水牛的読書日記2023年9月

アサノタカオ

8月某日 「水牛的読書日記2023年8月」はお休みしました。8月後半は新型コロナウイルスに感染し、自宅療養。幸い重症化することはなく、療養中は自室に引きこもり、ベッドの上で姜信子さんの『語りと祈り』(みすず書房)をひたすら読み続けた。旅する作家が訪ねる説教、祭文、瞽女唄、浪曲の世界、あるいは足尾銅山、水俣、離散民の地。「近代」という力に抗う無数の声たちの渦に、心がのみこまれた。熱っぽいからだで姜さんの本にじっくり向き合う読書の時間は、特別な体験になった。この本についての感想は、いつか書きたい。

9月某日 関東大震災100年。戸井田道三の自伝『生きることに〇×はない』(新泉社)を読み返す。最終章は「ゆれる大地、関東大震災」。百年前、14歳の戸井田少年は神奈川・辻堂で被災し、藤沢〜茅ヶ崎間で起こった朝鮮人虐殺について語っている。次の引用は、凄惨な虐殺の場面をめぐる証言につづく自己反省の文章だ。

《大沢商店へ炭とまきを買いにいったとき、おやじさんが「朝鮮人が攻めてくる」と真剣にバリケードをつくっているのを見て、一種の恐怖心をもちました。わたしは、そのときの自分がたった十四歳の少年だからといって自分を許すことができません。……
 林蔵さんの話がウソかホントウかを問題にしているのではありません。朝鮮人を虐殺したという歴史事実があったこと、そのときに流言飛語をわたしが否定する判断力をもっていなかったということについて、自分を問題にしているのです。》

「自分を許すことができません」「自分を問題にしているのです」。戸井田のこの厳しいことばを深く胸に刻んでおきたい。ところで震災直後、かれは東京・青山の親戚宅へ避難した。そこで「朝鮮人を警戒しろ」という「デマ」を記した謄写版の通知書を見て、それを置いていったのは参謀本部の軍人だったとも語っている(いとこからの伝聞として、それはのちにインパール作戦を指揮した牟田口中将だったようだ)。これも貴重な証言だと思う。

9月某日 早稲田大学で開催されたカルチュラル・スタディーズ学会「CulturalTyphoon2023」に大学生の娘と参加。お目当てのシンポジウムは初日の「東アジアにおける新しい戦(中)前とフェミニズムをめぐる対話——陳光興をむかえて」、2日目の「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」。台湾の文化研究の重鎮・陳光興氏の発表は、「母の力」が戦争に抗うものになるかを問う論争的な内容。会場をさすらう陳光興氏の風貌が、黄色いサングラスのヒッピー風だったことが印象にのこった。

「CulturalTyphoon2023」の会場では、砂守かずらさんが企画制作した映像作品『Drifting Islands, Still Water』を鑑賞した。砂守かずらさんの父で沖縄出身の写真家、故・砂守勝巳の写真と文章から構成され、音も付けられている。いくつかの強烈なイメージと言葉が心に残った。会場の入り口では、『ははの声』という砂守さんと木村奈緒さんの展示も開催されていて、母親である女性たちを木村さんが撮影したポートレート「声をさがして」も見応えあり。

「未知の駅」を主宰する諌山三武さんのZINE SALONのブースを見つけて、諌山さんとひさしぶりにおしゃべり。池田理知子さん編『MCDスタディーズ——福岡+みつめる』(未知の駅)を購入した。

9月某日 「CulturalTyphoon2023」の2日目は娘だけが会場参加をしたので、「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」での高井ゆと里さん、三木那由他さん、水上文さんの発表については帰宅した娘から感想を聞きつつ、アーカイブ動画を視聴。その後、うちにある『すばる』8月号の特集「トランスジェンダーの物語」での高井さん、三木さんのエッセイ、『文藝』での水上さんの文芸季評を読んだ。

9月某日 香川から東京に来ている写真家の宮脇慎太郎くん、『香川のモスクができるまで』(晶文社)の著者・岡内大三さん、Wさんと待ち合わせ、三鷹市美術ギャラリーへ。宮脇くんの紹介で知り合った新田樹さんの写真展「Sakhalin」を鑑賞。写真集もすばらしかったが、オリジナルプリントで見る光の美しさに息をのんだ。サハリンに暮らす残留朝鮮人たちの肖像。寡黙な表情と静謐な風景のなかに旅の記憶の襞がいくつも折りたたまれていて、胸を打たれた。

新田さんの写真集『Sakhalin』(ミーシャズプレス)は第47回木村伊兵衛写真賞と第31回林忠彦賞をW受賞。今回の写真展は林忠彦賞受賞記念の企画で、会場にいた林さんに「おめでとうございます」と直接伝えることができてよかった。

9月某日 東京・三鷹の UNITÉ を訪問。宮地尚子さん&村上靖彦さんの対談集『とまる、はずす、きえる——ケアとトラウマと時間について』(青土社)を購入。お店の前では、秋祭りの神輿の行列ができていた。ついで荻窪の本屋Title へ。こちらでは宇田智子さんの『三年九か月三日——那覇市第一牧志公設市場を待ちながら』(市場の古本屋ウララ)を入手。リトルプレスのコーナーでみつけた貴重な一冊。

9月某日 東京・新小岩の「にこわ新小岩」で開催された本の展示販売会「TOKYO ポエケット」にサウダージ・ブックスとして出展。詩人のヤリタミサコさんにお誘いいただいたのだった。会場ではポエトリー・リーディングのイベントもおこなわれ、とりわけ浦歌無子さんとヤリタさんの共演による詩の朗読に感銘を受ける。会場で、浦さんの詩集『光る背骨』(七月堂)を購入。さっそく帰路の電車で読み、伊藤野枝をテーマにした作品「大杉栄へ——そのときあなたはもっと生きる」などに圧倒された。

