サティを弾いていると もっと遅く弾くべきだと感じるときがある 何回も弾いて よく知っているはずの次の和音を 知っているように弾くと まちがった響きがする 音楽のさきまわりをして 音に手綱をつけ 思うままにひきまわしていいのだろうか 一瞬手が停まると ほんとうにまちがってしまう
音符の長さ通りに和音を打つのは 演奏者の思い上がりではないか 見たところ何の謎もない自然な流れの裏に 思わぬ落とし穴が隠れているかもしれない そんな場所がある 同じ曲を弾いていても その予感は毎回ちがうところに現れる 手がこわばると そこに辿り着く前に失敗する
それとさとられないように 気づかぬふりをしながら 手をわずかにゆるめてその和音を調べると かすかな輝きが内側からにじみ出ている
この感じは楽譜の分析からわかることなのか それなら毎回おなじ演奏ができるはずだが そうはならないのは それが作曲のしかただけではなく 演奏するうちに喚び起こされるものでもあるからだろう
サティの作曲法は 断片の貼り雑ぜで これは音楽学校で習うような技術ではなく 20世紀になってcentonizationと名づけられた 単旋聖歌の旋律型や 他の文化でも 旋律型をもつ音楽 ガムラン ラーガ マカームとも共通の技法だが 旋法に見えても パターンは始まり 中心音 終止形といった機能をもたず それを組み合わせる伝統的な構造はない サラバンドやジムノペディ グノシエンヌの ゆっくりした曲の3曲セットは 変化や発展を意図した構成ではなく 断片の貼り合わせは ひとつのものをちがう角度から見て組み合わせる キュビズムのコラージュに近い
音楽は 構造のない音空間に浮かんでいる 音空間は音のない はっきりした境界線のない沈黙の空間で そこに現れる断片の演奏順序は決まっているが 中心もなく 劇的に発展する物語もない 同じ断片 同じ和音 同じフレーズも 見えない光の揺れに照らされて さまざまな翳りを帯びる それは文脈による隠れた意味ではないし その前の断片との差と そのものの表面の角度によって変わる風の戯れかもしれない
サティの音楽のつくりかたから 演奏法を考える 新しい響きというだけでは 音楽の制度のなかにとりこまれて もう一つの可能性になり 新しさも薄れていく
次の和音の意外性を感じるままに 知らない音をそっととりあげて 道の外に道しるべとして置き直すと いままで見えなかった転換点が 一瞬見えるような気がする そこで道を踏み外すかもしれない 逆に それまで辿った道と思っていたのが まちがいだったかもしれない ためらい よろめき さらに思わぬ躓きで 演奏は一瞬ごとに危ない綱渡りになるが さいわい 音楽は突然終わってしまう
サティの貼り雑ぜの作曲法から 危ない足取りの演奏が生まれる この危うさから サティを脱いで 別な音楽が芽吹いてくることがあるだろうか