感じと考え

高橋悠治

感じるのは今ここ、考えるのはその後時間をかけて。

その過程の一部だけを見せておくならば、省略された部分を、その後から補った連続は空白と飛躍を含む。点線のように作られた線ではなく、空中に舞う動きが、意図して落とした重みの反動で、その余力を使って弾み続けるのか、途中で偶然地に触れて、擦れた跡か、によって、方向が違っているだろう。

しばらく、音楽をする元気がなかった。また何か始めるきっかけが、なかなか現れない。以前に思いついた断片をコラージュのように繋ぎ合わせてみようと思ったが、できなかった。さまざまなスタイルを思いつき、それをバランスよく並べることができないだけでなく、バランスの必要を疑いながら、違うことを思いつくこともできない。それならば、何かを引用して書きつける前に変えてみようか。

即興から始めて、演奏、作曲の順で、その時できることを少しずつやってみる、朝目が覚めるとき、何か聞こえてくるとか、楽譜の断片が浮かんで来ることは、最近はない、だから困ることもない、のが実は困ったことかもしれない。

ニュースサイトをあれこれ見ても、2000年前後のグローバリズムは終わっていて、それ以前の国家主義が、復活しているのか、それにグローバリズムと言われていたのは、アメリカ覇権に過ぎなかったので、これから時間をかけて、もう少し公平な制度ができるのか、それを待ってもいられないし、なしでやりくりするよりないだろう。

音楽はもう始まっている。それに追いつき、それから少しだけ踏み外す(ルクレティウスの clinamen)、これを連歌の(あるいは蕉風連句の)付けと転じになぞらえて、次の角を曲がって知らない道に出る。でも、後から他人の眼でそう見えても、その時そこでは、「今・ここ」しかない。