未来はわからない。そこがよいところかもしれない。音楽は作られ、演奏され、あるいは即興される。どれもその時の刻印が押されている。楽譜に書かれた音楽は、記号の集まりとして残される。それらを読んで音に変えるには、その時代のやり方がある。それを時代のスタイルと呼ぶなら、それがあるから同時代の人びとと共有できる音楽も、時が経つと、スタイルが共感を妨げることになる。
同じ記号から別の何かを読み取ることは、どんな音楽でもできることではないだろう。その時が来ないうちに、違う読み方を思いつくわけにもいかない。記号の意味とは別に、それが読まれるニュアンスの、ほとんど気づかない小さな違いに、全体を変えてしまう発見が隠れていることもある。それは論理ではなく、身体の「揺れ」、「揺らぎ」、呼吸の波に乗って漂うような動きになって顕れる。
音楽をする前の準備、楽譜や楽器、手や身体の動き、音やリズムでさえも、目に見えない動きの影をなぞる跡に過ぎない。そうした影を手がかりにして近づく見えない動きは、聴く人の心に映り、そのリズムが聴く身体を揺することと信じて、演奏している瞬間は、前も後もないその時だけのもの。そんな瞬間が、日常のほんの短い時間に混ざり込んでいるのが、音楽家の日々なのかもしれない。
時代のスタイルが変わる時が来る。音楽を始めた1950年代から70年も経ってしまうと、同じことを続けてはいられない。知らない響きや、リズムを見つけては試してみる。知っている音楽も、違うスタイルで演奏してみる。目標もなく、完成もない、いつでも道の途中。