「而今」から

高橋悠治

本を読んでいると、「而今」ということばに行き当たった。「いま、現在」という意味の漢語、読みはジコン、本来はニコンと読んだようだ。中国語辞典にもおなじ意味で載っている。

朝、目が覚めたとき、ある音、ある響き、フシの切れ端が浮かぶことがある。それは聞いたことのある何かの一部かもしれないが、そう考えるのと、浮かぶものを感じるだけとは、どこかちがっている。

思い浮かぶそれを書きつけてみると、それは記憶のなかに残った音楽の一部かもしれない。そう思えば、それは書くまでもない。浮かんだ音のイメージを書きとるとき、それが本来もっていたはずの、他の音とのつながりから離れて、それだけで宙に浮かんでいるかのように見ること。こうして、読んだことばの続きにあった「前後際断」という、もう一つのことばに辿り着く。

読みながら考えているのは、音楽を創る方法のこと。全体の構成から部分に降りていくのでは脱け出せない、20世紀後半の音楽と、今過ごしている日常の、どことない異和感のなかで、「音楽を創る」とはどういうことか。

「創る」のは、作曲というだけではなく、それに引摺られた演奏のスタイルでもあるだろう。

定義すること、論理を立てるのではなく、瞬間の感触から、何かちがう表面を探り当てることが、どうしたらできるだろう、と思いながらも、ほとんどの時間は、日常のいろいろに溺れていく。

と書いてみると、「日常」と「瞬間の感触」は、ちがうものには見えない。