不連続、跳び跳びに

高橋悠治

ピアノの鍵盤に指を下ろして手を動かす、と想像しながら、紙に音符を書く。1950年代の終わりというと、もう70年も前になるが、その頃から作曲をしているのに、全然馴れない。あの頃も、まず楽器の組み合わせがありきたりに思えて、そこに音符を書き入れることが、なかなかできなかった。

ピアノを弾くほうも、滑らかな動きが気に入らなくて、この音をすこしだけ際立たせ、あの音はちょっとだけ遅らせて、と毎回ちがう細部に気づいているうちに、飽きてしまう。同じ動きを繰り返して手を慣らし、その動きを使って、というより、そのように動く手は半ば忘れて、全身がゆっくり揺れ動く波に乗って漂う、それが音楽の時間であるように、と書いてみるが、その感覚は伝わらないだろうな。

何日もぼんやりして過ごしている。何か仕事があれば、小さく細かい部分を磨いて過ごすかもしれないが、コンサートも作曲も、仕事が減っている分、世界に何が起こっているのか、毎日いくつかのニュースサイトを見ていると、日本のメディアはウソとお笑いしかないような印象を受ける。世界は激しく変わる時期に入ったが、日本は沈んでいく側の最後列にいるらしい。

一つの世界が壊れて、多くの破片になれば、統一や安定を探すのではなく、部分的で多彩な組み合わせ、あるいは矛盾を含んだ運動の、故障・中断・脱落など、未完成なまま放り出された箇所をそのままに、イメージで埋めるか、それとも躓きと片足跳びで隙間を残すか。綻びのある線を絡め、撚り合わせて。

ことばが滑ってゆく。そのまま手から離れないうちに掬いあげて。