翳りと「ことば」 

高橋悠治

ある時代、ある地域に生きるひとたちの考え方は、抽象的な論理だけではなく、なかば意識されない翳りを帯びている。読む本や聴く音楽、食べもの飲物の好みも、個人的な好みとだけ言えない共通点がなければ、おなじ時間おなじ場所で過ごすこともなく、それができる場所もなければ、ズームや電話だけのつきあいは、代用でしかない。それなのに、この3年間は、外に出て人と会うこともないのがあたりまえのようになり、それと同時に、国家の力が強くなった。グローバリズムはもう流行らない。いま考えるとそう言われていたものは、アメリカを中心とする世界を前提としたものでしかなかったのではないだろうか。言論の自由や民主主義と言われたものだって、アメリカ中心でなければなんだったのか。ジャーナリズムもいまでは、自由に考えることをさせないためのウソでなければ、ひとをうごかすことのできない「ことば」にすぎない。「ことば」にすぎないことばは、ことばと言えるだろうか。
日本で報道されることは、アメリカに監視されているのか、それとも日本の報道企業が
忖度し、管理しているのか。日本のできごとは、日本では報道されなくても、他国のニュースでわかる。いまのところ、外国の報道を読むことはできる。(いつまでか?)
しかし何か言えば、匿名の非難が返ってくる。日本では、戦前に亡命できたひとはすくなかった。いまは、もっときびしいだろう。アメリカやドイツでも、むつかしくなってきているようだ。スノウデンは亡命したまま、アサンジは投獄されたまま、ブラジルやメキシコに移ることさえできない。日本や韓国で言えることは限られている、というより、無力な「ことば」であるうちは、言うことが許されている。

ところで、音楽はことばではない。もちろんことばと結ばれた「うた」はあるけれど、いま「うたう」音楽はうつろにひびく。語る、つぶやく、ささやく音の、あるいは、音ではなく、音の消えかけた響きの、「余韻」といおうか、そのような音の影の喚び起こすなにか、余韻の時間、余韻の空間、そのなかでうごめく心、そこで…