耳から手にわたす

高橋悠治

3ヶ月前に書いた『時間のキュビズム』の続きになるが、時間/空間というカテゴリーで考えることも、音楽の場合は「たとえ」にすぎない、創られ現われた音を測られる空間のなかの点や線として視覚化して扱うのは便利ではあっても、失われるのは、音を作り、保ち、消すか消えるにまかせる身体の動きとその感触・体感ではないだろうか。

考えるのではなく、感じつづける状態、ある一瞬に始まり、すぐにうつろい消える音を造る意志よりは、身体がゆるむにつれて、どこからか顕れ、誘いかける窪み、指圧や鍼灸でいうツボに向かって指が吸い寄せられるように、風や水が流れこみ、そこに溜まってまた流れ出すように、たゆたう線が途切れがちに、あてどなく過ぎてゆく。夢をイメ(寝目)と読んだむかしの、さまよう旅のひと。

息がかよう狭い小径、ゆったりした拍がさらにかぼそく、感じるともなく気配にまで鎮まって、身体の内側に感じるよりは、外の世界のどこかに遠ざかってゆく。その瞬きを追うともなく、追ってゆくとき。掠れてまばらに散るしるし、兆しなのか…

それが江戸の「邦楽」や能(申楽)で「間」と言われたものかもしれない。間は「あいだ」、余白、それだけでは立っていられない、応えを呼ぶ「欠けた」まま立ちすくんでいるところと言っていいだろうか。そこで断ち切れば、かえって余韻に想像のはたらくゆとりが残るのだろうか。

こうして書くだけではわからない、音楽は音楽学ではないから、実際に試してみないと、わからないことがある。自分でわかるだけではなく、それを文字にしても、書かれたこととはちがう想像を誘わなければ、書かない方がましになるかもしれない。「自分でわかっている」というのも、思い込みに過ぎないのは、あたりまえ。

次には、もうすこし続きを書けるだろうか…