失敗の判断、判断という失敗

高橋悠治

先月の実験「白鳥の」は演奏してみて、そう悪くはなかった、と思ったのは、ピアノを弾いていて、「風ぐるま」の仲間たちと違和感なくできたからかもしれないが、楽譜として客観性があるのか、知らない演奏家たちが、指示なくわかる楽譜なのか、そこはわからない。

最少限の 記号を使う、という考え方自体、20世紀後半の考え方から脱け出せていないのかもしれない。「考える」ということ自体、あらかじめ構成した何かを試してみる時には、良いと思えることが多いかもしれないし、何かが起こってから判断するのでは、自分の手が加わっている以上、客観的な判断になっていないのかもしれない。だが、客観的な判断などというものがあり得るだろうか。

少ない記号だけを使って、それぞれの記号の範囲を広げてみると、記号自体が曖昧な(粥のような)になっているのか、せいぜい重なる範囲を持つ、と言ったらいいのか、たとえば、「短い音」は「長い音」との比較でしか決まらないから、それ自体ではなく、その環境のなかで初めて範囲が決まるものとなり、ドリーン・マッシーの「場所」のように、動かない点や、内外が決められた輪郭ではなく、時間とともに呼吸する空間の過程であるような、そうなると、時間も空間も、固定した軸ではなく、そのなかの物と一緒に揺れ動く膜であるようなもの、となると、定義された記号の束ではなく、前例に似た見かけ、その変化とも感じられる、厳密に定義されていない、自由な走り書き、空白の多いスケッチ(ルネ・ディドロの素描 rapidissimi)から思い描くなかで、多様で矛盾を含む線や斑点の遊びのあいだから、意図されない線が見えてくるならば、その先もあるだろうか。

考える習慣をやめて、感じるのはむずかしい。以前は、目覚めた時に、幻覚ではないが、音の動きを指に感じることがあったが、この頃は、空白のままだ。構成を通さずに、感覚の雫が降り積もる塔を、眼で計るより指で触れながら残していく忍耐を持てるだろうか。図書館で偶然眼にしたボリス・ピリニャークの『機械と狼』をめくりながら…