれば、それに従うようにする。

ここで「切れ」というのは、中断をちょっと強調するだけで、音の線を不安定にするだけのもの。安定と重みを避けて、迷い、試行錯誤の跡が見えれば、そこで中断しても構わない。

コンサートのたびに一曲作曲していたが、今はそんなわけにはいかない。サティのノートブックのように、思いつく音を書きとめておかなければ、何も思いつかなくなるような気がする。