さまよう線と見えない流れ

高橋悠治

低音DUOの松平敬と橋本晋哉のために 川田絢音の詩を『明日は残骸』『しいんと』『ぼうふらに掴まって』の三連画にした 

詩に作曲するのは 詩のひとつの読みかたと言える 詩はことばの響きの組み合わせから生まれ 本来は 黙って活字を目を追うのではなく 響きとして読み上げるものとすれば 語るより歌うのが より古いやりかたかもしれない ことばの意味ではなく響きと 喚び起こされるイメージが かたちのない線になり それに セルパンによるもう一つの線が絡みつく ことばをもつ声の線は 多彩な音色の変化する線で セルパンに寄り添って 和音や対位法でない 西洋音楽では不協和音とされてきた2度の擦れ合うポリフォニーをつくり出す 2度という隣り合う音程のまといつく線は 糸を撚り合わせる織物や ちがう味を取り合わせる料理のように 音楽をプロセスのアートにする 石碑や建築のような音楽ではなく もっと軽く 風にゆれる唄の細い線が漂っていく  

1960年代までの20世紀音楽の流れとはちがう方向をさぐる試みは あれこれあって やがてそこから一つの新しい方向が見えてくる と思うことさえも まだその流れに囚われているのだろう 和音・低音・主題・構成というシステムで考えてしまっていることに気づかずに 作曲し演奏し即興しても 見えない檻から出られないし 檻をひきずって歩いているだけのことかもしれない

20世紀の演奏技術は 強い多い速い という力の支配 統合と管理の方法だった 雑多で異質な響きを継ぎ合わせて 複雑な音楽にすることはできるが そういう技術は 反復と確認をかさねて 息苦しい空間をつくり出す 記号や図形を発明しても 聞こえてくるのは おなじ昔の歌だった ということになりかねない 

それよりは おなじみの数すくない記号に あいまいな拡がりをもたせて 別な文法で使ってみる 演奏や即興が先にあり 経験を要約する方法は 不完全な道具で 精密な規定と矛盾する実例からは ちがう現場で使うときに そのたびの微調整が必要になる

微分音や複雑なリズムを書くのをやめて 長い音と短い音を 2分音符と8分音符で区別する 符尾のない白丸と黒丸で書いたこともあったが 演奏が均等な長さになりやすく 規則的な拍ができていしまう 棒のない全音符は 同時か順番か わからない時がある 全音符2分音符4分音符と順を追っていくと やはり時間を数えるようになる そこで いまのところ2分音符と8分音符を中心にしているが それが定式ではない 書くたびにすこしずつ書きかたも変わり ただし 説明は避けるようにしている 楽譜に説明してあっても ふつう演奏家は読まないし 説明を求められることになると 無意識のうちに作曲家・演奏家の上下関係を作るかもしれない

休止符は数える傾向を誘いやすい 音符はピッチに気を取られて ありきたりの感情表現をしたくなるが 休止は文脈を無視した数になりがちだろう 休止符は書かず カンマやカエスーラによる中断かフェルマータによる停止 5線をガイドラインとして いくつかの音符がそこに引っかかっている 小節線のような区切りもなく 別な段の音符とは数が合わない という白い楽譜の風景が いまのところは 少人数の音楽なら成り立っている 全員がスコアを見ていられないようなオーケストラの場合は ちがうくふうが必要になるだろう 拍子図形のない指揮法は 例がないわけではないが 指揮者は統制したがる職業だから そこに問題がある 司会進行役なら 適当な時間に合図を出すだけでいいかもしれないが コンサート会場で 演奏者全員の前にただ立っているのは間がぬけているし 不満もあるだろう アール・ブラウンのように 左手5本の指で断片を選んで 右手でそれをうごかしたり止めたりする技は 作曲家の即興で それが作品のスタイルだった こういうことは まずやってみなければ 人間の習性や 身体の緊張度を無視した方法や 理論先行ではできないだろう