辿りと見計らい

高橋悠治

全体の構成から部分へ降りてゆくのではなく、思いついた小さな形を辿る動きからはじめて、その動きをくりかえすとき、指がすこし逸れてしまう。「すこし」を見計らいながら、辿り続ける跡に残る一本の線。

また「すこし」離れた場所から、もう一つの「形」を辿る別な指。音の高さを縦軸に取り、横軸を時間として描く図を思い浮かべてみると、そこからはじまる音楽は、構成ではなく、即興でありながら、続く部分、「先を見通せない」線の流れ。

線は過ぎ去るかと思えば、まためぐる。「めぐる」とき、一つの物を囲むときもあれば、あちこちをさまよい歩くこともあり、もとに返ることはなくてもよいだろう。さまよった末、もとに返れば、全体が生まれ、完結して静まる。そういう音楽はいままで多かった。冒険の果て、一段と強く大きくなった姿を見せて終わる。19世紀のヨーロッパ音楽、シンフォニー、コンチェルト、大編成オーケストラの響き、争い、競争、支配の音楽。

そうした装置を引き継ぎながら、それらを別な方向に動かすやりかたがあるのだろうか。19世紀から20世紀前半まで続いた音楽の革命は、1930年代の新古典主義に統合されて、そこから抜け出す道は、なかなか見つからないように見える。

1968年からはじまった反逆の試みも、90年代までに回収されたのではないだろうか。いわゆる「グローバリズム」は、拡大した国家主義の姿だったのか。

思いつかないままに、ことばに残す。これはだが、ほんの準備段階にすぎない。とりあえずは、思いついた動きを書き留めておく。「形」は「動き」の省略記号。読み取り、指を動かす、その感触から、「ふと姿が浮かぶ」(各務支考『俳諧古今抄』)次の音。無心所着。

これは言葉だった。次は音で試してみよう。