申年の失敗

高橋悠治

去った申年もまた いくつかの失敗をかさねて終わった

もともと1960年代に草月アートセンターで 前衛の作曲家として出発したはずが 
求められるのは他の作曲家の曲の初演で それらはほとんど終演を兼ねていた 9年間ヨーロッパに行きアメリカに行ったが おなじことだった 現代音楽専門の演奏家はどこでもすくなく しごとは多く 生活は貧しかった それらのしごとも ベトナム戦争の末期には外国人にはまわってこなくなったので 東京にもどって やりなおし しかたなくバッハを弾いていた

そう思っていたが 最近出版された柴田南雄の『音楽界の手帳』を見ると 1970年代には オーケストラもコーラスも使って作品を書き ピアノもクセナキス ケージだけでなく ジェフスキーもアイスラーも弾いていた

いまはケージやクセナキスを演奏する人も多いし 分析されて研究書もあり アカデミーでも教えられている その頃なじんでいた「現代音楽」をたまに聞きなおすと なぜこんなものに惹かれていたのか と思うことさえある 音楽が変わったのか こちらが変わったのか 両方か ユーモアのかけらもなく 無用に複雑で 極端な対照効果と超絶技巧を見せびらかす音楽 個性を売り物にしてくりかえし 単調になってしまった響き 作曲家にとって技術的安定や熟練だけでなく 社会的地位と経済の安定は いい結果にならない ケージやクセナキスや武満も 理解者がすくなく 生活もたいへんだった初期の作品は いまも新鮮な発見で輝いている

しごとを減らし 収入を低く抑え ひとの先に立たなければ 時間もともだちもできる(老子67章) 現実は思いのままにはいかないが そのたびに決めなおし 折り合いをつける 原則はもたず いやなことはしないで済めば それでいいとしなければなるまい

マーケットでまず成功してから 獲得した地位や権力と機会を使って本来のしごとができると思うのはまちがいだと思う 成功した後では「本来」が何だったのかわからなくなっているかもしれないし 作られた「自分」を演じつづけなければ マーケットから見捨てられる

成功がじつは失敗である もうひとつの理由は あまり働くと むだな収入が増えるばかりか 税金にとられ 健康保険が高くなり 年金が減る こんな国のこんな政府が使うための税金は払わないで といっても 脱税するために時間と労力をかけるのもおろかだから わずかな収入は銀行に預金するより 現金のまま 早く使ってしまうのがいいかもしれない 狭い家をガラクタで塞ぐ買い物ではなく ともだちと飲んでしまうのがいいが 残念なことに 体力が衰えている

ふと気づくと 17世紀のパーセルやルイとフランソワのクープラン フローベルガー 18世紀のバッハ 19世紀のシューベルト 20世紀前半のブゾーニ サティ ストラヴィンスキー アイスラーくらいしか弾きたいものがなくなっていた 現在形の音楽を演奏していたのに いつからこうなったのだろう このままではしかたがない

1960年代の前衛をその頃にいなかった人たちが研究するのはいいとして こちらとしては 自分の過去を振り返っても何も出てこない では 2010年代の音楽はどこにあるのだろう 若い世代の作曲家をざっと見ても 使い古されたノイズと空虚な大音響 顔のない電子音 ポストなんとか ニューかんとか 日本では それに加えて時代遅れのTVのような 批判のない 体制寄りで大声の空虚なお笑い音楽 政治家同様に音楽家も自分から鎖にすりよるポチが多い時代なのか(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷属論』)それとも どうしようもなくなってから やっと変革が起こるのか まだ知られていないこの時代の音楽が どこかに隠れているのだろうか 

こどもの頃 ケージやロスラヴェッツやクセナキスは名前でしかなかった 易のよる音楽も合成和音も確率による音楽も知ったのはずっと後になる だが 知りたくても情報がないのなら 自分で作るよりない 易や合成和音も確率音楽も自分で考えだしたやりかたで書いてみた ユイスマンスの『さかしま』のなかで デゼッサントが収集したアートに囲まれて暮らし 手に入らないアート作品はそれらしいものを自分で作った と読んで それに倣ったわけだが 後になって『さかしま』を読んだら そんなことは書いてなかった 『さかしま』のことは セシル・グレイのブゾーニ論(大田黒元雄訳『現代音楽概観』)で読んだはずだが かなり後でブゾーニを弾くようになると それも記憶ちがいだったのかもしれないと思う 楽譜が手に入るようになってから ケージ ロスラヴェッツ クセナキスの作品を見ると 想像していたのとはまったくちがっていた こうして模倣者ではなく むしろニセモノ造り オリジナルとはまったくにていない サルにもなれないサル ニセモノとも言えないニセモノ造り として出発したのだから 音楽の現在も自分で偽造するよりないのだろうか 

ここで 読んだことのない小説からの引用で 一応しめくくろう
「私は何一つ創造することができなかった。しかし、モデルを相手に、こんなポーズを取ってくれ、こんな表情をしてくれと注文する画家のように、私は現実の前に立っている。だから、社会が私に提供してくれるモデルは、それが何によって動かされるかがわかれば、私の意のままに動かすことができる。少くとも遅疑逡巡しているモデルにある問題を提出することができる。モデルは彼らなりにそれを解決するだろうから、彼らの反応の仕方によって得るところがあるはずだ。自分が小説家なればこそ、彼らの運命に介入したり働きかけたりしたい欲求に悩まされるのだ。もし私にもっと想像力があれば、複雑な筋を仕組むことだろう。どころが、私はそういうやり方に反旗をひるがえし、まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進めるのだ。」(ジイド『贋金つくり』)