デイヴィッド・ホックニーの1970年代の実験に、joiner という数十枚のポラロイド写真を貼り合わせた作品群がある。20世紀前半のピカソやブラックのキュビズムでは、一つの対象を少しずつ角度を変えて描いた画像の貼り合わせだった。ジョイナーは、対象を見る視線の移動を貼り合わせたフォトコラージュで、その後には写真家のロス・C・ケリーのフォトモンタージュ、縫い合わされた (stitched) イメージ、イメージ列の試みがある。
ティム・インゴルドは 離れた点を直線で結ぶ networkと 短い曲線の絡まる網 meshwork を区別する。動かない点のある場所の配置を見るのか、動いて停まらない関係の変化を感じるのか。
一枚の絵を見る眼は、絵の枠の中で、自由に動き回る。動かず見つめる眼は、見る力を失う。眼の中心ではなく、端の方でチラリと動くものに気づくと、眼が動き、それが見えるようになる。そのときは、見えていたものは、もうない。あったはずの手がかりを追って動いていくのか、戻ってやり直すのか、2度目の道は、もう同じではない。これが「なぞる」ということかもしれない。カフカの日記を読んでいて、どこかに、einfallen と nachziehen という二つの動詞を見た。enfallen は偶然に出会うこと、起こること、nachziehen はなぞること、世界に従うこと、後になって読み返しても、この二つのことばは見つからない。検索をかけても出てこなかった。読んだはずのことばを確認しようとしても、見つけられないのは、何が邪魔しているのか。確認しようと戻ること自体が妨げなのか。思いなおすと、同じはずの道も、ちがう道になっていて、ちがうことばにひっかかりながら、ちがう方向に逸れているのか。
墨を少なめに浸けた筆で曲線をすばやく辿る。飛白、掠れ。速さ、不安定、変化。そのように、一枚の楽譜を読み、何回も読みなおす。反復ではなく、毎回偶然にちがう表れが、どことなく似ている。ウィトゲンシュタインの「家族的類似」というような。