一回性という「眩暈」

越川道夫

この冬が例年に比べて寒いのか暖かいのか、自分ではさっぱりわからない。携帯電話の写真のリールにはずっと撮り溜めている植物の写真があって、例えば昨年の今頃、私の住む辺りではもう水仙が白いのも黄色いのも随分と咲いているようなのだが、今年はまださっぱりである。蝋梅もちらほら咲いていたようだが、この冬の蕾はまだ固く閉じたままだ。一昨年の写真を見れば、霜柱が立ち、池の氷も張っているのに、日当たりの良い場所ではオオイヌノフグリが咲き始めている。起きるのが遅いだけなのかもしれないが、今年は霜柱もろくに踏んでいなければ、池に氷が張ったという話も聞かない。にもかかわらず、どんなに路肩を覗き込んでも、オオイヌノフグリが咲く気配は全く見えない。毎年のこの違いが楽しい。うちの方ではさっぱりですが、このあたりはずいぶんと咲いていますね、などという会話ができるのもいい。考えてみれば当たり前なのだけれど、花が咲くとか咲かないとか、今年は早いとか遅いとかは、ただ単に気温が高いとか低いとかそういうことだけではないのだろう。気温や日当たり、湿度、土の状態、個体差もあれば、人為的な何か影響もあれば、前年の種のつき方などさまざまなものの働きかけによって、今、このような状態になっているのだから。
 
「このようにして、様々な気候、季節、音群、色彩の群れ、闇、光、元素群、養分、ざわめき、沈黙、運動、休止、それら全てがわれわれの身体という機械そして魂に働きかけている」と書いたのはルソーだったか。この総体を私たちは「一回性」と呼ぶのだろう。若い頃、映画館で35mmフィルムの映写技師をしている時、何度「同じ映画を映写」しても、一度も「同じ映写はない」と感じていた。「もの」であるフィルムは、「その日」の気温や湿度や、様々な条件に影響され、それはやはり「もの」である映写機やスクリーンも同じことで、しかも映写機から出た光が通過する映画館の中の空気もまた、というわけで、スクリーン上の「像」はその度ごとに艶や見え方が違うし、音も聞こえ方も違う。このような諸条件の「総体」が、と言ってしまえば一言で済んでしまいそうだが、この諸条件の組み合わせは無限にあり、完全に一致する、ということはない。例えば、1、2と数えた時に、その1と2の間には無限の階調があり、数値で何かを考えることは、必ずその数値と数値の間にある階調や揺らぎを無視することであり、どんなに数値を細かくしたところで、その数値と数値の間には隙間があって、そこにはやはり無限の階調があり、決して数値的に捉え切ることはできない。だから「総体」などと言って澄ましているわけにはいかず、「一回性」を考えるということは、まるでブラックホールに吸い込まれてしまうような「物事の奥行き」に、その深淵に眩暈を起こしながら対峙する、ということではなかろうか。
 
携帯電話の写真リールは、日記を言葉で書くことができない私にとって、ある種の日記の役割を果たしてくれている。去年はもう咲いていたのに今年はまだなのだな、とか、去年はあまりカラウスリが実をつけなかったが今年は、とか、その気が遠くなるような「一回性」に思いを運んでくれるのである。そして、今日もまた近隣の林を歩きに行き、その道道の路肩にしゃがみ込んでは植物を撮り、野良猫たちを撮り、空や樹樹を見上げては写真を撮る。なぜ撮るかに関してはいろいろあるのだけれど、また。ただ、数年前、自分を含めて人間の愚かしさに愛想が尽き、もう人間は撮らない、と決めたのだ。今また、それを強く思わざるを得ない。映画の仕事をしていれば人間を撮らないというわけにはいかないので、もちろん個人的にということになるのだが、あまりにも植物を撮る時と人間を撮る時の密度が違う、と笑われたことがある。私にとっては植物を愛するように、人間を愛することができるかという課題を得たわけである。