そのほか入手した本やZINEは、ヤリタミサコさん&向山守さん編訳『カミングズの詩を遊ぶ』(水声社)、服部剛さん『我が家に天使がやってきた』(文治堂書店)、『カナリア』6号、サトミセキさん『リトアニア〜ラトビア バルト三国の時間を旅する』、『mini・fumi』40号。

9月某日 朝、近所のカフェで編集の仕事をした後に江ノ島の海辺を散策した。打ち寄せる波が生ぬるい。ビーチサンダルで歩けるあいだは、まだ夏。

9月某日 斎藤真理子さんのエッセイ集『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)を読む。タイトルが最高にすばらしい。頁と頁のあいだに挟まれた栞は、書物の内にある作品世界をぴしっとまっすぐ貫いていて、同時に書物の外に飛び出したスピンの先は時代や社会の風に吹かれてちいさく揺れてもいる。そんな「栞」のイメージは、「読書」をテーマにしたこの本の内容にぴったりだと思う。

『本の栞にぶら下がる』のもとになった『図書』の連載を読んでいたが、一冊の本としてあらためて通読。すると、韓国文学の翻訳者である斎藤さんが、世界の文学を遠望しつつ、「近代」という時代と社会において暗い影が落ちるところ(戦争、疫病、差別……)から聞こえる小さな声に注意深く耳を傾ける姿がよりはっきりと見えてきて、背筋が伸びた。

永山則夫や茨木のり子やジョージ・オーウェルについて。朝鮮・韓国の文学について、植民地時代の日韓の作家の交流とすれ違いについて、沖縄や炭鉱の文学について、多くを学ぶことができた。その他にも、いぬいとみこや森村桂やマダム・マサコなど、自分が知らなかった女性作家たちの存在に触れられて、うれしかった。

思い出す、古い本たちのこと。人生のさまざまな場面で読書をする斎藤さんの姿を通じて、かつてある「時代」が人間の心に何かを刻んでいった消息を知り、それが時を隔てていまを生きる自分が抱える問いを予見していたようにも感じられ、いろいろな思いを反芻している。読みどころは本当にたくさんあるのだけど、「「かるた」と「ふりかけ」——鶴見俊輔の断片の味」という一編が、いまのところ自分にとってこの本の「おへそ」かな。 

9月某日 今月から明星大学で編集論の授業がはじまった。授業後の夜、大学図書館で、木島始の詩やエッセイを拾い読み。学生時代、ラングストン・ヒューズの詩をかれの翻訳で読んで理解したつもりになっていたのだが、自分が読んでいるのはヒューズその人というよりは《詩人・木島始》のことばなのかもしれないと、あるとき思い当たった。同じころに、野村修のベンヤミンやエンツェンスベルガー、片桐ユズルさんと中山容のボブ・ディランの翻訳なども夢中になって読んでいた。藤本和子さんによる数々のアメリカ文学の翻訳にもその流れで出会ったのだと思う。こうした尊敬する翻訳文学者たちのことばは、いまもたしかに身に残っていると感じる。

9月某日 台湾の文学研究者・朱恵足さんから郵便が届く。なんだろうと思って封をあけると、『越境広場』12号。沖縄発の雑誌が台湾を経由して海を渡ってやってきた。朱さんの論考「ひと昔前の「台湾有事」を振り返る——金門島の視点から」が掲載。川田文子著『赤瓦の家——朝鮮から来た従軍慰安婦』から引かれた、巻頭のぺ・ポンギさんのことばから読む。今号には、姜信子さん『語りと祈り』の書評(評者は呉屋淳子さん)も載っている。

9月某日 大学の授業で、毎年恒例、ビブリオバトル形式の好きな本の書評発表会を開催。今年は小説やエッセイのほかに、人文社会の本(日本語学、環境問題など)もいくつか紹介されたのが新しい傾向。知らない本ばかりで、学生のみなさんの書評を読んで学びます。

9月某日 HIBIUTA AND COMPANYでの自主読書ゼミ「やわらかくひろげる」。宮内勝典さん『ぼくは始祖鳥になりたい』(集英社文庫)の第2章を参加者とともに読む。移民の歴史や人種差別について、科学とアニミズムについて、色彩について、人物の名前や詩的な表現について。今月、ぼくはオンラインの参加だったが、来月は三重・津のHIBIUTAに行く予定。

9月某日 朝日カルチャーセンター新宿教室にて、今福龍太先生の「記憶と忘却の身体哲学——戸井田道三の〈前-言語〉的世界」を聴講。最終回となる第3回テーマは「戸井田道三と沖縄」。比嘉康雄さん撮影、1978年久高島のイザイホーの写真をよく見ると見物人の席に、民俗学者としての顔も持つ戸井田翁が座っている。その隣の隣に黒頭巾姿の作家・石牟礼道子さん。イザイホーは12年に一度おこなわれる島の女性たちの神事で、この年が最後の開催となった。

9月某日 最寄りの本屋さんである神奈川・大船のポルベニールブックストアで『本の栞にぶら下がる』発売記念、斎藤真理子さんのトークイベントが開催。不肖ながら聞き手を務めることになった。イベント当日の夕方、リュックサックに付箋だらけの斎藤さんの本と資料を詰め込んで、「あれも聞きたい、これも聞いてみよう」と渦巻く頭の中を整理し、心を落ち着かせるために自宅からゆっくり歩いてお店へ向かう。トークについては終わったばかりなので、あらためて報告したいと思います。