連綿と散らし

高橋悠治

湿気と暑さのなかで無気力に過ごした7月も終わり、演奏はしばらくないが、作曲の予定は遅れるばかり。今までとちがうことをしようと思っても、やさしくはない。

1950年代の終わりにコンサートで、当時のゲンダイ音楽を弾くようになったのは偶然だった。武満徹や一柳慧を知ったのも、草月アートセンターで演奏しながらクセナキスやケージと会ったのも、その続きだった。今はもうおなじことはやらないし、時代も感覚も変わった。演奏技術は衰えていく。といって、当時の音楽をちがう眼(耳というべきか、それとも手の触りといったほうがよいのか)で作り直す時期はまだ来ていない気がする。いままでやってきたことの外側に新しい足場をさぐるのが先か。 

構成・構造・システム・方法ではなく、論理や精神ではなく、目標や方向でもなく、手で探りながら、すこしずつ移り、映し・写し、安定しない・止まらない・終わらない、うごき、変わり続けるには、中心を作らず、言うより聞き、言いさし・言い残し・言い直し、点でなく、線でなく、ひとひら、仮止め、ためらい、ゆらぎ、くずれ、そ れ、はぐれ、…

中途で止め、間をおいて続ける。中途だとわかるように、未完成で仮の姿と見せるのが、ひとたび置いてしまうと、むつかしい。

ひとたび同じであることなしに、どうして変わることができるのか。

虫の歩みとひらけていく空間。かすかなうごきに焦点をあわせることが、そのまわりにひろがる、何もない空間の大きさを感じるように、吊り橋を渡る次の一足を置くところを見定めるうごきが、足元の谷の深さを感じさせるのは、脈打つ時間の経過が、曇り空の深さとなるのは、どのような指先の振動か。

そうしてしばらく探りを入れたあとの、何も考えず、何にもこだわらず、何の意味づけもなく、遅すぎず速すぎず、むしろゆっくりでも速くもない、と言って一定とも言えないが、淀みも乱れも見えない、ただ過ぎてゆく流れ、いつか起こり、いつか消えて、かたちではなく、消えかける名残の響きを留める記憶の移ろいを。