音を手渡す

高橋悠治

ジュリア・スーのために書いたピアノ曲『夢蝶』のおかげで莊子を思い出した 偶然見つけた陳育紅の詩『印象』は周夢蝶の病後の印象 やせほそり/線香/けむり/雨ひとすじ/柳の枝/芦の茎/冬の太陽のようにほそり という回復のプロセス そのなかの芯のしなやかさが 甲虫の触角のような世界へのかかわりと しっかりした骨組みを失わない この詩の呼び起こすイメージを音で想像してみるうちに 周夢蝶という名から莊子の斉物論篇の「蝶の夢」を読み返した 荘周と蝶はちがう世界を生きている そうした物の変化は 人が蝶になるように記憶をつみあげるのではなく 忘れることで別な世界が立ち上がる それを音楽とすると こんな曲もできるかもしれない

自分で弾かないで 他のピアニストに渡したのははじめてだと思う それからジュリア・スーの演奏を聞いたとき 自分の楽譜は見なかった ことばで説明もしなかった これも莊子の物化に倣ったと言えるかもしれない

拍のような外側の時間尺度にしばられず 相身互いですすむ楽譜にも その都度のやりかたがある ひところのように作曲家の論理で図形楽譜を作ることはしないで 演奏者が慣れた記譜法をすこし変えて使い お互いの音符の長さが合わないようにしてあれば 自然と拍から離れる senza tempo という指定もできるが 何も書かなくてもそうなれば もっといい

大きなアンサンブルでは そうはいかない 指揮者がそこにいる さてどうするか いろいろためしてみたが なかなかむつかしい 田中信昭のように長くいっしょにしごとをした人には何も言わない 一度演奏された曲は 他の人が再演しても やりかたの一部は受け継がれる そうでないと……

東京佼成ウインドオーケストラの委嘱で『透影』を書いた それぞれの楽器の音が聞こえるように タイミングをずらす 最初3連音や5連音を使って書いたが 拍の始まりだけがいっしょになるのと 楽譜が無用に複雑になるので すべて16分音符で書き 演奏者が自分の感じでタイミングを早めたりおくらせて ずれをつくり さらに指揮者がテンポを不安定にするように指定してみた 

透影は几帳に映る人影 寝殿造の室内は足元の灯台しかなく 几帳は個別に置いていたらしい

最初の練習に参加して希望を伝えると 個々の演奏者については問題がなかったが 指揮者が管理をゆるめ きこえてくる音に反応してテンポを変えるほうは なかなかむつかしかった 指導をやめて司会進行役をつとめるのは職業倫理に反するのかもしれない 均等に書かれた楽譜を ロックのような16ビートにせず リズムやテンポをたえず崩していくのも そろって書かれている音符をばらばらにするのも 指揮する身体には耐えられないのかもしれない

オーケストラと指揮者は対面している 自立した音響体であるオーケストラに 指揮者が外部から介入して システムをかき乱す これはオートポイエーシスからまなんだやりかただが 数世紀の経験をもつ現実のシステムを変えるのは 別なシステムを立ち上げるよりむつかしい

それでも コントラバス・クラリネットやバストロンボーンの荒々しい低音 ピッコロ・トランペットや木鉦の切り裂くような高音をひさしぶりに聞いたのは クセナキスを演奏していた頃のような内蔵の快感ではあった

莊子秋水篇には「魚の楽しみ」がある 魚でないのに どうして魚の楽しみがわかるのか 論理ではない 感覚でもない 魚と荘周が近くにいて ちがう楽しみを生きている 直感も神秘もない